50周年に寄せて

「思いでの半世紀」 野村 利孝

「思いでの半世紀」 野村 利孝
  【わたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。】マタイ・一八・二〇
一九六八年三月三日、恩寵教会の最初の礼拝が守られた。
「鎌倉雪の下教会」の松尾造酒蔵牧師の引退に伴い、その後任とならなかった内藤協副牧師は鎌倉の人口流入による「新しい伝道の対象」と「過去に教会にぞくしていて新たなる教会生活の復帰を願っている人々を対象」として、鎌倉の西の地に同じ信仰目標をもつ同教会の二六名の方々と、他教会より三名、求道者四名の三三名で新たなる伝道の旅に踏み出したのである。
 会堂は御成町の永松アツ姉のお宅に始まり、一九六八年末には現在の教会の地、(佐助一-九-三)の民家を買い取り、翌年改修工事に取りかかり、二月一一日に、二階の棟に十字架を掲げたのである。また、一九八二年二月一四日には念願の教会堂が吉田吉彦兄の設計の下に竣工、献堂式が行われた。前年一二月一五日にはパイプオルガンも購入、搬入された。
この日の献堂礼拝で、内藤協牧師は「一四年の歳月の後、このような献堂式を迎えたことは、まことに私たちにとって、望外のことであり、ただただ感謝以外のなにものでもありません。この天の恵みに応えて更に共々に信仰に立って前進したいと願います。」と献堂の喜びと感謝、そして将来へと向かって、決意を新たにしているのである。
一九六九年六月二二日に伝道所の開設式が教区総会議長の木下芳次牧師の司式で行われ、一九七三年四月八日には教区議長、出口力牧師の司式で第二種教会の設立式で設立宣言がなされた。一九九六年二月二四日「第一種教会」の承認が教区総会でなされ、同年三月三一日、教区議長、小橋孝一牧師の司式で待望の「第一種教会設立式」が行われたのである。
 *[牧師館のこと]
一九六八年の年末に内藤先生の引っ越しの手伝いに高校生の滝口亮介兄と彼の友人と私の三人で浄明寺の先生の屋根裏部屋のような狭い部屋から、たくさんの書物を佐助伝道所の二階の牧師館に運んだ。一階は南側三間を改造して廊下付きの礼拝堂に、二階を牧師館にして一二月二六日に初代内藤協牧師家族が移られた。一九八一年一二月二〇日に、新会堂が完成し、翌年二月一四日、献堂式を行うことができた。これに伴い、牧師館は新会堂の奥の部屋を用いたが、教会学校の生徒増に伴い教室が手狭になり、一九八五年八月六日牧師館を佐助一-五-一三の教会堂近くの借家に移した。
一九九〇年五月二七日、第二代牧師、塩出俊三牧師が御成町の借家より佐助一-`八-一四に転居された。一九九四年九月一八日定期総会にて「牧師館取得に関する件が上程され可決された。ただちに牧師館取得委員会が組織され、佐助一-四-二四の土地付き住宅を取得し、一九九五年三月五日の臨時総会で承認された。改修工事も第一建設の施工で行われ、六月一日には第三代菅根信彦牧師一家が入居された。二〇〇五年三月二〇日定期総会にて、牧師館の老朽化に伴い、吉田潤兄による耐震検査の結果、倒壊の恐れがあることがわかり、改築することが承認された。工務店を数社面接調査の上、横溝工務店に依頼、同年一一月二九日上棟式、二〇〇六年六月二四日竣工感謝礼拝を行った。第四代荒井仁牧師一家は二〇〇七年三月一四日に新牧師館に入居した。二〇一七年三月三〇日、第五代渡辺誉一牧師夫妻が同所に入居された。
*[教会墓地のこと]
一九七三年、鎌倉霊園の第三八区一号に二四平米の墓地の「永代使用承諾」を得た。墓地は眺望のよい丘の頂上に位置し、吉田吉彦兄の設計でカロートの上に十字架を建てた地下室形式で、二〇〇四年一〇月には黒色花崗岩の墓誌の増設を、また二〇〇八年一〇月には地下室に納骨棚(石板二間×三段)を増設した。現在、八一名の方々が埋骨されていて、教会の総務部が管理している。
*[多くの先達を思う]
【二人は「道で話しておられるとき、また聖書を説明して下さったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。】ルカ・二四・三二


教会設立後、半世紀、実に多くの先達がこのエマオへの道を行く弟子達のように、イエスのみ言葉に心燃やし、あつい信仰をもち、あつい祈りを捧げておられたことを思うのである。その心に残る多くの方々のうち何人かの方について、思いを馳せ記す。


山本五郎 兄のこと
教会設立当初の一人。内藤牧師や山口茂兄、谷閑衛兄を始め三三名の同志の方々と共に教会の設立に努めた。祖父以来のクリスチャンで、絶えず自分の信仰が日常に形骸化されることを恐れ、聖書と祈りとに救いを求めていた。一九七五年九月二二日、七九歳で逝去された。


吉田吉彦 兄のこと
恩寵教会設立当初より全ての教会のご用に携わり、特に教会の会堂、教会墓地の設計設立等多大の奉仕をされて、一九九五年二月八日、六五歳で逝去された。


渡辺武雄 兄のこと
吉田兄と共に教会設立以来、文子夫人と共に全ての面で教会のために尽くされた。特にCSの生徒達を愛し、生徒達に慕われていた。一九九八年一月一三日、八七歳で逝去された。


相川尚武 兄のこと
「主に捧ぐことばと自我の入りまじる祈りなりしとひとり恥じたり」 この歌にもみられるように強い信仰をうちに秘めて、誠実に教会設立当初より信仰の導き手として奉仕された。二〇〇四年七月二八日、九二歳で逝去された。


山本敬 兄のこと
追浜で開業医をされていた頃より私はお世話になった。衣笠病院長のお仕事と診療活動の激務の傍ら、教会でのご奉仕は教会の運営、会員の健康まで配慮された。特に月報部では楽しく愛に満ちた文章を書かれ、深い信仰を与えてくださった。一九九三年六月一七日六八歳で逝去された。




川田俊和 兄のこと
当教会に転会された一九八一年より逝去された前年の二〇〇二年まで役員として奉仕された。そのあつい信仰と暖かく穏やかな教会生活とが懐かしくおもわれる。二〇〇三年一一月四日、七七歳で逝去された。


石郷岡剛 兄のこと
社会的弱者を援助し、社会奉仕に活躍された。一方教会では一九八四年転会以来、常に教会員の先導者として奉仕され、第三代、第四代牧師招聘委員、教会三〇周年記念誌、四〇周年記録資料集、牧師館の取得改築、諸設備の補充、補修等多岐に亘る信仰の証を残して逝かれた。二〇一〇年四月一六日、七九歳で逝去された。


【ひとはかわり世はうつれど主はみ心なしたまわん】(讃美歌四九四)こののち、五〇年のその先まで、私たちは主のご恩寵を感謝しつつ信仰に立って、鎌倉恩寵教会の歩みを続けていきたい。

あたらしい伝道所開設のころの思い出 田中英雄

あたらしい伝道所開設のころの思い出。
私の母(山本哲子)は牧師、内藤 協の姉でした。
伝道所が永松さんのお宅から、現在の所在地に移転するころのことでした。あれはいったい何だったのか、百円と印された横長の紙が十枚まとめられて、一冊千円の綴りになっている、領収書だったのでしょうか。
内藤は親類縁者がとても多い家で当時、叔父・叔母が9人、兄弟姉妹は母親が再婚であったこともあって9人。この綴りを持って叔父(牧師)は伝道所設立の寄付を集めるために一軒一軒と尋ねていたようです。「かのちゃんが」「かのおさんが」「かのお先生が見えましたよ」そのころ母といっしょに住んでいた祖母のところにすぐに電話がかかってきました。そのさかえババは再婚先で「耶蘇の奥さん」と言われた経験もあったようで、親戚とはいえ容易に話が進まないのではと案じていたようでした。そんなこんなで「困ったもんだね」と言ってましたが、母は「かのちゃんは自分の為だったらしないけど、教会に必要なことだから行ったのでしょう」と平気でした。そう、当時婚約していた田中の家からも「先生が見えましたよ」と電話がありましたっけ。


内藤協牧師の思い出。
伸子(妻)
逗子の家に祖母を訪ねてきては「疲れた」とゴロンと横になっていた姿が思い出されます。
もう一つ私の印象に残っていることがあります。常に雪の下教会の松尾先生、川村さんのおばさま、青年会で一緒だった方たちのことは当時の呼び方で穏やかにお名前を口にしていました。
英雄(夫)
伸子さんが生まれて間のない娘を背負って、日曜礼拝のオルガン引きを務めていました。
私(未受洗)は、礼拝の邪魔にならないように子守りと運転手として参加していました。
教会の掲示の言葉には「疲れたものは来なさい、休ませてあげよう」とあるのに、内藤先生が声を張り上げて、汗を流しながらされる説教は私にはとても重くて、宿題を負うて帰るような思いがしたものでした。まだ頂いた宿題に応えることができない「未熟の老人」でいます。

思い出のキャンプ 中里美穂子

思い出のキャンプ 中里美穂子


 私が姉や妹と共に教会学校に通い始めたのは、今から45年ほど前の小学校入学した頃。同じ七里ヶ浜にお住まいの山本敬先生が、毎週、私達を車で連れて行って下さいました。学年が上がると、母からもらった電車賃と献金を握りしめ、江ノ電に乗って通うようになりました。同級生も誘って、学校の延長のような気分でした。
 行事、特にキャンプや生徒大会(運動会)・クリスマス等はとても楽しみで、中でもキャンプは、私にとって一大イベントでした。年ごとに様々な思い出がありますが、初めてバンガローに泊まった小学4年生の夏のキャンプは忘れられません。当時、年少組キャンプは教会での宿泊でしたので、年長組になるのが待ち遠しかったのです。敬先生による直前の体調チェックもパスし、電車を乗り継いで、丹沢大洞キャンプ場へ向かいました。バンガロー前には広い川原が広がり、沢では水遊びも楽しみました。夜には滝口亮介さんの怪談話。外のトイレが怖くて、友達に傍から懐中電灯を差しかけてもらいました。翌朝、川原で礼拝し、思い思いの場所に陣取って食事。最終日の昼食は内藤牧師先生お手製のナポリタンでした。その美味しかったこと!
 一方、中学2年生の時の中高生キャンプ、こちらも忘れられない思い出があります。ハイキングに出掛けて、宿泊していた箱根伝道所山の家まで帰ってきた時、山の家で飼われていた柴犬に噛まれてしまったのです。ちょうど産まれたばかりの子犬が犬小屋にいて、その子犬を触ろうと手を伸ばした瞬間、母犬が飛び出してきて、私のふくらはぎにガブリと噛み付きました。恐怖と痛みで呆然としていたら、すぐ吉田暁美先生が診療所へ連れて行ってくださいました。「お母さん犬は赤ちゃんを守ろうと必死だったのよ」と言われて、自分の不注意で騒動になってしまったことが恥ずかしくなりました。今でも、その時噛まれた歯型がうっすらと残っていますが、それを見るたび、当時の苦い記憶が蘇ってきます。
 教会学校では牧師先生・美枝子先生はじめ多くの先生方にお世話になりました。朝早くからのCS礼拝に備えて色々なご準備をされ、また行事の時には、私たちが事故なく楽しい時を過ごせるよう配慮してくださったことを思い、今更ながら感謝の気持ちでいっぱいです。
これからも恩寵教会CSのお働きの上に神様の祝福とお導きがありますように、とお祈りしています。

目に見えないもの 内林絢子

目に見えないもの  内林絢子


 「神を信じる」という告白と「神を信じない」という告白は、異なる意味合いがあるだろうか。私は同義であると考える。いずれも目に見えない存在に目を向け、「神」という存在について思考している。そういった意味では同じでも、「信じる」と「信じない」とでは全く逆の行為ではないかと思う人もいるだろう。では、「信じる」と告白した人たちは、常に神を信じているのだろうか。キリスト教にはそうしたパラドクスが散在している。「死」は「生」であり、「悪」が「善」であり、「不在」が「存在」なのである。


 1880年代初頭にカメラが発明され、後半にはフィルムが民間に普及し、人類は見たものを映像として残せるようになった。時を同じくして、フランス文学に象徴主義が現れ、精神世界を象徴的に表す動きが出る。象徴主義の詩は、書かれているとおりに読むことはできず、詩の形式や言葉を頼りにその含意を解釈しなければ、詩を理解することはできない。実在するものをそのまま映像として残す動きに反発するかのように現れた象徴主義。彼らが反発したのは目に見えるものをそのまま捉える事というよりは、目に見えないものに目を向けようとしない事だったのではないだろうか。


 それから130余年、我々の生活には、画像や動画などの「目に見えるもの」が溢れている。「目に見えるもの」の崇拝の時代である。「インスタ映え」が流行し、SNSなどに自由な価値観で画像を共有する時代。130年前の人類には想像もつかない技術の革新であるが、当時の「象徴主義の流れ」は、まるで現代への警鐘のようにも感じられる。現代人、とりわけ日本人は、哲学の教育を受けないせいか、「目に見えるもの」に傾倒し、呪縛され、「目に見えないもの」を見出そうとする思考力や精神力は低いように思われる(しかし、目に見えない物を具現化する能力には長けているし、そこから素晴らしい芸術も生まれているが)。そうした日本人の中に、聖書を通して「目に見えない真理」を求めようと思う人は、どれくらいいるだろうか。


 「目に見えるもの」を崇拝する時代にあって、如何にして宗教が拡まり得るのか。恩寵教会創立から半世紀、教会の存続という事に思いを馳せることが多々ある。存続とは何だろうか。建造物の維持だろうか、共同体の維持だろうか。また共同体の方針の維持か、それとも習慣化したイベントの継続だろうか。いずれも教会存続の主たるものにはなり得ない。教会が存続するということ、それはやはり「目に見えない」真理を求めていく行為が根幹となる。今までも、そうした歩みがあり、その中で主は必要なものを必要な時に与えてくださり、今の恩寵となった。その事実に鑑みて、この先の歩みに繋げたい。