61号 牧師の休日 内藤 協
【エッセイ】月報61号
牧師の休日 内藤 協
昨年は牧師が一人で、神学校時代に夏期伝道は行った地などを旅しましたが、今年は夫婦で出掛ける機会を得ました。教会の車を使わせて頂いて、信州一帯から高山、美濃にかけて、色々な所を訪れました。家内は煙とも雲ともみえる浅間の頂きの姿に、立原道造という詩人を追っていました。私は、高山で三年間何もしないで、じっと将来の高山伝道に備える、熊谷牧師の姿に感じるものがありました。いい休暇・いい旅でした。
107号「盛岡を訪ねて。」内藤協
「盛岡を訪ねて。」内藤協 107号
「盛岡を訪ねて。」内藤協
神学校を卒業してから直ぐ赴任した盛岡青山教会から、教会と幼稚園の創立二十五周年記念に招かれて、私ども夫婦で久しぶりに盛岡を訪ねました。
当時盛岡の郊外に青山町という町があって、ここは元の騎兵聯隊の跡地で、樺太や満州からの引揚げて来た人々の住宅として、旧い兵舎がそのまま使われていました。一九五二年頃に国際ワークキャンプがこの町で行われ、それが契機となって市内の教会青年会による子供会が開かれるようになりました。この中から教会建設の願いがもり上がり、私が招待されて行くことになりました。
赴任した時にはまだ建物も何もなくて、市内の善隣館というキリスト教の施設に起居して、青山町に通いました。やがて米国の教会の援助もあって幼稚園舎兼会堂兼牧師館のような建物が、元の軍馬の馬小屋の土台の上に建ちました。
盛岡は雪は少ないのですが、冬は実に寒い所でマキストーブをたきながらの厳しい生活でした。眼の前に見える岩手山から吹きおろす風を受けながら四冬を過ごしました。
短い四年間の月日でしたが、この間に与えられた数々の尊い経験は、私共にとって忘れられないものです。教会の方々との交わり、市内の牧師達との交わり、奥羽教区の先生方との交わりは、今でも感謝しています。
二十五年後の盛岡は全く別の町を訪れているかのような感が深く、特に当時スラム街であったような青山町の変容は驚くばかりでした。町並も整い商店街も出来、昔の兵舎など一つも残っていませんでした。
青山町教会も増築されて、私どもが新居として生活した中二階の八畳は幼稚園の事務室になっていました。二十五周年記念の礼拝に、当時の幼稚園の園児だった人が幾人か来て下さって、二十五年の歳月の大きさを見せつけられました。当時の園児だった方々の子供たちが今、園児として幼稚園に来ています。
もし私どもが盛岡で牧会をする経験が与えられなかったら、地方の教会の実情など全く知らないまま、都会の教会の恵まれた条件だけで事を考えたかも知れません。東北の寒さと雪の中で知り教えられた多くのものが、この鎌倉の伝道の中のどこかに生かされているような思いと願いを持ちながら盛岡に別れを告げました。
108号 会堂建築に向かって
108号 会堂建築に向かって
120号 教会の折々のうた 内藤協
教会の折々のうた
教会の折々のうた
内藤
教会の表に掲示を出してから、もう十四年になります。聖書の言葉、引用の言葉、和歌、自分で考えた言葉、いろいろその週によって違います。通る方が、時々書き写しておられる姿も見ます。
教会に実際に入って来られる方の数は限られているので、表の道ゆく人々への、教会の呼びかけの言葉として始めました。他の教会の牧師さんも、刺激されて始めた、という便りもありました。
カードにしてとってあり、まとめて本にしたらと言って下さる方もあるのですが、仲々まとまりません。
自分の角度からの歌を選んだり、言葉を考えたりしていますが、何かいい歌、いい詩などがありましたらお寄せください。伝道のよい4行詩として続けたいと思っております。
120号 1983/5/29
146号 「東ドイツを訪ねて」 内藤協
146号 「東ドイツを訪ねて」 内藤協
米国の留学から帰ってから、三十年近く一度も海外に出る事のなかった私にとって、此の度の東ドイツへの出張旅行は仲々大変なものでした。
主な目的は東ベルリンでのキルヘンターク(教会大会)に参加する事と、世界教会協議会の信仰職制委員会の会議へ、教団の信仰職制委員長として出席する事でした。
アンカレーヂで飛行機が動かなくなったおかげで、早朝のロンドン市内をタクシーで見物できた事や、東ドイツのビザを紛失したと思い込んだおかげで、ウイーンを見る事が出来た事など、色々ハプニングがありました。
西ベルリンより東ベルリンへ入る大きな検問所は、フリードリッヒ通りにあるチエク・ポイント・チャリーと呼ばれる所です。この検問所にて待つ事十分位、無事通過する事が出来ました。
そこに広がる東ベルリンの光景は、ほとんど戦後そのものでした。弾痕なまなましい建物が並び、誰も住んでいない半壊のビルが至る所に立っていました。
西ベルリンを取りまく高い厚い壁と、この東ベルリンの町の姿は、ドイツが現在むかえている政治的経済的状況の重さを物語っているようでした。ドイツの状況は、依然として戦後であり、また戦時中でさえあるように見えました。
三週間の東ドイツ訪問での、私のもう一つの予定は幾つかの強制収容所を訪れる事でした。
西ベルリンの北にあたる東ベルリンに、オラニアンブルグという町があり、そこにザクセンハウゼンという収容所があり、そこを訪れました。広大な敷地に放射線状に建ち並んだ収容所の跡がありました。入口の近くに様々な生体実験をした建物が、そのまま残っていました。死体焼却所には花が供えてありました。
ポーランドのワルシャワの北東百キロ位の所に、トレブリンカという収容所があります。親切なタクシーの運転手さんと出会い、連れて行ってくれました。この収容所は、ワルシャワ・ゲットーの反乱の人々が連行され殺された所で、収容所としては珍しく収容所内で武装蜂起があった所で、ソ聯軍が入って来た時には、証拠をすべて埋めてしまった収容所です。大小さまざまな石が見わたす限り、墓石のように立っていて、殺された人々の名前がその上に書かれていました。
アウシュビイツはポーランドの南のクラコフという古都から、南西へ三〇キロ位行った所のオスビエンチイムという町にあります。
アウシュビイツというのは総称で、この地帯に散財した四〇近いものはポーランドの工兵隊の兵舎を使ったもので、レンガ作りの二階建ての建物です。そのすぐそばに半地下のガス室と焼却場がありました。
ヒットラーはユダヤ人という敵を国内に設定する事により、ドイツ人の自己意識を明確化し、国外の敵と戦争をした独裁者でした。
ドイツはこのユダヤ人虐殺の歴史の故に、今日も深い苦悩と傷を担っています。東西にドイツが分割されている状況も、この事件に因する所が多いように思います。
ドイツが戦後を重く重くひきずっているのに反して、日本は戦後を何か軽く過ぎてきたのではないかとさえ感じました。時あたかもぶつかった岸前首相の死は、私には何か象徴的な事のように思えました。
146号
150号 故・内藤協先生 葬儀式時 鈴木和男
150号 故・内藤協先生 葬儀式時 鈴木和男
まるで「青天の霹靂」のごとくに、内藤協先生の死の報せは、突如として我々の間をかけめぐり、我々を絶望と悲嘆の渕につきおとしました。
先生は、復活祭の礼拝・諸行事を一切終えられての翌日、四月四日、横浜方面に出かけられ、更に、平塚方面に訪問の予定があって車を走らせておられる途上、にわかに胸部に不快を憶えられ、平塚教会に立ち寄って自らの手で救急車の手配と横須賀・衣笠病院へ赴くよう指示して、その時はなお自力で歩いて救急車におのりになりました。
鎌倉・七里ケ浜を救急車が通過する頃、しかし、事態は急変し、急拠、鎌倉・清川病院へ到着した午後五時三十分、心臓も肺機能も共にすでにその活動を停止し、全ゆる緊急の処置を講じたにも拘らず、事態を回復することは不可能でありました。
奥さまの、“…なぜ?!…”という哀切きわまりない訴えにも拘らず、医師たちは午後六時五十一分、「急性心筋梗塞」による死の宣告を致しました。
「何ということか…」— 我々は全く呆然とする他ありませんでした。
「五十九歳!」— まだ、これからでありましたのに!
かつて、東京・富士見町教会の創設者であり卓越した伝道者・牧師であった植村正久が死んだとき、かけつけた無教会派の指導者・内村鑑三は、その死顔に、“おゝ、グレート”との叫びを発した由でありますが、内藤先生の、また実に堂々たる御顔、何の苦悶の痕跡すらも感じさせない平穏なるご容貌 ー それがひとすじの慰めでありました。
内藤協先生は、一九二八年十一月五日、四人の子供をかかえて夫人を失い途方にくれておられた内藤游(あそぶ)氏の後添いとしてご結婚なさいました旧姓・小山栄さんのご長男として東京にお生れになりました。
ご父君、内藤游氏は、応用化学の分野の理学博士であられ、「内藤燃料研究所」を主宰して石炭の燃料としての燃焼効率の理論と実際とを研究し、いくつかの化学方程式を開発し「アソブ・ストーヴ」というユニークな製品をも手がけた当時の先端の学者・技術者であられた方であり、「煤煙防止法」という今日云うところの公害除去の研究もなさったこの分野のパイオニアのおひとりでもあられました。
母君の栄姉は、岡山県・玉島のご出身の、幼い時よりキリスト教信仰によって育てられ生涯変らず忠実なクエーカー教徒の一人として信篤く愛深く神と人との前にまことに謙虚に寡黙に生きられ、昨年クリスマスに満九十七歳のご生涯を全うされた方でありました。
内藤協先生は、太平洋戦争後、逗子に居を移されてより、鎌倉・雪ノ下教会において求道、一九四七年松尾造酒蔵牧師よりバプテスマを受け、さらに伝道者たるべき召しを与えられ、東京・鷺宮の「日本キリスト教神学専門学校」現在の「東京神学大学」にご入学、一九五四年同校を卒業と共に伝道者としての准充(じゆんいん)を受け、まず、盛岡・青山町教会において四年間、その若い日を開拓伝道と小さき群の牧者として伝道に当りました。
一九五三年、市田美枝子さんとご結婚、一九五六年には、ひとり娘「のぞみ」さんを与えられました。
一九五八年より六十年迄の二年間、さらに神学の研鑽を積むべくアメリカ・ランキャスター神学校さらにニューヨーク・ユニオン神学校に学ばれ、ご専攻の「旧約学」の分野において特に注目の「申命記の祭儀の問題」についてすぐれた論文をおまとめになりました。ご帰国後、母教会の鎌倉・雪ノ下教会の副牧師として八年間、恩師松尾造酒蔵牧師を助け、また、その影響を受けつゝ新たな伝道・牧会に専念されました。
一九六八年、ある決意をもって、三十数名の同じ志をもつ者たちと
雪ノ下教会より独立苦難の道を覚悟し、事実、多くの苦難をなめながら新しい小さき群れを守り育て、本年一九八八年三月「創立満二十周年」の日を迎えられた、これが現在の「鎌倉恩寵教会」であります。
内藤協先生の本領は、ひとえにまず優れた伝道牧会者たることにあったと了解いたしております。「…兄弟たちよ、わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈りは、彼らが救われることである」(ロマ 十・一)と申した使徒パウロの如く、パウロの同胞ユダヤ人に対する救霊の祈りの劇しさに比すべき祈りは、また、内藤協先生の胸のうちに燃えたぎり、その焔は最期まで衰えることはなかったのであります。自分の生れ育った故郷での伝道、若い日をすごした土地での伝道ということは決して容易ではないことはよく云われるところであります。
しかし、昨夜、悲報を聞いて「前夜式」にかけつけられました六百人をこえる弔問者の群れの存在は、鎌倉における先生の伝道がいかに地についた真実のものであったかの証左でありましょう。同じ伝道者のひとりとして驚嘆と羨望の思いさえ禁じ得ない程でありました。
内藤協先生の牧師としての指導性の卓抜、奥ゆきの深く広い不思議な抱擁力 — しかも、恩師松尾造酒蔵牧師より受け継いだ純正なカルヴィニストとしての神学的骨格の確かさ、しかもカルヴィニストといわれる人々の陥ち入りやすい冷い教条主義的硬直さといったものからは全く解放されていた人間性の自由さ — それらは、今、突如、失ってみて改めて知らされる得難い資質であり、内藤協牧師の人間としての豊かさそのものであったと思わせられざるを得ません。
勿論、それはあの「キリスト」と呼ばれた聖書の伝える「ナザレのイエス」の“福音”の豊かさからその根源を与えられていることは申す迄もないことであります。
先生は、本年冬の「聖地旅行」に先立ち、昨年の秋東ヨーロッパを旅され、特にポーランドのアウシュヴイツ、トレブリンカ、ベルリン等において、第二次世界大戦終結迄に六百万の犠牲を強いられたユダヤ人たちの苦難の跡を訪れ、改めて迫害されたユダヤ人たちの苦難の背後に二千年にわたるヨーロッパキリスト教の重い責任と悲劇と矛盾とを鋭く認識されたようであります。
その並々ならぬ神学的歴史感覚は、また、凡庸の及ぶところではありませんでした。
その感覚は、さらに、苦悩を負って歩んできた日本キリスト教団の担う問題と課題の追求においても遺憾なく発揮され、前後七年におよぶ日本キリスト教団神奈川教区総会議長として采配のなかにも充分に発揮されたことでありました。また、日本キリスト教団信仰職制委員会の委員長としての役割のなかでそのエキュメニカルな視点は、まことにその責任を負うに相応しかったことは見る目あるものたちのいちように納得するところでありました。
なおその働きの展開されることを誰れ疑わずにおりましたのに!それがなお多くの実を結ぶに至るであろうことをみな信じておりましたのに!
「神さまは、まことに、もったいないことをなさる…」— こゝに、また、ひとりの伝道者・牧師・内藤協先生を突如として奪われた我々の実感であります。
「神さま、なぜ?!…」と、奥さまと共に、われわれも問わずにはおれぬ思いであります。特にその奥さまのご心痛、お嬢さまの悲しみ、鎌倉恩寵教会の方々の当惑と嘆き、まことに何をもってしても代え難く、さらに、内藤先生を「兄貴」とも考え、時にはひそかに「内藤法王」などとたてまつって勝手に利用さえしてきたのかも知れない我々牧師仲間にとっての喪失感・寂寥感、またもって如何ともしがたいものを憶えます。
しかし、先生は、会堂建設も墓所の建設も教会創立二十周年のことも一切終えられ、お母さまの「納骨」も復活祭の午後とどこおりなく済まされ、「僕は、僕のつとめを果たしたよ」と仰有るのでしょうか?
「でも、先生、恩寵教会二十年、イスラエルの荒野の四十年の旅に比べれば道は半ばではありませんか、ようやくシナイ山に到着しただけじゃありませんか」と申しあげたい気もいたします。
先生は、しかし、仰言るでしょうか、「キリスト者としての私の四十年、『私の着物はすり切れず私の足ははれなかった。』と(申命記八・四)。その讃美と告白と感謝をもって私は納得して神さまの前に立つことにしよう」と。
—
火曜日の朝、私は、夢を見ました。
内藤先生と二人で、ある内密な相談をしている夢でした。大事な事が起ると、私共は二人でよく打ちあけあい、助言をしあい助けあってきたのです。
内藤先生は、やがて、“ぢあ、みんなが待っているから、サイフを持っていくよ”と云われ“鈴木君、いゝものを見せるよ…!と仰言って姿を消してしまわれたのです。
“いゝものを見せるよー”そうです。先生はいつも私たちの一足先を歩いていらして、私たちに“いゝもの”を見せ教えてくれました。その約束は裏切られることはなかったのです。だから、今度も、“いゝもの”を見せて下さる筈ではないか?!
余りにも突然のその死においても、こういう仕方でしか示しえなかった本当に“いゝもの”を、先生は私たちに示しておられるのではないか。
そう思う以外に慰めようがなく、そう思って測りがたい神の御摂理の深みに導かれることを祈る他はない思いであります。
(挿絵あり)
150号 「内藤先生が召されるまで」 山本敬
150号 「内藤先生が召されるまで」 山本敬
四月四日、その日私はすでに帰宅していた。五時頃病院から電話がはいった。「内藤先生が平塚教会で気分が悪くなられ救急車で衣笠病院に向っている」とのことである。すぐ家内と車で家を出た。
七里が浜の海岸道路は車が渋滞していた。その時後から対向車線を救急車がサイレンをならしながら通り過ぎた。車体には“平塚消防署”とあった。
後でその時の救急隊の人が「患者さんは七里が浜あたりで心停止しました」と云っていたとのことである。そのような事は何も知らず私は衣笠病院に向って車をとばした。
病院につくと「内藤先生は救急車の中で容態が急変され、鎌倉の清川病院にいかれた」とのことであった。清川病院に電話すると、寺塚看護部長はすでに到着していて「今心臓マッサージをしていますが…もう…」と云うことである直ちに又車にとび乗り清川病院に向う。
清川病院の外来には、すでに電話回覧によって、ぞくぞく教会員が集まってきていた。診察室の中では奥様とのぞみさんに先生の死が告げられていた。
遺体はすぐにご自宅に運ばれ、遠く近くから教会員、先生の友人、親族、県下の教会の牧師先生方がつぎつぎに訪れてこられた。
先生のお顔は、ちょっと眠っておられるだけ、という御様子で如何にも安らかな表情であった。
集まった人達みんな、あまりに突然のことで、今何が起ったのかまるで夢の中にいる様な気持ちであった。其の夜ベッドに入ったが、今日一日のことが相馬燈のように頭の中を駆巡り、なぜ?なぜ?と問いつゞけた。この気持は親父が死んだ時も、おふくろが死んだ時も感じた気持だった。
あれからお通夜、お葬式、火葬、そして早速次の日曜日からの礼拝のこと、これからの恩寵教会の体制のこと、一つ一つの話し合いをしつゝ、まるで嵐の中の様なこの二週間であった。四月十七日記
(山本注:「走馬灯」が「相馬燈」となっているが、どうしましょうか。)
150号 四行の詩 月報 編集委員
150号 四行の詩 月報 編集委員
内藤先生の残されたものの一つに、四行の詩があります。聖日毎に門の脇の掲示板に墨書されているものです。二十年の間には沢山な数になり、先生は一冊の本にまとめたい、とおっしゃっていられました。心に迫る短い言葉は小さくても輝く宝石の様に思えます。
今年のイースター礼拝の日のもの。
イースターです
やがて死ぬべき者で
ある故に今日精一杯
生きなさいと招きます
今年最初の聖日、一月三日に掲げられたものに
空の空 一切は空なり
世は去り 世は来る
日はいで 日は没し
人はみな塵に帰る
それぞれに感銘深く読まれた詩があることと思います。
きわみなき生命の
なかのしばらくの
このさびしさを
感謝しまつる
若山牧水
(編集委員)
注:内藤先生葬儀式辞が掲載された月報150号掲載
150号 弔辞 滝口充
150号 弔辞 滝口充
二十年前の三月三日、内藤先生を中心に三十三名で礼拝を始めた恩寵教会ですが、思えばその時先生は三十九才という若さでいらっしゃいました。先生の温かで包容力豊かなお人柄もさることながら信念を決して曲げない若い情熱にも惹かれて私共は集まった様に思います。
あれから二十年、辛いこと悲しいこと嬉しいことなど様々な思い出がいっぱい詰まった教会の歴史を共に歩ませて頂いた私たちを残して、先生は突然天に旅立って行かれました。カッコいいことがお好きだったから桜の花の様にぱっと散ってしまわれたのかも知れませんが、私たちとしてはカッコ悪くてもいい、もっと生に執着して長生きして頂きたかったと残念でなりません。
見えるものより見えないものを、外側より中身を、形より心を大切にすることをいつも教えて下さった先生は、美しい会堂が建ち、会員がふえた時こそ心を低くして中身の充実を心がけねばならないこと、多人数になった教会員の多様性の中に神様の創造の豊かさがある故、お互いの人格を認め合いながら個を確立することなど折にふれ話されたことが思い出されます。先生は又、神奈川教区総会議長という重いお役目を八年近くも持たれました。教区の抱えている多くの難しい問題にとことん関っていこうとなさる情熱と忍耐力に感服しながら私たちは先生のご健康を案じつつそのお働きの上に神様のお守りを祈るばかりでした。
そのことにより先生はひと回りもふた回りも大きくなられ、私たちも社会に立つ教会の一員としての在り方をどんなに多く教えられたことでしょう。
神様のなさることは皆その時に叶って美しいという聖言を二十周年を迎えた感謝と共に確信した矢先に起ったこの出来事をご摂理とお受けするには尚時間がかゝりそうですが、一年前から塩出伝道師が備えられていたことはご恩寵以外の何物でもなく、今後塩出先生の蒔かれた種を大切に育てていきたいと会員一同決意を新たに致しております。お世話になりました内藤先生への深い感謝と共に、遺されたご家族の上に神様の御慰めを祈りつつ拙い弔辞と致します。
156号 内藤先生召天一周年記念式 月報委員
156号 内藤先生召天一周年記念式
四月九日の聖日、午後三時より内藤先生召天一周年記念式が行われた。教会の外部からも大勢の方々が参加して下さり、会堂は先生を偲ぶ方々で一杯であった。
第一部を記念式とし、塩出先生の司会によって、讃美歌、祈禱、聖書の朗読、そして太田愛人牧師による「われ山に向いて目をあぐ」と題した式辞が述べられた。
第一部が終り、続いて岩楯兄の司会により第二部に移り、茶菓を囲んで歓談の時を持ち、その初めに山鹿牧師の発声で、内藤先生の奥様への上よりの御慰めと、この教会の前途とを祈って献杯を一同心から行った。次に教会員からの発言として松崎百合子姉の感謝と感想が次の様に述べられた。
私共は昨年、内藤先生が召されると言う一大事に出逢い、その後は全く悲しみと戸惑いに一年間を過ごして来ました。しかし、その間、教団、教区またその他多くの諸先生が私共をご助勢下さり、私達は聖日を守り、聖餐式を守る事が出来ました。厚く御礼を申し上げます。この後とも先生方のお力をお借りせねばなりません。どうぞよろしくお願い申し上げます。
内藤先生が「教会の姿勢」に述べられている事を、私達は確りと心にしめて参りたく思います。神様を信じ従う限り、私達は神様の愛の御計画の中に在る事を信じます。
続いて内藤先生とお交りの深かった牧師の方の中より四人の方に夫々に先生を偲ぶ色々な方面からのお話を伺った。終りに吉田吉彦兄の思い出の話として、教会設立当時、二十年前の若い内藤先生を一同で励まして来たこと、教会を創る困難の中で、先生のお話を聴いて祈る其の処が教会だ、との実感を得た。内藤先生はこの会堂を建てる時、プロテスタントの教会は簡潔でなければいけない、と言われ、建築が職業である自分と意見が一致した。先生は会堂の色彩その他に非常に熱心に検討された。自分自身の事に限って言えば、心筋梗塞で倒れた時、先生が病院に問安され、お祈りを頂いたそのお祈りが誠に感銘深く、自分が神様によって生かされていると言う事を、切実に感じる事が出来たと以上の事柄が語られた。
その後で、内藤先生の弟様と、美枝子夫人の御挨拶があり、各自は夫々先生のご生前を心に蘇らせ乍ら記念会は終了した。
テープの手違いでお二人の方の御挨拶を載せる事が出来ませんでした。お詫びいたします。
月報委員記
180号 内藤牧師追悼【四行の詩】 吉田 吉彦
内藤牧師追悼【四行の詩】月報180号 790字
吉田 吉彦
内藤先生の四行詩について、何か書いてほしいと月報編集部から依頼されたのが四月十八日、丁度内藤先生の召天五周年記念会の礼拝前のことでした。私は既に美枝子夫人が昨年頃からその四行詩をまとめられて、それが内藤先生の遺稿集として出来上がり、その日の記念会出席者に記念として頂けると云うことを関係者から聞いていたので、そのことを月報編集者に伝えて今更私が書くこともなかろうとおことわりしましたが、それでも何かちょっと書いてほしいと云われて、何か書かざるを得なくなってしまいました。
さて、五年前のあの衝撃的な内藤先生の召天のあと、私は、いつの頃からかわかりませんが教会生活に「張り」がぬけたと云うのでしょうか、丁度日本経済がバブルの最中で自分の仕事が無茶苦茶に忙しかった頃、教会の内外に関係なく他者を傷つけてしまうようなことを簡単にいってしまったりしては、その後で自己嫌悪におち入ってしまったりしていました。 その頃私は古い週報の整理をして、古いものから年代順にまとめてみました。(最も古い一九六八年〜六九年のものは美枝子夫人のガリ版手書きの時代です)
そして、それらを度々読みかえすようになり、報告とか消息の記事を読んで当時を思いおこして懐かしんでみたりしていたのですが、その中で特に度々読みかえして私の心を励まされていましたのが内藤先生の四行詩でした。その中からいくつか、私が励まされていたもので、前述の遺稿集に収録されていないものをいくつか転載させて頂きます。
・この嵐の世界の中で、
真に神を仰ぎ求める心と、
互いに深く赦し合う決心がなくては、
今日新しい一つの教会を建てる事は不可能である。(伝道所開所式の日)
・他者への赦しの心のない所に、
神への感謝が充分に現される事は決してない、
この直接性と具体性が
いつも信仰の生命であった。 (一九六九年収穫感謝の日)
*四行詩の部分は、段変えがないのない、続きの3行でした。
メグミさん入力の、四行詩の原稿は、4行が段変えされていたので、上記入力です。
180号
内藤牧師追悼【 “道普請” 】
渡辺 武雄
内藤牧師追悼【 “道普請” 】月報180号 755字
渡辺 武雄
あの日に帰りたいとは誰でもが一度は抱く思いでしょう。
私共が内藤先生を担ぎ出して開拓伝道所をつくった緯細は既に書いた通りです。当時最先に考えなければならなかったのは集会場所でした。各人宅持廻りという話も出ましたが、幸いにも私共と行動を共にして下さった故永松姉の特別な御好意によって同姉の別宅をお借りする事ができました。別宅は永い間使われていなかった模様で門扉の内側は手入れの無い草や花がはびこって道も消え失せた程の叢でした。そこで始まったがまず道普請。谷閑衛さんがコンクリート製の敷石二・三十枚をどこからか手に入れ現地に運んでくれました。そして仕事が始まったのです。土方の真似事みたいなものでしたが馴れない手つきで凸凹をなおしながら、叩いたりずらしたり、やりなおしたりして敷いてゆきました。結構骨の折れる作業でしたが、叩くこの音が恩寵教会の音だと思い、つらいとか苦労だとか奉仕だとか思ったことはありませんでした。御婦人連も家の掃除や片付け、集会の準備等に一心不乱でした。先生は器用で大工仕事はお手のものと許り、屋根や庇の修理等をしてくれました。雨もりがひどかったのです。そして集会が始まりました。銘々座ぶとん持参で、車座になったり窓際に腰かけたりして先生のお説教を聞きました。お説教はいつも素晴らしく、語る方も聞く方も一体となった感じで、まばたきをしただろうかと疑う程でした。あんなに真摯に感動的に燃えていたことはないでしょう。皆思いました。さあ銀色の遥かな道を歩き続けようと。私があの日に帰りたいと言ったのはこの事なのです。
この様な過し方が三ケ月程続いて、突然永松さんの本家から立退きの申し渡しがありました。まさに青天の霹靂。又次の家探しですが、その後は次の機会に。
210号 内藤協先生を偲んで 羽田時子
210号 内藤協先生を偲んで 羽田時子
内藤牧師逝去十周年記念式を当恩寵教会に於いて営まれました。教区、各教会牧師の方々の御出席を頂き、御遺族と当教会員にねんごろなお言葉を頂き誠に感謝でございました。
御逝去から十年の歳月を送りました事思えば信じられない様な事です。一九八八年四月三日のイースターに於いて内藤牧師の説教は“コリント人への第一の手紙十五章三十五 — 五十八節”「復活」についてのパウロの名文の箇所でした。「朽ちるもので蒔かれ朽ちないものに甦り、弱いものでまかれ強いものに甦るのである。」
イースターの翌日、休養もお取りになりませんで二十周年の記念号を届けに平塚へとお出かけになりました。その場で御自分の体の不調を感じられ御自分で救急車を呼んで衣笠病院へと急がれました。その途中、鎌倉七里ヶ浜でみ命は絶えてしまいました。救急車の中という信じられない誠に意外なことが起きて伝え聞いた者は皆言葉を失いました。
四月四日に捧げた挽歌
復活祭 栄光の讃美そのあした
神召し給ふ我等の牧師を
夕暮れの重き空気の七里ヶ浜
救急車の内に 罷り給ひしとは
めがねのまゝ亡骸となり入らせ給ふ
慟哭に揺ぐ白き棺
火よ火よ紅蓮の炎よ生きてこの眸に
御師の葬り見るとは
後に
追憶と言うは寂しき事ながら
今日ありてあした明日も生きん
内藤牧師は常におだやかで居られたけれどもその内面に於ては激しい生きざまをして居られました。雪の下教会からの独立を先ず考えなくてはなりません。その場に立たされての二十年は並み並みならぬ苦難を負わされてのこと、恩寵教会にあっても会員の一人ひとりが内藤先生の重荷は如何に、と考えての二十年でした。
しかし、時を過ぎるに従い松尾牧師も年を老いられて、御最後は衣笠病院でした。その時に内藤牧師の謙虚なることにより、松尾牧師への召天の祈りをなさいましたと言うことの立派な御行為に感激一杯でした。そして神様に感謝を致しました。
雪の下教会から独立のことについてはこれは、此の事があって当然新しくなる為の試練であったのでしょうか。まさに大きな賜物を受けたのだ、と思います。
内藤牧師御逝去のあとしばらく空虚な時を過ごしました。そして塩出牧師、さらに新しく菅根牧師をお迎え出来たとゆうこの大きな恵は新しい道標となって私共の前に展けたのではないでしょうか。
内藤先生から受けたお言葉のひとつ。「これから教会は新しくなるよ。」これはイースター前の或る夕暮に、先生、美枝子夫人、私と三人で霊園に行った時の事でした。暮れ方の美しい空の下、内藤先生が仰った「これから教会は新しくなるよ」との此のお言葉の不思議が現実のものとなるとは。「何故とは問うことなかれ」のそのままに…と思い続けて来ております。
このことは一九八八年二月十三日夕暮のことでした。私事になりますが亡夫の召天の記念の日でありました。