20〜50周年記念 (不要 268)

148号  20周年記念委員会   岩瀬

20周年記念委員会     月報 148号


20周年記念委員会だより


 12月13日に委員会を開いて次のように諸行事予定を決めました。
・記念誌(岩瀬、石郷岡、野村)
・文集(吉田、相川、滝口)一月中旬原稿募集 六月上旬完成
・記念礼拝(塩出、原、松崎)三月六日 十時半  後愛餐会
・記念式(川田、松本、渡辺、吉田/暁)
   三月十三日午後二時半。 二月一日案内状発送。
・記念伝道講演会(山本敬、田村、滝口恭) 五月中旬
・記念音楽会(服部、山口、島田)
   六月三日(金)午后六時半。鎌倉公民館。
      吉野直子・吉野篤子ハープ演奏。入場券を販売する。


皆様お覚え下さいまして、ご協力下さいますよう、お願いいたします。
                            (岩瀬)

149号 20周年記念委員会  山本敬

20周年記念委員会                   月報149号

恩寵創立二十周年の記念礼拝及び記念式典

 去る三月六日の聖日、恩寵教会の二十周年を記念する礼拝が持たれた。 礼拝出席者はお客様を含め、約百二十人、内藤先生の“信仰の出来事”と題するお説教で、二十年前の雪の下教会から別れ、永松さんのお宅の離れで、集会を持った頃の思い出を語られ、古くからの会員は懐かしさ一しおであった。 ついで、会員を中心とした愛餐会が開かれ、約九十人の人が参加し、吉田吉彦さんの司会で、創立当時の思い出話を、渡辺武雄(原稿武夫/訂正)さん他から伺い、皆当時の労苦を偲んで、感無量というどころであった。聖歌隊による讃美歌五二七番“わがよろこび わがのぞみ”が歌われ、懐かしさの中にも喜び、そしてこれらの二十年を思って、新しい決心をもって会を閉ずることができた。    ✖   ✖   ✖ そして一週間後、三月十三日の聖日、午後二時半より二十周年記念式典が開かれた。 遠く半原教会からかけつけられた御高令の米田武男牧師をはじめ、茅ヶ崎教会牧師木下芳次牧師、衣笠病院木村知巳牧師、社会館々長阿部志郎先生、小川町教会小林利夫牧師、鎌倉教会鈴木和男牧師他多数のお客様をお迎えし、参加者九〇名。前記の先生方の祝辞を頂いた。 恩寵教会創立時の神奈川教区議長であられた木下先生の思い出の中には、当時の恩寵教会をとりかこむ厳しい空気が切々と語られ、又、木村先生からは、衣笠病院に病院長はじめ職員と多くのボランティアが、この教会から送られていることの感謝、等々のお話があった。 式典を終わり、直ちに会場が設定されて、お茶の会が持たれた。 こちらは司会山本長老のもとに、終始和やかな雰囲気の中で、川又先生の志朗先生の、当時の内藤牧師の心労などがユーモアたっぶりに語られた。 お客様どうし又会員とお客様等、日頃お会いしない懐かしい顔ぶれもあり、和やかな語らいは続けられたが、午後四時頃、恩寵伝道所第一回の“礼拝順序”に記載された内藤先生の“お祈り”をそのまま司会者によって祈られ、お茶の会は閉会となった。 二週にわたる二十周年記念行事も、無事、盛会のうちに終ることが出来感謝であった。 『第一回礼拝順序のお祈り』 全能の父よ、いま私たちに低い貧しい心と強い確かな思いを与えて下さい。この新しい群の長い困難な教会建設の道を助け励まして下さい。私たちに外側でなく内側を大切にする事をこゝで教えて下さい。あなたの御言に従うたたかいを、私たちがこゝに真実になすことができますように、アーメン 
(山本 敬記)

211号 30周年記念   吉田潤

30周年記念          月報211号



「30周年記念」一階改修工事に 373字
                        吉田 潤


 創立30周年を記念する事業の一つとして計画してきた一階のバスルーム・和室・コピー室の改修工事が6月末に始まりました。約1ヵ月間の工事期間で7月末には完成を予定しています。
 今回の工事はこの春に行われた中庭を平らにし、集会室の窓を開き扉に改修する工事と併せ、車椅子でも支障無く1階集会室で礼拝を守る事が出来るようにする事、そして体の不自由な方や小さな子供、そしてお年寄りがより使いやすい教会にする事を目的に、特に車椅子で使用できるトイレを設ける事を主とした改修工事です。
 3月の教会定期総会で基本案の承認を受けた後も、教会会員及び教会関係者の方々やCSのスタッフの意見を聞き最終案としました。
 無事工事が完了し、一人でも多くの方々が教会活動に参加出来るよう、会員関係者のご協力をお願い致します。

213号 30周年記念  吉田暁美

30周年記念           月報213号


創立三十周年感謝会
                             吉田暁美


 一九六八年三月三日、御成町にあった永松アツさんのお家をお借りして、大人三十四名子供三名が第一回の礼拝を守り、三十年後九八年の十月二十五日、千六百回の主日に三十周年記念礼拝を感謝のうちに捧げることができました。
 第一回の礼拝説教は初代牧師、内藤協先生の「旅する教会」。三十年後の今回の説教は菅根信彦牧師の「成熟への道のり」でした。
 礼拝後、全員で記念写真を撮り内輪の感謝愛餐会でしたが、大人六十八名、子供十三名の出席で、楽しい一時を過ごしました。
 食前感謝祈祷、そして野村利孝さんより開会の挨拶をしていただきました。創立当初から恩寵教会の女性の働きがどんなに大きかったかを語られました。男性は数こそ少なかったのですが仮伝道所のために一生懸命に働いておられた姿が走馬灯の様に思い出されました。それぞれのテーブルを囲んで、和気藹々のうちに心づくしの食事を充分いただき、次のプログラムに移りました。三十年史に掲載できなかった写真を三十枚程、OHPを使って伝道開設当初から今日までの懐かしい思いでの一こま一こまを見ていただきました。
 滝口充さんからは、雪ノ下教会から出られた方々の中には、明治生まれの信仰の先達、特に教育界、YWCA、実社会で自立した女性として生きられた多くの方々がいらしたこと。若い者が色々な面で教えられることの多かったことを語って下さいました。教会学校の活動については、二十年以上前の夏期キャンプの様子を木南恒雄さんが話されましたが、大した事故にも遭わず、無事帰宅出来たことに教師一同ほっとしたこと等が思い返されました。当教会にはすでに四代目の信仰の継承が芽生えていることを野村薫さんが長男聡ちゃんを抱いて「僕が幼児洗礼を受けたのは丁度この年頃でした」と紹介してくれました。締めくくりに問安用テープ吹き込み奉仕者の方が讃美歌三九八番、四二四番をきかせて下さいました。閉会に当たり菅根先生に祈祷をして頂き、感謝会を閉じることが出来ました。

269号 40周年記念  野村信子

40周年記念 269号 野村信子



四十年をふり返り                野村信子


 今から四十年前の一九六八年(昭和四十三年)三月三日に、今は亡き永松さんの空家になっていた家で、最初の「鎌倉恩寵伝道所」の礼拝が持たれました。
そこは市役所前のワイン館の横を奥へ入り、少し行った左側にある広い敷地に建つ四畳半と八畳、台所のこぢんまりした別荘のような家でした。広い庭に見事な老松が枝を広げ、初夏には紫色のテッセンの花が咲く風情のある家でした。
 恩寵伝道所は雪ノ下教会で副牧師をしていらした内藤協先生が鎌倉駅の西の方に伝道の場所が必要になると考えられて、始められたものでした。当時、鎌倉は新しい住宅地が藤沢よりの方に開発されていたのでした。
 三月の五回の聖日礼拝の出席者の平均は三十五名で、皆うきうきした足どりで伝道所へ集まったものでした。何もないところからの出発でしたので下駄箱、ガスレンジ、ストーブ、花瓶、お湯を入れるじゃー、お盆、バケツ、テーブル・クロス、コップ、湯飲み、座布団四十二枚を持ち寄りました。それと、洗礼式の時に使う洗礼盤を作るために銀で出来ている品物2.3kgが捧げられました。今、洗礼式の時に用いる純銀製のカップは皆で持ち寄った銀製品をつぶし、誂えて使ったものです。
 四月の第一聖日の初めての聖餐式には四十七名の出席者がありましたので、皆は会堂の狭さのことで頭をいためはじめました。まとまったお金は全く無しの出発でしたので、会員で出来る仕事を渡辺さんのご主人の武雄さんにお世話していただきました。このお仕事会が四十年後の今も続いているお仕事会の始まりです。
 次の週はイースター礼拝で六十名の出席者がありました。礼拝後、伝道所初めての愛餐会が会員持ち寄りのお弁当で開かれました。八畳と四畳半では座りきれずに出窓に腰掛けたり、玄関や台所の床に座って、手作り、心尽くしのお弁当を隣の人に手渡したり、手渡されたりしての愛餐会でした。この伝統がずっと伝えられ、今では持ち寄った一品一品の食べ物がテーブルに並ぶと、不思議なことに栄養的にも調和がとれ、ホテルのバイキングの上をいく豪華な愛餐会になります。イースター後のペンテコステの礼拝後にも愛餐会をした記憶があります。
その当時はいろいろと皆で相談することが多く、普段の礼拝にもお弁当持ちで教会へ行ったものでした。
 七月に教会ををもっと広い部屋のある家へ移転するための特別委員会ができ、八月に現在のこの場所にあった二階家を買うことに決まりました。永松さんの家では三月から一二月までに四十二回の礼拝が持たれ、十二月十五日の最後の礼拝には昼食を共にして感謝会をしました。
 その年のクリスマスには、この場所に住宅の造りのままの家でしたが新会堂があたえられ、私共はこれ以上のクリスマス・プレゼントはないと感激し、神様のお恵みに感謝したのでした。
 翌年四月二十九日にバザーが開かれ、この教会を支援して下さるために雪ノ下教会から大勢の方がみえました。そして毎年四月二十九日にバザーをすることになり、今に至っています。
 現在の教会堂は一九八一年(昭和五六年)十二月に建て替えられ、最初の礼拝はクリスマス礼拝でした。伝道開始から十三年後のことになります。
 今から二十年前、一九八八年三月六日(昭和六三年)原文:五六年:誤 三月六日に創立二十周年記念礼拝がありました。そして一ヶ月後の四月三日はイースター礼拝でした。その翌日の四月四日に初代牧師である内藤協牧師は心筋梗塞のため急逝されたのでした。このことは私共にとり突然のことでとても悲しいことでした。
 前年一九八七年六月から伝道師として主のご用にあたっていらした塩出俊三牧師に代務者として引き続きご用にあたっていただくことにお願いしました。けれども病気がちであった塩出牧師は四年後の一九九二年十二月三十日に天に召されたのでした。三代目の菅根信彦牧師は二年後の一九九四年五月に着任なさいました。
 牧師のいない一年四ヶ月の間は代務者として木村知巳牧師、協力牧師として畠山保男牧師がお務めをして下さり、聖日礼拝には恩寵教会を祈り支えて下さる大勢の牧師方により礼拝、聖餐式が持たれました。
 菅根牧師は八年間この教会で牧会をなさり二〇〇二年三月三一日のイースター礼拝を最後に神戸教会へ移られました。
 現在の荒井仁牧師は二〇〇二年四月七日の聖日礼拝から私共を率いる牧師として、奥様のかおりさん、お嬢さんの雅さん、坊ちゃんの真ちゃんと共に恩寵教会の新しい顔となり、今まで主のご用にあたられています。
 この四十年、前途多難であった私共の教会のために気遣って下さった多くの教会の祈りや大勢の方々の祈りに支えられてきたことを改めて思います。今もって大勢の方々がバザーに訪れて下さり、夏みかんを提供して下さる方、ママレードを贔屓にして下さる方々などを思うと感謝でいっぱいです。
 一方、創設以来、神様によって私共の教会の歩む道が厳しい中にも常に備えられてきたことを覚えます。これからも創設当時の己を低くし慎ましい心と感謝と喜びをもって歩んで行きたいと思います。

299号 45周年記念  原 節子

45周年記念                  月報299号


一九六八年の1年間を振り返る
          原 節子


 三月三日教会創立45周年を迎え、創立時のお話をする事になりました。私の母(望月)が執事をしておりましたので、私も聖日は鎌倉雪ノ下教会で礼拝を守り、一九六五年には、梶原に住まいを定め、月1回内藤牧師が開かれている深澤地区もより会に出席しておりました。


 六十七年の教会五十周年に松尾牧師の話が出た時は大変驚き、すぐ会員の中で内藤副牧師の留任願いの署名を集め長老会と話合いましたが、結果として先生は鎌倉駅西方面に開拓伝道所を開く事になりました。
六八年三月三日、三十四名の出席で永松さんのお宅で最初の聖日礼拝が持たれました。和室二間に座布団を敷き、ベビーオルガン、小さいテーブルの演台のみの無からの出発でした。でもその後少しづつ(少しずつ)教会の備品が増えて行くのは嬉しく感謝でした。特に、クリスマスまでに新しい場所へ移らなくてはならなくなった八月に現在の場所の土地建物が買えましたことは、先輩兄弟姉妹達の思いと努力、神の恩寵の賜物だと思います。
 どうして「恩寵教会」と名付けたかと聞かれることがありますが、内藤先生が教会一周年記念の説教の中で、恩寵の確かさ、意義を語られていて、これは月報十二号にも掲載されているのでお読みください。七十五年に作られた「私たちの教会の姿勢」が教会形成の根本であると信じて歩んできましたが、これからも主の福音の恵みに自らを委ね、伝道奉仕に関わって行きたく思います。
【横書きでした】


鎌倉恩寵伝道所       月報12号     1969年3月9日


「恩寵のたしかさ」
   ロマ人手紙 3章21〜31          (3月2日説教要旨)


 礼拝を始めてから満一年のこの日に立って、主の憐れみと顧みの中に私たちがあった事を想う。“ああよかった”という言葉を、誰もが持っている。この事を当然の事であると思う。ただ、“ああよかった”という私たちの想いの陰で、この一年このような溢れる恵みを受け、今この様に立派な会堂が備えられている事は、やはり私たちが正しかった証拠であると考えるならば、私たちは恩寵伝道所の名前を降ろさねばならない。これは、人間の納得の一番便利な論理だからである。
 私たちが恩寵という名を教会の名前にしたのは、人間の因果律や納得の論理を離れて、主の恵みの福音に私たち地震のすべてを委ねるためであった。神が私たちを恵まれたのは、私たちがこの恵みを受けるにふさわしくないにも拘わらず、この小さな貧しい群を主が自由に恵まれた故であって、決して私たちの判断や理解が正しかった故ではない。主は私たちの後と先に関わりなく、苦しみを与え、また憐れみ給う主である。価なきものが、価を受ける福音の恵みの言葉が、今私たちの中にこのように示されている。私たちは、どのような在り方をもって、この恵みにあずかるべきか。私たちは、何よりもこの教会をして人間の自己義認の城としてはならない事を思う。感謝してこの素晴らしい恩寵の賜物を受けるという事は、私たち自身の底に展がる、人間の罪を告白する以外にない。恩寵、恩寵と自分でただ繰り返えし歌っていては、旧約の預言者や中世の免罪符売りになってしまう。この恩寵は自己陶酔であってはならない。この恵みの福音の言葉を、私たちはどうしても、伝道と奉仕を通してこの神なき世界に選び出さなけらばならない。この教会の確かさは、どんな人間の確かさでもなく、神の恵みの確かさだけが、私たちの群の生命である。そのように祈り、そのようにこの教会を形成して行きたい。