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日本キリスト教団

 かまくらおんちょう
鎌倉恩寵教会

「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々があなたがたの
立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」

(マタイによる福音書5章16節)

励まし合うこと

ルカによる福音書8章2639

  選ばせて頂いた聖書の箇所には、悪霊に取り憑かれていた人を墓場で鎖につなぎ、そして足かせをはめて監視していたという、とてもショッキングな状況が描かれています。生きている人間を墓場に拘束して皆で見張っているのです。
 新型コロナ・ウィルスの感染拡大によって緊急事態宣言のもと、自粛が呼びかけられています。
 この自粛ムードの中、頻繁に「自粛警察」という言葉を聞くようになりました。休業したくても出来ない飲食店などが営業を続けていると、自粛を強要する張り紙や落書きがされるという事態や他府県ナンバーの車を見つけると傷を付けたり、張り紙や落書きをして自粛をすることを強いる行為が沢山起こっていることです。車で越境する方の中には仕事の方もいるそうです。確かに今自粛は必要でしょう。けれども死活問題や緊急時の場合もあることは確かです。なぜ、自粛をしたくても出来ないのかとは保証や給付金、それぞれへの支援対策がなされていない政府の対応のまずさが露呈しています。
 多くの方々が真面目に自粛をしています。でもこの先、どうなるのかとの不安の中でストレスが溜まっていくのが皆の心境です。そこでは私も頑張っているのにとの真面目な気持ちが、「自粛」というものを逸脱していく人を快く思えなくなっていくようです。そのような状況が個々人をそれぞれが監視し、批判や排除という形で噴出している状態です。そして今回の新型コロナ・ウィルスは、今社会を「監視社会」にさせているようです。
 「監視社会」を解明したのはフランスの哲学者ミシェル・フーコーです。フーコーが1974年に出した「監獄の誕生―監視と処罰―」という書物の中で「パノプティコン=一望監視装置」という言葉で説明しています。例えばウィルスの感染が拡大しないようにと「自粛」が呼びかけられます。すると途端に外出を控えること、自宅で仕事をすること、お店は休むこと、3密を避けること等々が、誰もが気をつけるべき「当然の所作」となっていきます。この「当然の所作」が、社会の中で「標準」となってしまうのです。そして、ここから逸脱する存在を監視し、批判、排除する心理が働くのです。今回の事態も「自粛の呼びかけ」に過ぎないのですが、ウィルスの感染による恐怖や不安が、人間の心理を逸脱する人間を監視させてしまう「パノプティコン=一望監視装置」へと変貌させているのです。この最悪の事態が戦時下の日本社会でした。フーコーが指摘するように人間がパノプティコンとなることが、権力にとって最も都合のいい監視体制なのです。
 更に、ノルウェーの社会学者トマス・マシーセンはフーコーの「パノプティコン」から「シノプティコン」という相互監視という事態を語っています。これはネット時代を反映した現代を表現しているのですが、問題は監視する者は監視もされるという事です。
 新型コロナ・ウィルスという未知なる小さな存在は、国や社会における政治や経済、教育や家庭、個々人の問題など、人間の持つ弱さや破れ、足りなさや過ちを次々と露呈させています。世界中が混乱と不安と恐怖に落とされています。こうした危機的な状況下や不安な時、あるいは行き詰まった時など、よく古典に帰れと言われます。
 聖書は古典中の古典です。選ばせていただいた聖書の箇所は、まさに古典に帰れというお手本のような箇所ではないかと思うのです。
 この箇所の29節で使用されている「監視する」という言葉は新約聖書の原語で「シネーコウ」と言います。他に「行動を共にする、見張る、板挟みになる、苦しむ、病む」等の意味があります。「シネーコウ」という言葉は「シン」という「共に、一緒に」を含む合成語になっていますで、共に監視する、つまり監視をすることと監視をされることが表裏一体となっていると言ってよいでしょう。
 そして37節に注目です。イエスが悪霊に取り憑かれていた人物を癒やし、解き放った後、悪霊に取り憑かれていた人を監視していた人々は「すっかり恐れに取りつかれて」しまいました。「監視する=シネーコウ」には「板挟みになる、苦しむ、病む」という意味もあります。監視していた者たちは、監視され、皆共に恐怖に板挟みとなり、皆共に恐れに苦しむようになり、そしてこの後、皆共に病んでいくのかも知れません。
 この箇所はイエスが人間を癒やし、解き放っていくという出来事が語られていますが、少し視点を変えて監視をしていた人々の姿に注目をすると、監視を軸として皆が板挟みとなり、皆が苦しんでいくという今私たちが置かれている状況が映し出されてもいるのです。
 では、この事態に私たちは一体どうしたら良いのでしょうか。ローマの信徒への手紙1章12節でパウロはローマの教会の人々に「あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです」と伝えています。ここでパウロが使っている「励ます」という言葉は原語で「シンパラカレイオウ」といって、これも「シン」を含む合成語になっています。「共に励ます、一緒に励まし合う」という意味となります。人を励ます者は、きっと人から励ましを受けるのでしょう。また「慰める」という意味も持っていますので、人を慰める者は、きっと人から優しく慰められるのでしょう。励ましと慰めも相互的に表裏一体となっているようです。聖書という古典は、今の状況を切り開いて行くヒントがちりばめられているのではないでしょうか。
 困難な状況だからこそ、私たちは古典である聖書に立ち帰り、共に励まし合い、共に支え合い、共に祈り合い、共に慰め合って、この時を過ごして行きたいものです。

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お知らせ

 この度の新型コロナ・ウィルス感染拡大を鑑み、当鎌倉恩寵教会は日曜日の礼拝、祈祷会、地域家庭集会など集会や委員会を当分の間、お休みとします。一日も早く終息しますよう心からお祈りしております。

鎌倉恩寵教会 役員会一同
牧師 渡辺誉一