教会の歴史

131号 教会の歴史 初めての礼拝 橋本恭子

131号 教会の歴史—始めて(原文ママ)の礼拝—   橋本恭子



 一九六八年二月十八日、雪ノ下教会の臨時総会を契機に十余名の有志の者が教会を去った。そして何度か会合を重ねた末、内藤協先生を牧師として迎えて小さな伝道所をつくることになった。まず集会場所として静養館ホームに入居していられる永松あつ子さんの御成町のお家が空いていたので、永松姉のお姉様と同志西田琴姉が親友だったのでこの方をとおして借りることができた。私たちは今迄の経過については多く語らず、教友を誘わず拒まず、与えられた道を謙虚な姿勢でひたすら歩もうと申し合わせた。

 永松さんのお家は四季折々の花と緑の木々に囲まれた庭の奥深くにあって、こうした集会には最適の建物だった。私たちはまず六畳を礼拝所として講壇とオルガンを据えつけそのうしろにはカーテンを張りめぐらし、玄関がないので縁側に低い階段と手すりを、そして屋根にはビニールの張り出し庇をつけ、座布団、茶器など皆で持ちより四畳半の部屋に備えた。門の扉には「鎌倉恩寵伝道所」と説教「信仰と伝道の決意」を大きな模造紙に書いて貼りつけた。

 一九六八年三月三日の第一回の日曜礼拝は少数でと考えていたのに大人三十三名、子供二名が参加され二つの部屋はまるではちきれそうだった。この日のことを矢野ふく子さんは、「新しい教会に足を踏み入れた時オルガンの伴奏と讃美歌が聞こえて来た。とたんに云いしれぬ涙が大きな目からとめどなく流れた」と。又宇多和子さんは、「或る日曜日の朝、お隣りからきこえてくる讃美歌を耳にし、いつの間にかそこに教会ができた事を知って驚きと喜びで一杯でした。」と一九七六年発行された文集「恩寵のわだち」に記載されている。それ程静かな、そして感激に満ちた礼拝だった。

 後奏が終って静かに首をめぐらすと、全く思いがけない別れて来た友が大勢座って居られたので、とてもとても嬉しかった。

 そしてこの小さな伝道所の行くべき道が開かれた思いで心からの感謝の祈りを繰り返した。131号

132号 教会の歴史(二) 橋本恭子

132号教会の歴史 二橋本恭子

 この静かな永松姉のお宅を伝道所として、聖日礼拝、聖書勉強会をはじめ楽しい集会や、年召した諸姉は渡辺武雄兄のご好意による材料で談笑しながらのお仕事会や七月四日には小さなバザーさえすることができました。

 併し、ここはやはり仮庵で早晩には開け渡さなければならなくなり、みんなでアチ、コチ土地や家を探しあるいている時、矢野ふく姉が佐助に土地つきの売り家を見つけられすぐ見に行き、八六坪の土地と三五坪の二階屋で手ごろなので一二五〇万円で買うことを決め、一九六八年一二月末引移りました。八畳の二階は内藤先生御一家の居室とし、階下を教会用に大改造しました。即ち十畳の洋間の隣りの四畳半と縁側、押入れをつぶして二十畳ほどの広間にして礼拝場とし、八畳の日本間の外側に大きな玄関を増設、旧玄関と小部屋を内藤先生御夫妻勉強室に変えました。又門には大きな白木の板に谷閑衛兄が墨痕あざやかに「鎌倉恩寵伝道所」と大書され、二階の屋根には白い十字架を置きました。礼拝堂は清楚に講壇とこれも谷兄が心こめて作らせた重量感のある十字架を掲げ、とにかく我々にとってはすばらしい教会に再生されました。玄関前のお庭も竹や柿、その他の樹木や花々があり風雅な風情でした。

 伝道所開設には親教育が必要なので宮崎牧師や役員方のご好意で葉山教会になって頂けたので一月三十一日に土地家屋の登記をすませて、神奈川教区総会に伝道所開設を申請しました。が、すぐには許可されず一年を経た一九七〇年五月にやっと認可されとなったのでその年の六月二十二日、教区総会議長木下芳次牧師(茅ヶ崎教会)の司式で、伝道所開設式と牧師任職式が行われ、席上宮崎牧師や大先生方のはげましやお祝辞をいただき無事に式を終え、そのあとはお茶の会で和やかなひと時を過ごしました。この日は雪ノ下教会の方や他教会からもたくさんお見え下さったので八十七名の出席者で、内藤先生はじめ教会員にとって大きな感激と決意の一日でした。

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133号 教会の歴史(三) 橋本恭子


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教会の歴史 三
橋本恭子


 仮伝道所の名のもとに二年近くをひたすらに教会建設をめざして歩きつゞけていた時、「恩寵伝道所」が認可されたよろこびは、一人一人の胸に今もなお、はっきりとやきついています。


 その間に調えたものの中に、教会にとって大切な器、聖餐式のパン皿とコップ台、そして洗礼式の時の洗礼盤があり、これらには一番心を用いました。聖餐式用具はすぐ入手しましたが、洗礼盤についてはみんなで何度も話し合った末、それぞれがもっている純銀製品(メタル・カフスボタン、杯、お盆など)を持ち寄り、それを鋳つぶして材料の一部に加えて、杯型のものを作らせることになりました。


 やがて病床聖餐のための携帯用のものも寄附され、これらは教会にとってもかけがえのない品々となりました。


 もう一つ特記することは、この伝道所には所謂婦人会という独立した集合は持たず「婦人の集い」として、費用も教会の会計の中に組み込まれていることです。これは当初から、婦人の会員方の負担を軽くするためです。そのためにもいざバザーとなると男女の別なく、みんなが大童になって働き、バザーが本当の教会員みんなのバザーとなっていることも特記すべきことでしょう。


 恩寵伝道所発足以来、会員も追い々ふえてきたので、この辺で二種教会にと申請することにしました。


 その後一九七三年には二種教会として認可され、葉山教会を親教会とした伝道所時代は終りました。がこのことに関しては葉山教会の御厚意がなかったら、伝道所にもなれなかったのにと、ここに改めて厚く感謝申し上げる次第です。


 この年の四月八日には「日本キリスト教団二種教会」として私たちの恩寵教会は、大勢の方々の祝福の内に独り歩きをはじめることになりました。


(海の絵の挿絵あり)
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