日本キリスト教団

印刷用表示 |テキストサイズ 小 |中 |大 |

...文字サイズ調整ボタン....

今週のメッセージ

「限りなき恵みの中を」


「限りなき恵みの中を」ペトロの手紙Ⅰ四章七~十一節

 「万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を謹んで、よく祈りなさい」という一句は、これまで様々な理解を生み出してきました。万物の終わりが迫るという言葉を聞いて、皆さんはどう思い、何をお感じになられるでしょうか。変わることのない人間の罪なる姿と、どうにもならない現実を感じ、本当に人類の上に神の裁きが起きても何の不思議はないと思われるでしょうか。
 もうすぐ神の裁きがやって来て、世の中は終わってしまうと説くキリスト教の一派があります。世の終わりを待ち望む、キリスト教の一派があります。ところが、そこにあるのは、常に傍観者的な姿勢です。神を信じているから大丈夫、いつ万物の終わりが来ても構わない、それよりもこんなに悪い世の中だから滅びてしまえという姿勢さえも見せます。
 これらに共通するものは、この世とあの世を分ける考え方、また心と体を分ける考え方、さらには霊性を強調することの中で熱狂的に終末を待望する考え方です。こうしたものが声高に叫ばれるのは、決まって世の中が大変混乱している時代や閉鎖的な社会状況の時です。リバイバル、霊性の強調、無批判的な伝道への熱狂が見られます。閉鎖的な状況、危機的な状況の中では何時の時代でも繰り返し語られ、主張されるのがこれらの特徴です。聖と俗を強調し宗教によって俗なる全てを排除しようとするものであり、自分達の主張する聖なるものを押し付け同化させようというものです。
 さて、自分には信仰があるから大丈夫という考え方は、裏を返せば、信仰のない人は滅ぶということです。私達は、その様な考え方こそ、神が喜ばれない事に気づきたいと思います。
 第二次世界大戦前、戦争の足音が迫る中、当時、東大総長であった矢内原忠雄さんは「日本の理想を生かすためには、ひとまずこの国を葬って下さい」と語り、東大を追われていきました。矢内原さんの非戦平和思想は師である内村鑑三から受け継がれたもので、非戦平和思想に立つ著作は多数出版され、ご存知の方も多いことと思われます。師である内村鑑三が1930年に天に召され、その3年の記念の時に矢内原さんは「悲哀の人」という三周年記念講演を行っています。そこには非常時が叫ばれる日本と、本当に非常時なのかと首をかしげてしまう銀座の様子が紹介されています。そこで矢内原さんは「悲哀の人」をこう説明しています。
 「悲哀の人とは自分自身の事を悲しむ人ではありません。自分自身の事を悲しむのは利己的です。全ての人に本当の事が解らぬ時、たった一人、事の真相を見抜いた人、そして皆が黙っている時に一言いう人、それが悲哀の人であります」とエレミヤ、イエスを語ります。更に「我々は神から恩恵をもらうだけでは尽きない。神の恩恵を受けて罪の赦しを被りたる基督信者は、自ら国民の罪を悔い改め、その為に苦しみを受けて、悲哀の人とならなければならない。」。
 私たちはキリスト教や教会での理想と現実の落差が激しいことを悲しみ、教会から離れたりします。信仰と生活とがバラバラであるのに、他者を批判し、自分の信仰そのものを曖昧にします。「神の恩恵を受けて罪の赦しを被りたる」私たちは、悲哀の人とならなければならないという矢内原さんの一句が、時代を超えて迫ってきているように思えます。
 この聖書の箇所は「万物の終わりが迫っています」、終わりが迫るような状況であっても、イエスによって私たちはすでに赦され生かされている、「だから、よく祈りなさい。心を込めて愛し合いなさい。」と、イエスの出来事に立った生き方が奨められている箇所です。
 矢内原さんは「不信者の運命はどうにでもなれと言うのではない」と言います。不信仰な世の中や、にっちもさっちもいかない教会の歩み、そんな中で、自分もその一員であるにも関わらず無責任な他者批判ばかりに、私たちは陥ります。「愛は多くの罪を覆う」、矢内原さんは「世人の悪臭、苦味を己が身に受けよ」と云います。私はこの言葉に改めて、驚きを憶えます。
 世の中の、人間同士の悪臭や苦味から目を背け、自分勝手な聖なる空間ばかりを追い求め易い私たちです。しかし悪臭を、苦味を自分の身に引き受けてゆく生き方こそ、あのイエスの生涯です。
 イエスに従い、現実に真剣に真向かい、心を込めて愛し合い、悪臭、苦味、多くの罪を覆うような人生を味わいたいものです。それらが限りない恵みへの途上であることを信じたいと思うのです。「よく祈りなさい」という言葉を深く噛み締めながら、本当に変えられてゆく、イエスの出来事を感得する歩みへと導かれたいと思います。

(2020年8月2日)

「生かされている恵み」


「生かされている恵み」:ルカによる福音書13章:1〜9節

 私たちは毎日、新聞やテレビのニュースを見聞きします。まことに残念なことですが、世の中には本当に辛く、悲しく、痛ましい出来事が多いです。今おかれているコロナ禍の状況も、誰もが「どうして、こんなことが起こるのだろうか、どうして、こんなになってしまったのか」と天を仰いでいることでしょう。災害や病、不慮の事故、理解できないことが私たちの身の回りでは頻繁に起こっています。
 イエスと弟子達、また他の人々が集まっている時、まさにその様なニュースが話題となりました。ルカ福音書13章1節以下に記されています。この地方の支配者ピラトによる政治的な殺害の出来事です。またもう一つはシロアムというところで起こった不慮の事故であります。この事故は18名もの貴い命を奪う衝撃的な出来事でありました。
 二つの事件にイエスは同じように答えています。殺された者、命を落とした者が「罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない」という答えです。
 イエスの「たとえ」で非常に注目したいことは、問題となっていることが、ブドウ園のブドウの木ではなく、ブドウ園であるにもかかわらずいちじくの木が問題とされていることです。本来、ブドウ園ですから、いちじくの木は問題外であるはずです。イエスは多くの人々のように、自分には関係のない他人事として二つの出来事を捉えてはいないということです。「それから…」とありますように、災難や事故は罪深いから…という理由で自分の納得する答えをこじつけているとすると、ブドウはいつでも切り倒せるものとして登場していることになります。
 災難にあった者を「罪深かったからだ」とする人々に対して、イエスは「罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない」と答えました。イチジクの木は実を結ばないから切り倒されてもしかたがない、ピラトに殺されたのは、事故に遭ったのは、罪深かったからしかたがない、そう言い放ち、他人事のように自分だけが納得する、自分は罪深くないというナタをもって、今まさにいつでも木を切り倒せるものとして人を見、人を理解するそんな行為ではないでしょうか。
 ピラトの殺害と事故によって命を落とした者たちは、死してなお、他人を断罪する人々の心によって切り倒されようとしています。イエスはそんな心のナタを振りかざす人々の前に立ち、「このままにして下さい、今年も、もう一年待って下さい」と訴えているのです。
 「かっちゃんの野球」という紙芝居をご紹介したいと思います。すみれ園にかつみ君という腰から下がまったく動かない「障害」を持つ子供がいました。来年は小学校一年生になるという秋のことでした。園庭で子供達が野球をして遊んでいた時、かつみ君も仲間に入りたいと園庭に這い出してきました。彼はバッターになりたいと言って、「かんとく」である友達に申し出ました。座り込んでボールを打ちます。当然、ストライク・ゾーンは低く、そして狭くなります。バッター有利です。しかも、かつみ君は、毎日、階段昇りなどで腕を鍛えており、同年代の子供達よりも腕の力はずば抜けておりました。ピッチャーの投げる何球目かにヒットを打ちました。当たると良く飛ぶそうです。しかし、一塁まで這って進む間に、ボールを返されてしまいアウトになってしまいました。みんな、残念という顔をしています。まわりの子供達も困ったなという顔をしていたそうです。再び、かつみ君に順番が回ってきました。またヒットを打ちました。かつみ君は必死になって一塁へ這ってゆきます。するとキャッチャーをしていた友達が急に、一塁へ走り出しました。友達は一塁へ着くと、「はやく、はやく」とかつみ君を呼びました。一生懸命に這って一塁へ着きました。かつみ君のヒットがヒットとして、ようやく認められました。
 こうして子供達の間に、新しいルールが出来てゆきました。障碍を持つかつみ君を疎外することなく野球をする道が与えられました。
 子供達は困った顔をして、かつみ君の心の中の、走ることが出来ない、みんなのようには出来ないという悔しさ、辛さを知りました。人の心を想像することで、感じ取ろうとすることで、新しいルールを創造したと言えましょう。
この「かっちゃんの野球」は青木優さん・青木道代さんご夫妻の著書「障碍を生きる意味」(岩波書店)という本の中で紹介されている実話です。この後、子供達は皆、小学校へ上がり、学校のあらゆる階段にスロープと手スリ、そして車椅子用のトイレがついたそうです。「障害」を負った一人の子供の存在が、同じ様な子供達のために道を切り開いて行ったということです。
 「ない、できない」、障碍を持つ者は、この社会のニーズから、人々の願いからはずされてゆきます。また私達は、自分の思惑や希望に合わない者を、そのように疎外しがちです。しかし、「ない、できない」者にこそ、助け手が与えられ、道を切り拓くことへと押し出されていく、そんな出来事を紙芝居は語っています。
 イエスはそんな助け手として、道を切り拓くことへと、私達を押し出すために、この世へと来られました。野球をしているかつみ君に、友達は困った顔をしたと言います。天の神様も、困った顔をして、私達を見ておられます。それは私達の「ない、できない」を本当に自らのこととして困られている顔です。自分中心に生きる私達を、悲しむ顔です。社会と人々によって意味を奪われる者に向かって、本当に涙を流し悲しまれる顔です。
 神はそんな私達を十字架のイエスによって、私達の痛み、辛さを自らのものとして受けとめられました。かつみ君を取り囲む「すみれ園」の子供達もそのことを証ししていると思います。
 困難な状況下でも、私達にはイエス・キリストがいて下さり、他者という助け手を出会わせて下さり、神の出来事によって道を切り拓いていく、共に生きる道が私達には与えられるのではないでしょうか。
 今、このような時だからこそ、神の出来事を覚えて共に歩みたいと思うのです。

(2020年7月26日)


「人間の手中ではなく」


「人間の手中ではなく」:ルカによる福音書12章1〜7節

 聖書が語りますイエス・キリストの回りには実に多くの人々が集まっていたようです。長く不治の病とされていた者、体の不自由な者、「とかくするうちに、数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏みあうほどになった」。足を踏みあうという描写を読むとき、私たちは本当に数え切れない人々がイエスのまわりで、ひしめき合う状況を想像することができます。
 けれども、このおびただしい群衆は病や困難な状況からイエスに癒してもらうために、救われるために判断をして望んで、集まってきた人々ばかりではないと思います。たとえば、ファリサイ派の者や律法学者のようにイエスを付け狙う者たち、または一目うわさのイエスを見てやろうという単なる野次馬も含まれていたのではないかと思われます。ここには人それぞれの様々な思惑がひしめきあっているのです。
 現在、私たちの教会では新共同約聖書を使っておりますが、以前使っておりました口語約聖書のルカによる福音書12章1節を読みますと、おびただしい群衆が、互いに踏み合うほどに・・・という描写になっております。今、手にしております新共同約聖書では「足を踏み合う・・・」という表現です。以前の口語約聖書では「互いに踏み合う」ということで「足」という言葉は使われておりません。べつに人々が群がってひしめき合っているのであれば足を踏むということは簡単に想像することができます。ところが原文には「足」という言葉はありません。多分、新共同約聖書のルカの部分を訳された方が気をきかせて「足」という語を入れて訳されたのでしょう。しかし、私はこの箇所はあえて「足」という語を入れない方が良かったのではないか、分かりやすかったのではないかと思うのです。「足」という語が入りますと、私たちはサラッと読み流してしまいがちです。へえ、そんなに多くの人々が集まっていたのかというように感心だけで終わってしまいます。が、口語約聖書のように「互いに踏み合う」という具合に訳されていると何を踏み合うのかと考えます。人そのもの、他者を踏み、その存在を踏みつけている人間の状況を現して「互いに踏み合う」と表現されるのではないでしょうか。私たちが先を争って満たそうとする欲望は他者を、人を踏みつけているのではないでしょうか。
 今回の新型コロナ・ウィルスの感染拡大の影響では、人間の善き面も悪い面もが露呈されたようです。現在では大分マスクが店頭に並ぶようになりましたが、最初の頃はお店やスーパーからマスクがなくなってしまい、我先にと買い占める姿がありました。マスクを巡って争う事まで起きました。
 イエスは言われました。「ファリサイ派のパン種に注意しなさい」。ファリサイ派のパン種とはなんでしょうか。私は自らの欲望に従って生きることだと思います。普段は善人のふりをして、虫も殺さぬ顔をしながら、ある時には自分の欲望を満たそうとするときにその罪なる姿をさらけ出してしまう。それはイエスの前で明るみにされるのです。
 それ故にイエスは注意をしなさいと言われます。このイエスの言葉は警告でもあり、慰めでもあります。他者を踏みにじる私たちへの警告と共に、「恐れるな」と何度も言われます。神の言葉へと耳を傾けるのならば祝福へと導かれることを約束しています。
 「神がお忘れになるようなことはない」とイエスはこれ以上ない慰めを語っているのです。人間やこの世の力へと目を奪われる私たちではありますが、神は私たちを忘れてはいないというのです。新型コロナ・ウィルスの状況下でも、豪雨によって被災した方々をも、神がお忘れになるようなことはないと、イエスは教えて下さっています。
 私たちキリスト者にとって、人間に与えられている力というものは、神の恵みなしには何も存在いたしません。人の手の中ではなく、神の手の中にいること、捉えられていることを憶えたいと思うのです。神はお忘れにならないように、私たちもまた神を忘れないように、祈り願っていきたいと思うのです。神に覚えられ、神を覚えていく歩みをなしたいと思うのです。

(2020年7月19日)

「真ん中に立て」


「真ん中に立て」:マルコによる福音書3章1~6節

 「イエスは、また会堂にお入りになった」。イエスが会堂に入られたのが、これで二度目だということを伝えています。前回、イエスが会堂に入られたのは、1章の21節以下に記されている時です。人々は皆、礼拝に集っています。しかしこの時「汚れた霊にとりつかれた者」が突然叫びだしたと聖書は報告しています。イエスはその汚れた霊を追い出されました。
 今度は片手のなえた人がいました。今度ばかりは人々は気づいていました。しかもイエスが安息日という日にこの人の手をいやすかどうかを、うかがっていました。イエスがこの律法を破るかどうかに、注目していたのです。
 いやな雰囲気です。何とも言えない意地の悪さ、醜さが、手のなえた不幸な人とイエスをとりまいています。神を礼拝する場が、人を陥れよう、そんな醜さとねたみの場に変えられています。
 イエスと共に注目を集めたこの「片手のなえた」人は、よく聖書で見られるような「生まれつき」という説明が付けられておりません。普通、聖書は生まれつきであるのならば「生まれつき」と説明していますので、この人物の手は、何か事故か病気で、突然不自由になってしまったのでしょう。
 この時代、片手を失うということは職業を失い生活の基盤を失うと言うことです。多分、彼は物乞いをして暮らすしか生活の術がなかったのでしょう。人の哀れみでしか生きていけない自分、今、その自分はイエスを陥れるための道具とされている、非人間的な扱いを受けているのです。人々の注目を浴びながら、イエスは手のなえた人に「真ん中に立ちなさい」と言われました。
 そして人々に「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」と迫りました。人々は黙っていました。私はここに、人々の冷たい目を感じます。何も答えない、何もしない、ただ陥れようとだけ考えている、じっと伺っている、本当に醜い人間の姿を思わされます。
 イエスは怒りと悲しみをもって人々に向かわれました。手のなえた人に「手を伸ばしなさい」と言われました。すると手を伸ばすことが出来たという不思議な奇跡が起こりました。すっと胸をなで下ろすようなシーンです。けれども、本当にそれだけでしょうか。
 当時、法律を破れば死を意味していた時代です。イエスは自らその法を破りました。殺されることを承知の上で、不自由さと、深い悲しみにおかれた者の手をいやされました。ここに、自らを省みず、悲しむ者、苦しむ者を徹底的に憐れむ主の姿が映し出されています。
 更にこの時代は、いやした者もいやされた者も共に罰せられました。ですから、この癒された人は、特に目を付けられていたイエスの協力者として、抹殺されるかも知れません。そのことを考えますと、彼がいやされることは、この社会からの追放を意味します。ですから、計算づくの人生を送ろうと思ったのなら、イエスに従わなかったと思います。
 彼は自分にも課せられるであろう重い罰、あるいは死を覚悟してイエスの招きに応えたのです。ここには神と人との出会いの激しさ、熱さが表現されているのです。
 この出来事はイエスが会堂に「再び」入り、手の萎えた人を人々の片隅から「真ん中に立たせた」ことから始まっています。神が私達のところへ来て苦しむ者を真ん中に立たせたということは、神は苦しむ者の救いをこそいつも中心に思われているということです。「立たせた」とは「復活させた」ということではないでしょうか。教会とはその様な者の復活の場だということです。
 この聖書の箇所は「イエスは、また会堂に入られた」から始まっています。イエスはガリラヤの会堂で一人の人間のために命をかけられたように、今もまた私達のために会堂へ、教会へと来られているのではないでしょうか。ここには教会を復活の場とせよ、そんなイエスの問いかけがあるのです。教会の礼拝に、私たちの輪の中に、そして日々の暮らしの中に一体誰が共におられるのか?しっかりと憶えたいと思うのです。
 手を伸ばしなさいと私たちの手を取り、一緒に歩んで下さる主イエス・キリストと共に、私たちもここから踏み出していきたいと思います。

(2020年7月12日)

「人生の深みへ」


「人生の深みへ」:ルカによる福音書5章1〜11節

  今朝の聖書の箇所には魚を捕る漁師のことが描かれています。当然のことですが聖書の時代には、小舟何そうかで沖に出て網を打ち、魚を捕っていました。ですから多くの魚が捕れたと言っても、何人かの漁師と折半してしまえば、家族をやっと養うくらいだったことでしょう。もし、まる一日の漁でまったく何も取れなかったとしたら、その日一日の暮らしをどうするのか、そんなことを考えると暗く沈んでしまいます。
 今朝の聖書は、漁師たちの所へイエスが訪れ、船を沖に漕ぎ出すように、頼んだと言います。黙々と網を洗い、一匹の魚さえも取ることができなかった彼らに、苦労と精神的不安という私たちの現実を見る思いがいたします。しかも一日のうちで一番、魚がよく捕れる夜中に網を降ろしたのに、何も得ることが出来なかったのです。期待はずれの空振りで、ガックリとうなだれて、口からでるのは溜息ばかりだったのでしょう。
 人間の努力や力が、ただ空しさを感じるだけのことがあります。全く虚しい、いくらやってもダメだ、成果は挙げられず、期待も希望もない、力を落としてしまうときがあります。また、突然の大きな出来事を前に、どのようにして良いのか分からなくなってしまうこと、あまりの悲しい出来事ことに言葉をなくし、ただ出てくるのは涙と言葉にならない叫びの繰り返しということがあります。
 こんな時、私たちは空しさや、悲しさの中で、耳にする言葉や、接してくれる人の行為をも、半信半疑で受けとめてしまいます。何度繰り返してもどうせだめだと決めつけてしまいます。
 と以上の様な解釈の中で、イエスの不思議な出来事によって漁師であった人々はイエスに従い弟子となっていた、と理解されていきます。マタイによる福音書やマルコによる福音書の理解ではその通りです。
 マルコはペトロがイエスに声をかけられ弟子として従ってから、イエスが彼の家に行って彼の義理の母親をいやされるという文脈で語りますが、ルカはこのマルコの文脈を逆にして、4章の38節以下でペトロの家族がまずイエスと出会い、ペトロ自身がイエスに導かれていくという先立つ恵みをテーマに据えています。
 何故彼は再び網を降ろすことが出来たのでしょうか。彼ペトロは、イエスが自分の大切な家族を救ってくれた方であることを知っていたからです。イエスはペトロと直接に出会う前に、すでに彼の不安や心配事を取り除き、先だって整えていて下さったのです。
 イエスの指示に従うと驚く程の魚が捕れました。ルカの描写によりますと他の仲間の漁師達に助けてもらわないと沈んでしまうほどの大漁でした。
 大漁にたとえられるこの出来事は、神の恵みがたとえられています。従来、このルカの箇所は信じて従えば想像を越える恵みに導かれる等と解釈されてきました。ルカはそこにもう少し意味を加えているようです。まずペトロは「主よ、わたしから離れて下さい。わたしは罪深い者なのです」と、心から信じて全てを委ねて網を降ろしたのではないことを告白しています。ペトロは事が起こされてから初めて、先に起こっている母親の出来事と舟が沈みそうになる大漁の出来事とが結びついたのです。イエスは「沖に漕ぎ出せ」と言われました。「沖」という言葉は「深み」という意味を持っています。彼は彼自身の人生の深みの中で二度イエスと出会ったのです。
 そして漁師達の想像を絶する大漁の魚、舟が沈みそうになるほどの出来事は、神の恵みが人間一人では独占できるものではないことを語っています。自己中心的に完結する者は、逆に神の出来事故に沈んでいくのです。多くの人々と共に受けとめる時、多くの人々とそれを分かつ時、共に活かされていく時、初めてそれは恵みとなっていくことが伝えられています。
 シモン・ペトロは「すべてを捨ててイエスに従った」と云います。神によって整えられてペトロは出発していきました。まだまだ解決しないことは沢山あったのかも知れません。後ろ髪ひかれる心境だったのではないかと思われます。しかし、ペトロの家族も、心配だったあの母親も、自分の同僚で漁師のヤコブとヨハネも、そして心から信じ全てを委ね切れなかった自分自身も、既に神の恵みに与る者として、イエスに抱かれていることに、深みで気づかされ、皆と一緒に豊かな恵みを受けとめるために出掛けていったのです。ペトロが捨てたのは、自分だけで悩み、自分だけで苦しみ、何もかも自分一人だけで考えていた小さな殻、つまり自己中心的な己そのものだったのではないでしょうか。人生の深みの中で自らの至らなさや破れ、己の弱さを知る者こそ、神の使いとして、イエスの証人として用いられていくのです。
 ここには、喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く、恵みを分かつイエスの共同体の出発、福音書の背後にあるルカ教会の誕生秘話が込められているのではないでしょうか。私たちもまた、自らの深みの中に注がれている神の恵みにこそ気づきたいと思うのです。

(2020年7月5日)

「神は備え給う」


「神は備え給う」:創世記22章1〜19節

 先ほど読みました物語の主人公・アブラハムにとって、神の試みは、まさに、想像と理解を絶するものでした。なぜなら主なる神は、アブラハムに「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げものとしてささげなさい。」と命じられたからです。
 同じ旧約聖書の歴代誌下という書物を(3章1節以下を)読みますと分かりますが、イサクを神にささげようとしたその場所モリヤの山の上に、その後、イスラエルの王・ソロモンがエルサレル神殿を建てたことが記されています。
 今日エルサレム神殿は、イスラム教の寺院になっているそうで、金色のドームがエルサレム神殿のあった場所に光っているそうです。それは別名「岩のドーム」と呼ばれているそうです。といいますのは、寺院の下には大きな一枚岩があり、アブラハムがイサクをささげようとした山の頂だからであるということです。イスラム教も旧約聖書をもとにしていますから、モリヤという場所は特別の意味を持つ場所になるわけです。
 アブラハムは息子イサクを捧げようとしたこの出来事を通して、信仰の父と呼ばれるようになりました。しかし、それは何という恐ろしい信仰の課題でしょうか。確かに当時、カナンというところには人間を神に捧げるという宗教はたくさんあったと言われています。しかし、自分の愛するたった独りの息子を捧げなくてはならないという命令に答えることが信仰者のありかたならば、読む者にそのように問うているのならば、私たちはたちまち落胆し、このような信仰を持つことはできないとあきらめてしまうことでしょう。
 アブラハムはここで、恐れとおののきを覚えました。自分は全てを捧げて、人生の意味の全てを捧げて、全くのゼロになる、長い悩みの末に、彼は三日間の道のりをかけて、約束されたモリヤの山まで行ったのでした。モリヤの山までの道のりは、なんとも重いものであったに違いありません。山のふもとに着くと、二人だけで歩きました。わが子の手を引いて・・・、握る手から伝わるわが子のぬくもり、しかし痛々しかったことでしょう。もう話すことも、抱きしめることもできなくなる、愛することもできなくなる、アブラハムは苦しみを通り越した痛みの中で山の頂きに到着したのです。
 もはや理不尽ではすまされない状況にアブラハムはおかれました。息子イサクの質問はこのようなときになお胸にグサリとくるものでした。「火とたきぎはここにありますが、焼き尽くすささげものにする小羊はどこにいるのですか」。私たちだったら、何と答えるでしょうか?「焼き尽くすささげ物の小羊は、きっと神が備えて下さる」この父の答えは、痛みの中での叫びのようでもあります。神の試みか、試練か。
 ところがアブラハムの一人子・イサクが与えられる背景とその前後の出来事に注目しますと、この愛するイサクそのものこそが、アブラハムの罪であり、ハガルやサラを取り巻く人間関係のいさかいの原因であったことに気づかされます。人間の愛憎、最も醜い部分が、アブラハムとイサクの間に見えかくれしているのが分かります。つまり、神にイサクを捧げるということは、自分の最も大切な、愛する者、それは自分自身の幸せに伴う憎しみをも、罪なる姿をも神の前にさらけ出し、委ねるということだったのです。  
 人は自分を守るために、時に悲惨な出来事を起こします。アブラハムはイサクが与えられた喜びや恵みと共に、自分がそのことでどんなにか醜く、憎しみや破れを兼ね持つ人間であるかを知らされました、そして「何もしてはならない」という声と代わりの雄羊が与えられました。罪なる人間に「もうよい」と語られ、神ご自身が人間の罪の犠牲を用意していたのです。
 すると、このアブラハムの物語が逆転していくことに気づかされます。理不尽で想像を絶するような要求をし、その要求に添って歩んでいたのは、実は主なる神だったのです。暗く重い三日間を歩み、愛する独り子・イエスを人間のために捧げられたのです。愛憎うずまく人間の現実へと送られ、犠牲を払われたのです。実は神がこの物語の主人公であったのです。
 16節には神がアブラハムへと送る言葉が記されています。「自分の独り子である息子すら惜しまなかった」、それは丁度、ヨハネによる福音書3章16節にある「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」という出来事に呼応しています。主なる神がすでにイエスをもって備えてくださり、神が痛み、愛して止まない独り子・イエスを、赦しの捧げものとして与えて下さったのです。
 私たちが出会うであろう、理解できない痛みと苦しみを受ける道は、すでに神が通られ、その先に神の備えが用意されているのでしょう。
 神の備えがあるからこそ、私たちは神に応答し、神に委ねながら歩んで行けるのではないでしょうか。今は大変な時です。しかし、この時をも神は共に歩んで下さっていることを信じて、その先にある神の備えにしっかりと応答していきたいものです。

(2020年6月28日)

「心を寄せて」


「心を寄せて」:使徒言行録6章1〜7節

 今朝の聖書の箇所、使徒言行録を読みますと、ギリシャ語を話すユダヤ人、ヘブライ語を話すユダヤ人、そして、やもめたちと、聖書が語ります背景には様々な人が集まっていることが分かります。このころの教会の群は、毎日、貧しい人や身よりのない人に日々の糧を届けていました。そのようなほどこしの業は「パンのかご」と呼ばれていたそうです。
 ある日、日々の分配のことで問題が生じました。「仲間のやもめたちが軽んじられた」、12弟子は早速、みんなを集め日々の食事の世話をする者を7人選出いたしました。12弟子達の祈りと御言葉の仕事は「デイアコニア」、直訳すると奉仕という意味です。選出された7人の仕事は「クレイア」、務め、役割という意味です。
 これは明らかに、12弟子の仕事と食事係の7人の仕事との、質の違いがうたわれており、明確に仕事が区別されています。どれも貴い奉仕の業ではないのか?何かしっくりこない言葉がここでは使われています。
 しかしながら、6章の8節以下では、食事の係りであった者が、素晴らしい主の御業を行うようになってゆくのです。聖書は食事係の者が、12弟子のような働きをするようになったことを告げています。聖書は仕事の質をも明確に区別していたにもかかわらずです。選出された7人は、「仲間のやもめたちが軽んじられていた」から、暖かくその者達に仕えるために選ばれた7人でした。
 聖書は、詳しいことは記されていませんが、私は思います。彼ら7人は、貧しい者、身よりのない者に仕えることを通して、彼らの心に触れたと思います。悲しい心、寂しい心、そのような人々の有り様に涙を流したと思います。食事の係りをすることを通し、彼らに接し、共に苦しみの時を過ごしたに違い在りません。苦しみの時を共に過ごす。それは、あの主イエスの姿ではないでしょうか。彼らは貧しい者の姿に、寂しくしている者の直中にこそ、神の心が寄せられていること、そして主イエスの姿を見いだしたに違いないのです。
 長くニューヨークのユニオン神学校で教鞭をとられていた小山こうすけさんの「裂かれた神の姿」という著作があります。台湾における「水牛の神学」で世界的に有名になった先生ですが、小山さんは著書「裂かれた神の姿」の中で「他者中心神学への移行」ということを語っています。他者とは他の人です。他の人を中心とする神学へと移ろうということです。この言葉はマルチン・ブーバーの「我と汝」という関係、デイートリッヒ・ボンヘッファーの「聖霊は他者を通して働かれる」という関係であることを思い起こさせます。つまり他者との関係ということです。
 宗教改革者のマルチン・ルターは、「キリストを肉の中へ引き入れなければ、キリストを見失う」と言いました。ルターの語る「肉」とは生きた人と人との血の通った関係のことです。キリスト教信仰の中心であるイエス・キリストは、そのような関係の中でこそ見いだされることを語っています。
 新型コロナ・ウィルスの影響で、今ソーシャル・ディスタンスが叫ばれています。人と距離を置くというのですが、教会にとっても信仰にとっても交わりや触れあいということは、とても大事なことです。教育にも交わりや触れあいが大事なことです。
 牧師も教会員の姿に触れて、ご奉仕される姿や信仰者としての姿勢に触れて学び、教えられていきます。信徒の方々との交わりや触れあいを通して育てられていくのです。教育の場も同じだと思うのです。教師と生徒、生徒と生徒、教師と教師が交わりや触れあいを通して互いに育まれていくのです。
 イエス・キリストはその生涯を通して、他者との交わりや触れあいに生きました。貧しい者や苦しむ者、痛む者、悲しむ者、差別されていた者に触れられていきました。
 人の痛みへと心を寄せていくこと、そのマイナスの苦しみを共に生きる時、マイナスはプラスへ、痛みはいやされていくことへ、本当の豊かさ、愛し合う喜びへと包まれて行くのです。それこそが、イエスの生涯を通して示され、約束された十字架と復活ということなのです。神はイエスを捧げて、私達に本当の豊かさを教えているのです。
 今は大変な時ですが、信仰にとって教会にとってイエス・キリストに従って歩むこと、交わりや触れあいの中で共に育まれていくことをこそ、これからも大切にしたいと思うのです。とても小さな業かも知れませんが、主が共にいまし、豊かに導かれることを信じて歩んで行きたいと思うのです。

(2020年6月21日)

「どんな時でも」


「どんな時でも」:コリントの信徒への手紙二13章11~13節

 今朝の聖書の箇所はパウロがコリント教会へと送った手紙の最後の挨拶の言葉です。この結びの言葉は祈りです。パウロはコリント教会へと何度も訪問した事が、この手紙には繰り返し強調しています。それだけにパウロはコリント教会に対して強い思い入れがあったようですし、コリントの人々を覚えて日々祈っていることが分かります。
皆さんもお気づきかと思いますが、私は礼拝の最後で祈る祝祷の前に、今日の聖書の箇所、パウロの祈りの言葉を使わせていただいています。
 この祝祷を使わせていただいて、皆さんからよく言われることは「いつも喜んでばかりいられません、非の打ち所のない人にはなれません。全き者に、完全な者に成るというのは絶対に無理です」、そして「先生は、いつも喜んでいるのですか」と問われます。う~ん。確かにそうですね。
誰でも破れや弱さや至らなさを持っています。私も苦しむこと、痛むことがあります。けれども、それらが神の力によって良さに変えられていく願いを込めて、祝祷の言葉に使わせていただいています。ですから皆様どうぞ、諦めずに喜びの日々を祈り願って頂きたいと思います。
 しかし、本当の苦しみや悲しみ、困難に直面したら、いかがでしょうか。
 先ほど共にご唱和いたしました讃美歌21の533番の歌詞に注目です。「どんな時でも、苦しみに負けず、くじけてはならない。どんな時でも、しあわせを望み、くじけてはならない」と繰り返されます。私たちの現実はくじける連続かも知れません。誰でも、苦しみに負けたくはありませんし、何時だってしあわせを望んでいます。そして誰でも、何時でも何処でも、イエスの愛が私達を包み込んでいることを、心から信じたいと願っています。
 この讃美歌533番は新しい「こどもさんびか」の応募作品として採用された歌です。それが「讃美歌21」にも採用され、礼拝で用いられるようにと533番として収められています。お手元に印刷された讃美歌21の533番を、もう一度開けていただきたいと思います。皆さん、作詞者のところに注目して下さい。作詞者は高橋順子さんとなっています。1959年に生まれて1967年・・・・、えっと思われるかも知れません。この讃美歌は8才の少女が死の直前に歌った讃美歌です。高橋順子さんというよりも、順子ちゃんが相応しいかも知れません。
 この讃美歌は1980年に「こどもさんびか2」の編集作業が行われていた時に、福島県にあります福島新町教会の教会学校教師をされていた冷泉アキ(れいぜい あき)さんという方から子供讃美歌の編集委員会に送られて来たそうです。
 教会学校に通っていた高橋順子ちゃんは骨肉腫を患いました。苦しい闘病生活を強いられました。幼く小さな体を病魔の痛みや苦しみが容赦なく襲います。まくらべに寄り添う高橋順子ちゃんのご家族と共に冷泉アキさんも、苦しみ痛む順子さんを励ましました。痛みに苦しみに、くじけそうになります。小さな体、幼い魂には無理からぬことかも知れません。しかし病床での母の祈り、冷泉アキさんの祈りは、くじけそうになる小さな順子ちゃんに病床にも共にいて下さるイエスさまを届けました。小さな体を励まして下さるイエスさまを身近に感じながら、順子ちゃんはどんな時でもイエスの愛を信じて生きました。天に召される直前に、この讃美歌533番「どんな時でも」を順子ちゃんは歌い上げました。
 「イエスの愛を信じて生き、天に召されていった作者の生き様が、讃美歌として歌われ、人々を励ます歌になればと願っています」という手紙と共に、この曲は讃美歌委員会へと送られて来たそうです。
 病は8才の少女へと困難と苦しみ、そして深い悲しみを運んで来ました。闘病と表現されるからには、戦いであり、勝利か敗北と私達は考えます。しかし、順子ちゃんの魂が、心が、病に食い尽くされることを、キリストにある愛は、赦しませんでした。ご両親の家族の祈り、教会学校でいつも順子ちゃんと接していた冷泉アキさんの祈りの束が、順子ちゃんの心にイエスの愛と信仰と希望とを送り届けたのです。くじけそうになる日々、苦しみの日々が、イエスの愛に固く結ばれてゆく日々へと変えられていったのです。たった8年という本当に短い生涯でした。しかし、イエスの愛が、病床の順子ちゃんの魂と心に神の愛という調べを響かせました。きっと天の国で、神様が順子ちゃんを両腕に抱かれ、愛でて下さっていることでしょう。
 「どんな時でも、どんな時でも、苦しみに負けず、くじけてはならない。イエスさまの、イエスさまの、愛を信じて」。私たちがこの讃美歌533番を歌うとき、順子ちゃんもきっと天国から神様と一緒に、この歌を歌っているのではないでしょうか。
 パウロがコリントの人々へ宛てた手紙を祈りで結んでいるのは、祈りが束ねられるとき、弱さが強さに変えられることを教えています。
 コロナ禍の時だからこそ、祈りがイエスを届け、イエスの愛が喜びの人生へと私達を持ち運ぶことを皆で覚え合いたいと思うのです。

(2020年6月14日)

「その時を知る」


「その時を知る」:エレミヤ書8章4~13節

 若き預言者エレミヤが活躍した時代は、栄華を誇ったイスラエル王国が南北に分裂し、分裂した北王国がアッシリアに滅ぼされ、そのアッシリアがバビロニア帝国に滅ぼされ、バビロニア帝国が南ユダ王国に迫ろうとする時でした。まさに戦乱の時代であり、南ユダ王国は諸外国勢力の激動の中、小さいながらもなんとか生き延びていました。この様な時代にエレミヤは神の言葉を携えて預言者としての使命を果たしていきます。
 ところが、エレミヤが危機を告げると人々は「私たちにはエジプトの奴隷の地からここへと導き出して下さった神がある」「私たちには掟がある。定めがある。律法がある」といって、平和と繁栄を謳歌する気分に支配されていました。特に人々は、エルサレム神殿への熱狂的な信仰に陥っていました。エルサレムの神殿とは、地上で神が住まわれるところであり、ゆえに町は不滅であると古くからの信仰に立っていました。エレミヤは神から託された預言を語れば語るほど、時流に沿わない変わり者として排除されました。この時エレミヤは、30歳位だと言われています。
 いくら声高に語っても耳を傾けない人々を前に、エレミヤは苦しんでいきます。そしてエレミヤは、その苦しさ辛さを神に訴え出ます。このエレミヤ書からは、預言者がこの世で苦闘する姿がうかがえます。
 そんなエレミヤの内面の苦悩と存在の重さとを描いたのが、ミケランジェロの描いたシステイーナ礼拝堂の預言者エレミヤの壁画だそうです。神の使命に生きることの重さが表現されているそうです。
 時代に同化して生きる道は、時にたやすく、時に難しいものです。無自覚的であれば、時代に流されます。たとえ信仰を持っていても、この時代に埋没する危険があり、時代や社会に流される危うさを持っています。
 以前、教会付属の幼稚園に携わっていた頃、年に一度、移動動物園という
 楽しい行事がありました。動物園に行くのではなく、動物園が幼稚園に来てくれるというものでした。勿論、一般の動物園の人気者・像やキリンやライオンは来ません。小さな動物が園庭に運び込まれ、子供達が小動物に触ったり、抱き上げたりするものです。当然、こども達はおおはしゃぎ、大騒ぎになります。
 そこに一羽のコブのあるガチョウがいました。飼育係の方から伺ったのですが、くちばしの先にあるコブは、かつてガチョウが渡り鳥であった名残であるということです。ガチョウは人間に飼育される中で、渡り鳥としての性質を失い、渡りの際の大切な役割を果たす器官が必要となくなり、コブとなったと教えられました。人間に飼育されることによって、大切なものを失った、その名残のコブがとても悲しく見えたことを思い出しました。
 大切な器官を失ってしまうことは、ガチョウにとって致命的なことだったのでしょう。私たち信仰者が失ってはならない大切なものをこそ、見つめ直したいと思うのです。
 イエスは「世の光、地の塩」であることを信仰者のこの世での存在意義として語られました。私たちの信仰がいつしか、おごりや、またあきらめの中で形骸化してはいないでしょうか。時代や社会の中で飼いならされてしまってはいないでしょうか。渡る時を察知できないガチョウのコブのようになってはいないでしょうか。
 新型コロナ・ウィルスの影響で、私たちの生活が一変しました。今後も第二波、第三波と感染拡大が予測されています。あるいは更に変化をして新型になることも考えられます。ウィズ・コロナと表現されて、これからの生活がコロナ・ウィルスとの共存とも表現されています。でも私たち信仰者は「キリストと共に」です。どのような状況下であっても主イエス・キリストが私たちと共にいて下さることを憶えたいと思うのです。
 エレミヤは「離れ、背き、立ち返る」ということを語っています。これらの言葉はいずれも「向きを変える」という言葉です。私たちは自分の志向することだけに向き合い、興味のあることだけに向き易いものです。誰だって楽しいことに向き合いたいです。あるいは今回の様な事態で、恐怖や心配事だけにとらわれやすいとも言えます。
 ちなみに、エレミヤという名前は「神は解き放って下さる」という意味の名前だそうです。エレミヤの姿を通して、むなしいものに目を向けていた、自分に都合のいい事ばかりに目がいっている、そんな自分から解き放たれて、なお愛し続けて下さっている神のまなざしに気づきたいと思うのです。
 共なる十字架と復活のキリストに向きを変えて、真向かって歩んでいきたいと思うのです。それが今この時だと思うのです。

(2020年6月7日)

「『祈る』とは?」


「『祈る』とは?」:ルカによる福音書11章14

 私たちの肉眼では見えないほど小さく、そして未知の新型コロナ・ウィルスによって世界中が大変なことになっています。それがこれから先には次々と変異をして強毒性を持つウィルスに成っていくのでしょうか。世界中が第二波、第三波が来ることを予測していて、とても心配なことです。
 世界で30万人以上の方々が亡くなるという出来事を私たちはどの様に受けとめたら良いのでしょうか。世界中が嘆きと悲しみに包まれていると言っても過言ではありません。震災や災害でも被災によって沢山の方々の命が奪われる事があります。家族を失い、家を失い、仕事を失うという出来事が起こります。
 また、今回の新型コロナ・ウィルスの影響が経済格差に如実に現れていることは先日にもご紹介させて頂きました。それと共に経済や商業活動、教育等々が自粛され、あるいはストップすることによる落差の大きさを思い知らされました。とたんに死活問題になったり、学力低下が問題になったりとその落差は大変なことです。そんな状況下で今、世界中で沢山の祈りが献げられていると思うのです。この時、改めて祈りということを考えてみたいと思うのです。
 この聖書の箇所は弟子達がイエスに「祈りを教えてください」と願って、イエスが「主の祈り」を弟子達に教えた場面です。主の祈りは私たちも礼拝や祈祷会、地域・家庭集会、家庭での毎日の祈りとして祈っているものです。クリスチャンにとっては最も基礎的な祈りであり、最も大切な祈りです。この「主の祈り」で大切なのは、主語が「わたし」ではなく「わたしたち、我等」となっていることです。
 神を仰ぎ祈りを献げるということは、常に他者を意識して献げるということです。ですから主の祈りは「世界を包む祈り」とも呼ばれています。「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」「我らの日用の糧を、今日も与え給え」という一句は、自分の生活だけが満たされるのではなく、私たちが世界の人々と生活に必要なものを分かち合う責任があることを覚える祈りだからだと言われています。
 「分かち合う」ということに関連しまして、フランスの思想家でジョルジュ・バタイユという人が「呪われた部分」という著書の中で「人間の生命力は過剰だ。だから分配するのだ」と言っています。バタイユは、人間がもっている過剰なエネルギーは、人に分配をしたり、贈与したりしないと呪いとなると言うのです。
 仏教に「お布施」という教えがあります。自分が持っている物をシェアすること、つまり「分かち合う」ことだそうです。それを日常生活で実践することが大事なのだそうです。常日頃から自分の持っている物や気持ち・心を分配し、自分の「とらわれやこだわり」から脱して行くことが「お布施」の意味だそうです。
 人間の持つ過剰なエネルギー、つまり欲望なのでしょう。人間は平常時には自分の事ばかり祈ります。ついつい自分の願いばかりを、欲望を祈っています。「主の祈り」の主語は「わたしたち」です。常に神と自分と他者という視点をもって、祈っていきたいと思うのです。
 ところで、この聖書の箇所で使われている「祈る」という言葉は、新約聖書の言葉で「デュオウマイ」と言います。この言葉は原型が「能動相(態)欠如動詞」という中動相型です。受動相・受動態(受け身)になって初めて能動的な意味で訳される言葉です。動詞ですので、何らかの出来事や何かからの影響を受けてから祈るようになるという状態を現す古典ギリシャ語の特別な言葉が使われています。
 この聖書の「祈る」には、何かの出来事や何かしらの状況から何かを感じて祈らされるということ、悲しむ人や苦しむ人を見て、祈らざるを得ないということ、今の世界や私たちの社会で次々と起こっていく出来事を受けて、祈らなくてはいられないという様を表現しているのです。
 聖書が教える「祈る」ということは、他者と共鳴すること、他者との共同作業とも言えるのではないでしょうか。「祈る」人は、常に他者と共鳴しているので、決して独りではないのです。「祈る」人は、孤独ではないのです。
 世界中の方々が今回の新型コロナ・ウィルスの事で苦しみ悲しんでいます。私たちはそのような現実を毎日聞いています。今、私たちの日常とは、祈らざるを得ない、祈らなくてはいられない日々なのではないでしょうか。今こそ、聖書の「祈る」を私たちの暮らしの一部としたいものです。

「励まし合うこと」


「励まし合うこと」:ルカによる福音書8章26〜39節

 選ばせて頂いた聖書の箇所には、悪霊に取り憑かれていた人を墓場で鎖につなぎ、そして足かせをはめて監視していたという、とてもショッキングな状況が描かれています。生きている人間を墓場に拘束して皆で見張っているのです。
 新型コロナ・ウィルスの感染拡大によって緊急事態宣言のもと、自粛が呼びかけられています。
 この自粛ムードの中、頻繁に「自粛警察」という言葉を聞くようになりました。休業したくても出来ない飲食店などが営業を続けていると、自粛を強要する張り紙や落書きがされるという事態や他府県ナンバーの車を見つけると傷を付けたり、張り紙や落書きをして自粛をすることを強いる行為が沢山起こっていることです。車で越境する方の中には仕事の方もいるそうです。確かに今自粛は必要でしょう。けれども死活問題や緊急時の場合もあることは確かです。なぜ、自粛をしたくても出来ないのかとは保証や給付金、それぞれへの支援対策がなされていない政府の対応のまずさが露呈しています。
 多くの方々が真面目に自粛をしています。でもこの先、どうなるのかとの不安の中でストレスが溜まっていくのが皆の心境です。そこでは私も頑張っているのにとの真面目な気持ちが、「自粛」というものを逸脱していく人を快く思えなくなっていくようです。そのような状況が個々人をそれぞれが監視し、批判や排除という形で噴出している状態です。そして今回の新型コロナ・ウィルスは、今社会を「監視社会」にさせているようです。
 「監視社会」を解明したのはフランスの哲学者ミシェル・フーコーです。フーコーが1974年に出した「監獄の誕生―監視と処罰―」という書物の中で「パノプティコン=一望監視装置」という言葉で説明しています。例えばウィルスの感染が拡大しないようにと「自粛」が呼びかけられます。すると途端に外出を控えること、自宅で仕事をすること、お店は休むこと、3密を避けること等々が、誰もが気をつけるべき「当然の所作」となっていきます。この「当然の所作」が、社会の中で「標準」となってしまうのです。そして、ここから逸脱する存在を監視し、批判、排除する心理が働くのです。今回の事態も「自粛の呼びかけ」に過ぎないのですが、ウィルスの感染による恐怖や不安が、人間の心理を逸脱する人間を監視させてしまう「パノプティコン=一望監視装置」へと変貌させているのです。この最悪の事態が戦時下の日本社会でした。フーコーが指摘するように人間がパノプティコンとなることが、権力にとって最も都合のいい監視体制なのです。
 更に、ノルウェーの社会学者トマス・マシーセンはフーコーの「パノプティコン」から「シノプティコン」という相互監視という事態を語っています。これはネット時代を反映した現代を表現しているのですが、問題は監視する者は監視もされるという事です。
 新型コロナ・ウィルスという未知なる小さな存在は、国や社会における政治や経済、教育や家庭、個々人の問題など、人間の持つ弱さや破れ、足りなさや過ちを次々と露呈させています。世界中が混乱と不安と恐怖に落とされています。こうした危機的な状況下や不安な時、あるいは行き詰まった時など、よく古典に帰れと言われます。
 聖書は古典中の古典です。選ばせていただいた聖書の箇所は、まさに古典に帰れというお手本のような箇所ではないかと思うのです。
 この箇所の29節で使用されている「監視する」という言葉は新約聖書の原語で「シネーコウ」と言います。他に「行動を共にする、見張る、板挟みになる、苦しむ、病む」等の意味があります。「シネーコウ」という言葉は「シン」という「共に、一緒に」を含む合成語になっていますで、共に監視する、つまり監視をすることと監視をされることが表裏一体となっていると言ってよいでしょう。
 そして37節に注目です。イエスが悪霊に取り憑かれていた人物を癒やし、解き放った後、悪霊に取り憑かれていた人を監視していた人々は「すっかり恐れに取りつかれて」しまいました。「監視する=シネーコウ」には「板挟みになる、苦しむ、病む」という意味もあります。監視していた者たちは、監視され、皆共に恐怖に板挟みとなり、皆共に恐れに苦しむようになり、そしてこの後、皆共に病んでいくのかも知れません。
 この箇所はイエスが人間を癒やし、解き放っていくという出来事が語られていますが、少し視点を変えて監視をしていた人々の姿に注目をすると、監視を軸として皆が板挟みとなり、皆が苦しんでいくという今私たちが置かれている状況が映し出されてもいるのです。
 では、この事態に私たちは一体どうしたら良いのでしょうか。ローマの信徒への手紙1章12節でパウロはローマの教会の人々に「あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです」と伝えています。ここでパウロが使っている「励ます」という言葉は原語で「シンパラカレイオウ」といって、これも「シン」を含む合成語になっています。「共に励ます、一緒に励まし合う」という意味となります。人を励ます者は、きっと人から励ましを受けるのでしょう。また「慰める」という意味も持っていますので、人を慰める者は、きっと人から優しく慰められるのでしょう。励ましと慰めも相互的に表裏一体となっているようです。聖書という古典は、今の状況を切り開いて行くヒントがちりばめられているのではないでしょうか。
 困難な状況だからこそ、私たちは古典である聖書に立ち帰り、共に励まし合い、共に支え合い、共に祈り合い、共に慰め合って、この時を過ごして行きたいものです。

「暗闇の中にこそ」


「暗闇の中にこそ」:ヨハネ福音書1章1~5節

 新型コロナ・ウィルスの感染拡大と共に、私たちの国の政府があたふたとしていて、全く終息の気配が感じられません。皆さんも先行きが不安で、大変だと思います。教会も日曜日の礼拝だけではなく毎週の祈祷会や地域・家庭集会、各部の取り組みやバザーまでもが中止や中断をしている状況です。更には教会員の方が亡くなられても葬儀が執り行えずに火葬をして、少数のご遺族方々で一緒にお祈りだけで済ませたという状況です。改めてお別れの会をするにも日程が立てられない状況です。
 この様なウィルスの感染拡大は歴史的には何度も起こっており、特に中世に起こったペストの大流行は、ヨーロッパの人口の約3分の一もの人々が亡くなるという大変なものでした。この中世のペストに関して、今は亡くなられているのですが藤代泰三さんという、私が学生時代に同志社の神学部で教えられていたキリスト教史の先生が、著書「キリスト教史Ⅱ」で詳しく描いていますので、ご紹介させていただきます。
 ペスト等の伝染病は寄生する動物によって感染していきますが、人間へと感染するには時間がかかるということ、しかし人間に感染し、人間に感染した途端にその地域で感染が広まるのです。そしてウィルスはその地域に根付こうとするそうです。それはウィルスも生き物ですので、生まれたからには生き延びようとします。自己を保存するために拡大して世界的に蔓延するのです。何度も周期的に発生感染拡大という事態を起こすそうです。今、私たちが直面している感染拡大も何度もやって来ると言われています。
 その様な事態に直面した人間は一体どうしたのか。教会では人間の悔い改めが必要と説かれ、自らの体を鞭で打ちたたく苦行が奨励されたそうです。ところがこの時に悔い改めと苦行を進めて行った司祭たちの中には反ユダヤ主義的な思想を待つ者がいて、ユダヤ人の虐殺があちこちで起こったそうです。誰かのせいにしなければ気が済まないという人間の心理ですね。それが今、アジア人の差別がヨーロッパやアメリカで起こっているのと同時に、この日本でも起こっていますね。
 日に日に格差が広がって行くそうですし、そのような状況が日に日に高まっています。裕福な者は更に贅沢になり、貧しい方々はより貧しくどん底へと落とされていくそうです。
 注目したいことは一方で、より質素に、より謙虚に行動して生活をしていくようになる方々も多くいたそうです。ですが出産率は低下するようになります。
 人間の心理は失望と鬱に陥っていく者、楽しければ良いという身勝手な快楽主義に走る者、そしてより深く模索し学んでいくようになる者と極端になっていくそうです。
 各国の政治や社会は変化するか崩壊するか、これまでの人生や社会の様々な基準や価値観が揺らぐそうです。人間はより死への思いが深くなり、自分の人生を死への備えとして考えるようになるそうです。新型コロナ・ウィルスが終息すると、以上の事が様々な形を変えて起こってくると想定されます。
 中世のペストを描いたフランスの実存主義作家、アルベール・カミュの作品「ペスト」という小説をご紹介したいと思います。この作品は1948年に出版されました。戦後のヨーロッパですから、第二次世界大戦時のナチス・ドイツ批判も同時に秘められているようです。この作品は出版と同時に強烈な印象を与え、日本の作家、開高健(かいこう たけし)さんらにも影響を与えています。開高さんはカミュの作品からヒントを得て「パニック」という作品を残しています。
 カミュの作品「ペスト」は、地中海沿岸のオランという小さな町にペストが発生し、外部との接触を断たれ、閉鎖された町の中で、次々と起こる出来事、現象を描いた話です。
 その中に登場するパヌルーというカトリックの司祭が、大変興味深い存在として描かれています。彼は、ペストという悪疫の流行を神の摂理であり、御心であり、町の住民に対して謙虚な思いでこの現状を受け止め、自分の生活を悔い改めなければならないと唱えます。町の人々は会堂に溢れ、皆が恐れ悔い改めます。この異常な出来事が、人々の宗教心を覚醒させたのでした。連日、会堂は人で溢れました。しかし時が経つにつれ、礼拝堂に集まる人々の数は減り始めました。
 そんなある日、パヌルー司祭は一人の少年がペストにかかり、苦しみの内に死んでゆくという現実に立ち会います。少年は明らかに純真無垢であり、少年の苦しみと死に、司祭は神の御心を読みとれないばかりか、悔い改めとは何かを問われることとなります。司祭の信仰のあり方が覆されていきます。司祭は少年の苦痛と死によって信仰と現実に起こる出来事の不可解さ、神の御心を疑うことで揺れ動いていきます。祭司は人々の苦しみに心を寄せ、人々の現実に寄り添って行く事になります。
 このカミュの「ペスト」を森 有正(もり ありまさ)さんというフランス文学者が次の様に評しています。「信仰は暗闇の中にこそ、神の意志が働くことを信じつつ、その少年と同じ苦悩に自らもあずかることを欲する。ここで信仰は、自己の利害や理解から離れて、純粋な姿を現すのである」。
 過去の歴史から学んでこそ、今の私たちはあるのでしょう。聖書という歴史的に古典と呼ばれるものは、私たちが生きている世界を、今という現実を暗闇と表現して、そこにこそ光がやって来たと伝えています。苦しみや悪がはびこる世界にこそ、神がイエス・キリストを献げられたことが記されています。
 今、多くの人々が苦しんでいます。人間が苦しみ、悲しんでいる時と場所にこそ、復活のイエス・キリストが寄り添い、共にいて下さること、暗闇の中にこそ神の御業が現れることを、私たちも信じて、この時を過ごしていきたいと思うのです。
 そして、この事態が終息した際には、イエス・キリストにならい、苦しむ人へ、悲しむ人へ、孤独の中にいる人へと寄り添っていく歩みを成したいと思うのです。暗闇の中にこそ主の御業が現れることをこそ、私たちも証していきたいと思うのです。

「逆説を知る」


「逆説を知る」:Ⅱコリント12章9〜10節


 今、新型コロナ・ウィルスの感染拡大で世界中が大変な事態になっています。日本も感染者数が1万人を超えてしまいました。
 ところが日本の場合は、新型コロナ・ウィルスの他にもう一つの厄介なウィルスが私たちを困らせています。安倍のウィルスですね。この安倍のウィルスは、新型コロナ・ウィルスが出現する前から、私たちを困らせているという大変なウィルスです。とにかく視点が庶民レベルにはありません。一般の人たちがどういう状況なのかを想像することが出来ないようです。
 日本の安倍政権と財務省は経済とお金の事ばかりを優先にしています。経済の事が大事なのは分からなくもないのですが、自国の豊かさや経済的な強さ、そして大きさや規模ばかりを優先していますので、一般庶民の事は後回しです。つまり人命が後回しになっています。ですからやることなすこと後手後手です。
 私は今回の事で、旧約聖書の創世記という書物に収められたバベルの塔の話しを思い出しました。人間はある時、天まで届く塔を造って有名になろうとします。天まで届く高い塔、巨大な建築物は人間の豊かさや巨大さ、繁栄、そして権力・力のシンボルです。ところがそのバベルの塔の建築は神によって阻止されます。人々は四方八方へとちりぢりバラバラに散らされていきます。それまで一つの言語を話していたのですが、様々な言語を話すようになって意思疎通が出来なくなったというお話しです。人間は過度に力や権力を持ったり、限界を越えて大きくなったりしてはいけないということ、常に謙遜であれと言葉がバラバラになって小さな単位に分けられたという聖書の戒めのお話しです。と共に、小さな単位、個々の違いとその個々の尊さを教えているお話です。
 皆さん、世界最強の国はどこですか?アメリカですね。アメリカの軍事力はとても巨大で、世界でもずば抜けています。グローバル・ファイヤーパワーという研究所が出した2019年軍事力ランキングによりますと、アメリカが世界でダントツの一位です。2位がロシア、3位が中国、4位がインド、5位がフランス、この上位に共通していることは核兵器を持っていることです。そして続いて6位が何と日本です。日本の防衛費はかつてないほど膨大になっています。ところが膨大な防衛費や原子力発電に使う巨額の費用を、今、国民の為に使おうという発想は残念ながら無いようです。続けて7位が韓国、8位がイギリス、9位がトルコ、10位がドイツです。このランキングの2位から10位までの国が同盟を組んで、束になってアメリカと戦争をしても、圧倒的にアメリカが勝つそうです。それほどアメリカの軍事力は飛び抜けて強力なのです。
 しかし、そんな世界最強であるアメリカは、今目に見えない小さな、小さなウィルスに為す術がありません。この小さなウィルスはアメリカだけではなく世界中をマヒさせています。世界を翻弄しています。国と国が力を競い合って競争することさえできないほど、世界をストップさせているのです。この地上で最強なのは、アメリカでも人間でもなく、最も小さいウィルスなのかも知れません。また放射能も最強なのかも知れません。放射能という目には見えない小さな原子は何百年と人間を苦しませて行くのです。私たちの国で起こった東日本大震災によるフクシマの原発事故の事が戒めています。
 どんなに世界が便利になっても、大きくなっても、豊かになっても、どんなに強くなっても、彼らは襲ってくるでしょう。ウィルスもまた生き物なのですから、生存をかけているのです。生きるために次々と感染していくのです。感染は巨大な軍事力を持ってしても止められません。またウィルスはアッという間に変化することも出来ます。これから先も、次々と新型が登場することでしょう。ですから多分、イタチごっこを続けながら共生して行かざるを得ないのでしょう。これも自然界に生きるということなのでしょう。
 これから先の未来、人と人が争っている場合ではありません。国と国が戦争をしている場合でもありません。人類は、人間は戦う相手を間違っていたことを素直に認めなくてはなりません。大きさや強さではなくて、小さい存在に目を向けていかなければなりません。でなければ、また小さな存在に足下をすくわれて行くことでしょう。私は今回の事で、小さな存在こそが強いという逆説を、まざまざと見せつけられた思いがいたします。
 国も社会も、会社も組織も人間の集まりです。どんな人間も小さな単位なのです。一個の命なのです。これから先は、一人の貴い命を大切にし合う、一人にしっかりと目を向けていく、小さな存在を心にかけていく、そんな謙虚さが求められていくのかも知れません。
  一人を大切にする心というものをこそ、今更ながらに座右の銘にしたいと思わされました。

「小さな単位」


「小さな単位」:マルコによる福音書2章23〜28節

 イスラエルの安息日規定は現存する世界最古の労働基準法です。この安息日規定にまつわるイエスの言葉と行為から、今朝は共に示されたいと思います。
 ある安息日にイエスの一行が麦畑を通りかかった時、弟子達は歩きながら畑の麦を摘み始めました。それを見ていたファリサイ派の人々がイエスに対して「なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と問いつめました。するとイエスは、昔ダビデも空腹であった時、共の人たちと神殿に入って、神殿に仕える祭司以外には食べることが赦されなかった供えのパンを共の人たちと一緒に食べたではないかとサムエル記上に記載されている故事を引用した後、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある」と語りました。
 原則としてあらゆる労働が禁止されているのが安息日ですが、人間の生命の維持、命の危険を緊急に避けるために必要な行為は、たとえ安息日であっても例外的に許されていました。他の聖書の箇所でもイエスは、病人をいやす行為、体の不自由な者を解放して行く行為、また申命記23章21節には、飢えた人や貧しい人が他人の畑に入って穂を積む権利が記されています。鎌を入れることは労働になり他の人々の仕事を無くしてしまうので、自分の飢えをしのぐ程度の手で摘むことは許されています。これは最古の生活保護法ではないでしょうか。旧約聖書のルツ記などにも同様な麦畑を舞台とする困ったルツとナオミを支え合う美しい人々の姿が伝えられています。
 福音書に登場するファリサイ派の人々というのは、簡単に表現すると当時の社会的なものの考え方を代表する人々です。旧約聖書の例外規定やそれにまつわる様々な物語があるにもかかわらず、イエスや弟子達を咎める姿には「病人、貧しい者、罪人」と称される人々への蔑視や、偏見差別があります。イエスと弟子の一行は旅する集団でした。定住しない人々は律法を守れないので嫌われ、罪人、社会を乱す危険な人物と見なされていました。これも旧約聖書に旅人を大切にもてなすことが奨められているにもかかわらず、新約聖書の時代ではとんでもないことと考えられるようになりました。つまりイエスは、これら社会の最下層の人々、はじかれ嫌われている人々と共にいるのです。そうではないファリサイ派の人々は、「病人や貧しい者、罪人」と共に歩む旅人集団のイエスが威厳をもって語ること、しかも神の御旨だと語ることが絶対に赦せなかったのです。
 この聖書の箇所、何かと似ていると思いませんか?今、私たちが置かれている状況に非常に似ていると思うのです。新型コロナ・ウィルスの感染拡大状況に置ける政府の対応と私たち国民の置かれている状況です。自粛をして仕事や活動を休まなくてはいけないと政府は連日の様に訴えています。ところが自粛をして休みたくても生活のために休めない方々が沢山います。世界中が自粛ムードの中にあっても、感染のリスクを承知しながらも麦の穂を積まなければならない方々が沢山いるのです。
 アメリカのニューヨークでは大変な事になっていますが、ニューヨーク市の地域別感染者数が発表されましたが、それによりますと、マンハッタン地区やクイーンズ地区に比べて、ブロンクス地区に感染者とても多いこと、その違いは経済格差だそうです。マンハッタン地区やクイーンズ地区に住む人々の年収は平均で800万円位だそうです。一方、ブロンクス地区に住む人々の年収は平均で350万円位だそうです。ブロンクス地区に住む人々は、休みたくても休めない人々なのです。新型コロナ・ウィルスの感染拡大はこうした経済格差にも現れているのです。その様な事態にあって、アメリカは第二段目の支援金を一律に実施するそうです。
 さて、ここでご紹介したい方がいます。ドイツの首相でアンゲラ・メルケルさんです。2018年に「私の信仰〜キリスト者として行動する」というメルケルさんの講演集が新教出版社から出ています。講演集の中でメルケルさんは次の様なことを語っています。「わたしたちは常に、小さな単位が一番大きな意味を持つという原則によって活動してきました。支援の原則は、できるだけ人間の側で、小さな単位のもとで行動することを意味しています。ですから、小さな単位をどのように強化できるかという問が重要になります」。
 ドイツでは国が緊急事態宣言を出してから、年収の低い人には一人に対して一律日本円にして60万円が二日後に支給されたそうです。こうしたドイツの対応には首相であるメルケルさんの政治思想が深く根付いていると思わざるを得ません。メルケルさんは政治に一番大事なことを次の様に語っています。
 「神を信じる人間として、自分が引き受ける課題の中に『へりくだり』も含まれているというのは、政治の世界ではとりわけ重要なことだと思われます」。
 へりくだるからこそ、大変な人や貧しい人の視座に立てるのでしょう。へりくだるからこそ、人の痛みや苦しみを感受出来るのでしょう。私たちの国との違いが大きく現れているのではないでしょうか。
 さて、聖書に戻ります。今日の箇所で最古のイエスの真性の言葉だと云われているのが、27節と28節です。この内の27節の「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」という重要な言葉をマタイとルカは削除しています。マタイは「憐れみ」と理解し、ルカは全く削除したままにしています。マルコに残された27節の言葉は、安息日よりも人間に重点がおかれています。ここにイエスの立ち位置があります。
 休むことよりも、まず人間の命の大切さが訴えられています。一人の命を大切にすること、一個の命を愛でていくことがイエスの行動の、クリスチャンの生き方の基なのではないでしょうか。
今は大変な時ですが、このような時こそ、私たちは一人の命の為に祈り続けたいと思うのです。