エッセイ

61号【エッセイ】牧師の休日 内藤 協

【エッセイ】月報61号 牧師の休日  内藤 協


 昨年は牧師が一人で、神学校時代に夏期伝道は行った地などを旅しましたが、今年は夫婦で出掛ける機会を得ました。教会の車を使わせて頂いて、信州一帯から高山、美濃にかけて、色々な所を訪れました。家内は煙とも雲ともみえる浅間の頂きの姿に、立原道造という詩人を追っていました。私は、高山で三年間何もしないで、じっと将来の高山伝道に備える、熊谷牧師の姿に感じるものがありました。いい休暇・いい旅でした。

66号【エッセイ】教会の交わり 橋本恭子  



【エッセイ】   月報66号教会の交わり       橋本 恭子

 ボンヘッファーはその著「交わりの生活」の頭初に「見よ、兄弟が和合して共におるはいかに麗しく楽しいことであろう(詩篇一三三、一)を引用していますが、同じ頁の中で「キリストはその敵たちのたゞ中に住んでおられた。そのあげくには弟子たちも彼をすててしまったので、十字架上では全く孤独であった。キリストは神の敵たちに平和をもたらすために、その人々のたゞ中にはいっていられた」と書き、次の言葉をも引用している。 「御国はあなた方の敵たちのたゞ中にあるものである。だから、この事を認めようとしない者は、キリストの御国の者となることを望まず、友人たちの中にいようとし、バラや百合の中に座っていようとし、悪人たちとではなく、敬虔な人たちといようとする(中略) 万一キリストが君たちのしているようなことをなさったら、一体、誰が救われたであろう・・・・」ルター ある日私は上京の車中で、言葉を持たない若い人たちの一団の中に立っていた。その一人が大船で空いた席を私に「ゆづって下さった。私ももし手話が出来たらこの唖者に心からのお礼が伝えられたのにと思うにつけ、手話法の勉強をすすめられたとき、この年でと辞退したことを心から後悔したのである。 恩寵教会は和気藹々、実に前述の詩篇の言うたのしい場所で、この点は共によろこぶべきことですが、一方ルターの言葉も忘れてはならないとおもいます。私たちと共通の言葉を語れない人、共通の話題をもたない人が教会の内、外にたくさんいます。こと人々とも語り合う努力をしていくことが、教会の交わりではないでしょうか?


83号 弘前をお訪ねして  山本ヨシ



 私は山本の亡きあと弘前をお訪ねして、生前お世話に成りました教会と、旧知のお友達にお会いしたいと念願していた事が、今度良き機が与えられまして、北国の最も気候のよい五月二十七日に弘前への一週間の旅をして来ました。
 私は昭和二十八年から五年間弘前に住んでおりました。弘前教会では客員でありました。昭和三十年に弘前教会員で、教会から六キロ程離れた所に広い土地を持っている方が、その一部三百坪を日曜学校に使うなら寄附するから役に立ててほしいと申されました。その土地の近所には教会の長老の方々が五家族も住んでおられ、私共もその近くに居りましたので、皆さんと親しい交りの楽しい日々を過していました。
 私共は客員でしたがこの土地の良い用い方の話合いに加って、冬の寒い晩など降り積った雪を踏んで穂積さんのお宅に集り、おいしいお茶を頂きながら、夜の更けるのも忘れて、神様の良い種が蒔かれる下地ができるよう、祈りねがいました。それがその年の内に伝道所が設立されました。只今の弘前南教会で、昨年は教会創立二十年記念が行われたそうです。
 五月三十日には、私は旧知の方方と共に礼拝を守ることができました。丁度この日は、ボランティアでタイ国のマコーミック病院で看護婦の助手として勤務された穂積夏子さんが一時帰国をなさったので歓迎会をすることになり、私の歓迎もかねてと云われて、主を中心にして良き一時をすごし、帰路は教会員のお宅に招かれました。
 私が教会をお訪ねして最も羨望であった事は、教会を中心にしてその近くに会員の方々が家を建て住んで居られることです。このようにして日常生活ができることは何と恵まれた方々であろうと思いました。私は遠く離れた土地に住んでは居りますが、このような幸福な友達と親しく交われていますのが、かぎりない神様のお恵みと感謝いたし、この土地に神の御恩寵をお与え下さいと祈り、お別れいたして参りました。
 本当に良い旅をいたしました。

87号 早春譜 (西田琴)

87号 早春譜 (西田琴)


 春が来た!朝早くから小鳥等は裏の山で美しく囀っている。冬中一面茶褐色であった芝生が少し青味を帯びて来た。日当りのよい前庭の隅に、百合の新芽が二つ三つ首をもたべ始めた。本当に春らしくなった。自然は私たちの周囲に、又、我々の目の届かぬ天地に、神の全能を示していいる。と同時に、我々にも精一杯働けと呼びかけている。現今の紛乱の世の中を少しでも良くするために、我々は共力して一生懸命働こう。神を信ずる事と、人のために誠意をもって盡すことは、ヴァイオリンとその弓のように相たすけて、音楽となるのではなかろうか。
(一九五二年三月)


私が大切に保存しています遺稿の内からこの随想文を載せさせていただきます。橋本恭子

91号 父のこと 山口進江



 主人と知り合い、家庭を持つようになって十四年の歳月がたちました。福岡で新婚時代をおくり、四十一年の十月に逗子の両親のもとへ、家族三人がころげこみました。そのころ、父はもちろん、母も足のけがをするずっと前の頃で、息子が一才半でした。
 三年半の間に、父の入院、息子の幼稚園入園と、家族五人の忙しい毎日を過ごしておりました。
 日曜日になると、父と一緒に教会へ出かけます。時には息子も一緒に。渡辺さんのおじちゃまにチョコレートをいただくのが楽しみのようでした。春になると枝から芽がふき出し、冬に枝の透き間からのぞいていた空が見えなくなってしまう景色を見ながら、美しい花を指さしながら、神様のすばらしさを、父が話してくれたことがなつかしく、うれしく思います。
 四十五年の六月札幌へ転勤。日曜礼拝にまいりますと、恩寵教会の先生、一人一人の教会員の方々が思い出され、礼拝中泣いたものでした。そのころ母の足のけが、父の身の衰えと、又母の受洗、父が天に召されて私にはつらい、寂しく悲しいことでした。
 五十年九月現在の大阪へ。北千里ではめぐまれた教会生活が私を待っていてくれました。
神様との出合い…神様はずけずけと私の中に入ってしまったようです。
ずけずけ…もしかしたらぬき足さし足、しのび足でかも知れません。

92号 終戦記念日に 宇多和子

92号 終戦記念日に 宇多和子


 あの頃、中支の戦場に送り出した夫の生死もわからず、再び相会う日もないのではないかとの心細い気持を抱き乍ら、四人の幼い子等と甲州の日野春に疎開して、細細と毎日を過していました。


 配給の大豆や小麦や豆粕等を替るがわる常食としてやっとひもじさを堪えていました。宝のように大切に持っていた一握りの白米は赤ん坊のおもゆにと少しづつ食べさせていましたが、営養失調で極度に体力の無かった赤ん坊には、それすらも受付けることが出来ませんでした。毎日赤ん坊を背に、四人の子供と薪を採りに出かけるのですが、土地の様子もよく解らず、幼い子供とでは遠くまで嵩ばる薪採りの作業も思うようにはいきません。そんな貴重な燃料ですから、大豆を長時間煮るなんて考えられもしませんでした。農家へ行って石臼で小麦を挽かせてもらっても私の力では長時間かけてもほんの少ししか粉にはならずやっぱりそのまま煮て食べるより仕方がなかったのです。固い小麦と野草では健康も保てず、子供達もかわるがわる熱を出したり、お腹をこわしたりしていました。雨の日に石段ですべって頭を打ち、一瞬失神状態になった時、若し両親を失ったら子供達は?などと考えて必死に気を持ち直しました。丁度甲府で空襲に遭い、疎開されておられた外科のお医者様に、少しでも生野菜をたべるように言われ、大根を分けてもらう為に夢中で農家を頼み廻ったものでした。物資をもって疎開していた人達を羨やましいと思ったり、涙の出る思いを歯を食いしばって堪えた日々でした。


 又、八月十五日がめぐって来ました。あの頃を思い出し乍ら、戦争はしてはならないとしみじみと思い、世界中が平和でありますように、共に祈りたいと思います。

97号 お仕事会にご参加下さい 相川尚武

「お仕事会にご参加下さい」相川尚武 


五月から月一回お仕事会を開き、お互に工夫を持ちよって制作の為に力を出し合い、クリスマスプレゼントに、又次のバザーのため、常時用意して行きたいと、話しております。ぜひ御参加下さいませ。


ささやかな働きでも、会堂建金の一部になればうれしい事です。


五月のお仕事会予告


二十六日(金)午後一時


一.きゃら蕗の作り方
二.小物入れの制作




97号    1978/4/25

124号 【随想】山本 敬

【随想】月報124号  山本 敬


随想  病室にて     K.Y.生
 十五才の時、盲腸(虫垂炎)の手術で一週間入院をして以来、四十年ぶりで入院生活を経験することになった。
 朝 六時過ぎ、「お早うございます」と検温計配りに看護婦さんがやってくる。勿論窓外は真暗である。やがて脈搏、血圧測定、そして質問、「よく眠れました?お食事は?もう一つのは?」毎日の“あれ”は何で、“もう一つ”のは何であるか判っている。「あれは一回、もう一つのは、エート 四、五回かな」
 そしてお茶配り、食事配り、薬配り、注射、ゴミ回収、回診、ベッド整理、そしてお茶、食事、薬・・・これで食事を食べさせ、おしめ交換、入浴介助、
浣腸、吸入、皮膚処理、リハビリ訓練等々となったら、何とも大変なことである。
 幸い自覚症状はうすらぎ、むしろ退屈なくらい、しかし雑用が多く、チョクチョク白衣を着たり、ネクタイをしめたりして病室を抜け出す。
“うちの受験生の坊主を、朝なんとか起こすのに毎日苦労しているが、先生を寝かせておくのにも苦労させられる”
と某先生にしかられる。
 しかし、遠くから浜松から聖隷病院の理事さん達が、ある条件で相談にこられたり、メインの銀行の本店から常務さんが新年挨拶に見えたり、又外来から鼻血の止まらない患者さんの応援をたのまれて、“これが見すてておかりょうか” である。
 夜は九時消燈、そして九時間ほど、ウッラウッラ浅い眠り、日頃はバタンキューで、夜中相当の地震があったり、強風で一晩中戸がガタガタいっても一切係りなく、熟睡六時間、というところ、九時間寝ていても、眠った、という実感はうすく、いつも頭はボンヤリ、食事も潰瘍食とて、いとも淡白、白身の魚一切れとか、鳥肉の蒸したもの、卵料理とか、早飯食いの小生では五分でお終い。
 合う人毎に、“おだいじに”“ ”おだいじに“ 言われているうちに、だんだん病人くさくなって、一日が長く感じられるようになると、病人もやっと一人前のようである。

135号 クリスチャンサラリーマン 川田俊和

クリスチャンサラリーマン 川田俊和


 キリスト者とサラリーマンを真面目に両立させることは誠にむずかしい。


 聖書には数箇所に、お金とキリスト者の心掛けについて書いてある。例えば、ルカによる福音書十八章に、文言が長いので簡略させていただくが、「持っている物すべてを売り払って、無一物になって私に従いなさい」とある。又「金持ちが神の国に入るよりは、ラクダが針の穴を通る方がやさしい」。即ちキリスト者はお金を集めたり財産を持ったりしては本物になれませんよ、と教えて居られる。


 話は変るが、敬愛する新村出先生の広辞苑で会社というところを見ると、「商行為またはその他の営利行為を目的とする社団法人」つまり事業をして利益を得ることを目的とする集団。お金儲け集団が会社というわけだ。会社と言ってもそれを構成しているのは大部分サラリーマンで、言い変えればサラリーマンはお金を集める集団のメンバーである。


 社長も部長も平社員も、会社の勤務中は他の事を考えている余裕は無い。事務所では洪水の様に流れ出てくるテレックス、ファクシミリ、コンピューターからの情報を見て、即刻対応して行かねばならないし、工場では自動化された生産ラインから目をはなす暇も無いし、働く友人であるロボット君は二十四時間勤務を平気でやり、サラリーマン君、もっと働いたら、と言われている様に見えてくる。


 相反する二つの事実を両立させることは本当は出来ないのかも知れない。ストレスと疲労は溜まるばかり、休日はゆっくり休みたいと思う。


 しかし不思議なもので、日曜日の朝になると心と足は自然に教会に向かう。主日礼拝と教会にある、他所には無い安らぎを求めて。


(135号)

138号【エッセイ】病癒えて 吉田吉彦

【エッセイ】月報138号 

病癒えて   吉田吉彦



 昨年の二月頃、私の誕生月定期検診における血液検査結果表を教会で山本敬先生にお見せしたところ、『文句無し!!』と幇判を頂いて内心得意になっていました。若い時からお酒が好きな私は、毎年定期検診では『胃十二肢腸潰瘍瘢痕』との診断を受けて、隔年に胃カメラを呑まされていました。ところが去る二月十二日(四旬節に入った日)の朝そんな胃袋には関係ない『急性心筋梗塞』の発作がおきてしまったのです。幸いにも救急車で運ばれた鎌倉ヒロ病院には循環器専門の先生がおいでになったので、一命をとりとめることができました。あまり病気をしたことがなく病状にうとい私は、救急治療室で先生に狭心症ですか?と聞いて『とんでもない、もう少し先ですよ!!』と叱られて、そのうちに少しづつ腕から掌あたりがシビレる感じになり、なお続く締めつけられるような胸の痛みがわからなくなってから凡そ四〜五〇時間も、それこそ超低空飛行で黄泉の入口あたりをウロチョロしていたようです。私自身は自分の症状がどのくらい危険であったのかさっぱりわからないまゝ発作の翌々日、ふっと目覚めたとき、病室の入口に橋本さんの姿がぼんやり見えたり、またしばらくして、家内から今しがたCSの塩出先生と佐々木君が御見舞に来て下さった、と聞かされて、はてな?これは家内がまた大騒ぎをして教会の方々にまで知らせてしまったな?なんてのんびりした思いでいましたところ、やがて家内から私の病状が相等危険であったことから入院以来内藤先生はじめ教会の方々にご心配をかけ、皆様のお祈りのうちにどうにか助かったのだ。と聞かされまして、ビックリ仰天つくづく自分の心の狭さになさけなくなってしまいました。と同時にそのような身勝手で他者に対する心のない者を、かえりみて下さった神様のはかり知れない御恩寵に胸のつまる思いがいたしました。四旬説の二月十二日から復活祭の前日三月二九日までの四六日間の入院生活を経て、四月二五日の榊原病院からの最終判決?は、パフォーマンス限度八〇パーセント、最高心博一三〇まで、とのことで、バルーンとか、バイパスとやらの手術もしないで済みました。まことに多くの皆様のお祈りと神様の深い、お恵みのほか何ものでもありません。ほんとうに心から感謝申上げます。




  *句読点が少なく、1文章が長いですが、吉田さんの味が出ていると感じました。

138号エッセイ】講壇の花 内藤美枝子

講壇の花   内藤美枝子

 時折「毎週のお花大変でしょう」と声をかけられることがあるのですが、私自身その出来、不出来はともかく教会の仕事の中で一番気楽で苦にならない仕事だと思っています。


 娘時代にその習い事の中でお花のお稽古丈は祖母や母に言われなくても自分から進んで仕度したものでした。思わぬところで手引きとなったわけですが、講壇の花の作法としては二つほどのことを自分の心得としています。


 説教の邪魔にならない花を活ける。花丈が飛び出してその存在を示さないように。もう一つは花のあわれを出してゆきたいと願っています。


「人はみな草の如く、その栄華は草の花に似ている」


「野の花がどうして育っているか考えてみるがよい。ソロモンでさえこの花の一つほどにも着飾ってはいなかった」


 近頃の花やさんを覗くと大体同じ傾向の花が出揃っていて、およそ花の自然な姿や季節感のある花を探すのに困難なほど、花は肥料たっぷりの鮮やかさで、造化的なものが多くなりました。出来る限り花そのものの自然性やその季節の花を活けるように心掛けていますが、土曜日誰もいない時間に心落着けて活けるようにしながら、短い時間に割合さっさと活けられる時と、何時迄も思うように活けられなくてぐずぐずと時を費やすことがあります。結局最後には、「神様あとはよろしくお願いいたします」と勝手なお祈りをして会堂を後にします。翌日相変わらずの気に入らない花があると「さすが神様も直しようがなかったのだ」と礼拝中横目でチラチラとにらみつけている仕末です。


 私にとって講壇の花と云えば、一つの風景が大切に残っています。自分の育った教会で長い間礼拝の花を受持っておられた婦人でした。土曜日の午後大抵誰れもいなかった広い会堂で一人静かに花を活けられ、そのあと後ろの席に腰かけて暫く黙然として活け終えられた花と向かいあっておられたその姿は、今日私が講壇の花を活けることの原風景となっていることを思います。


 その方が活けられた礼拝の花は、その日さりげなく講壇に添いながら、見事に祈りの花の風姿となっていました。

141号 国際ボランテア会議に参加して 松本繁雄

【国際ボランテア会議に参加して】月報141号
松本繁雄さん?


 去る9月21日から一週間オーストラリヤのシドニー市でボランテアの国際組織である IAVEの世界大会が開催され、恩寵教会から滝口・原・松本夫妻が参加した。IAVEは16年前カリフォルニヤ大学で発足したボランテヤの組織で、ボランテヤ活動について国境を超えてその重要性が理解され、世界各国でボランテア活動を奨励推進するのが目的で設立され2年に一度世界大会が開かれ、今回はその第9回目の大会である。現在会員は40ケ国以上に拡がっており、会長はコロンビヤで長年ボランテヤ活動に携わって来たオルガ・デ・ピサノ女史である。
 今回のシドニー大会には33ケ国から約260名が参加、日本からは約40名が加わり、一国の参加数では最大。日本の参加団体は、恩寵教会以外に衣笠病院、日赤医療センター、名古屋国際センター、大阪ボランテヤ協会、ボランテヤ労力銀行、財団法人勤労センター、日本青年奉仕教会、オイスカ産業開発協力団等。リーダーはIAVE発足当初から関っておられた岩原泰子女史。
 シドニー大会のテーマとして「奉仕活動—今日の新たな選択」が採り上げられた。この背景には今日の世界的景気後退に伴う増大する失業問題、老令化問題一方ハイテクノロジーのもたらす社会生活の複雑化に伴いボランテヤ活動の分野も多様化し新たな選択に迫られている現実がある。
 会長のオルガ・デ・ピサノ女史は今日の大会のテーマは各国のボランテアが本当の世界市民となり手をつなぎ、頭脳と心を一つにして、平和と正義の探求に目ぼしい成果を与えるものであると述べ、カトリック国のコロンビヤから来た女史は昨年のクリスマスメッセージで、ローマ法皇が世界の国々の兄弟愛を達成する上でボランテヤ運動が如何に重要であるかを強調した点に特にふれている。ボランテヤ運動の大御所でアメリカの平和部隊構想の生みの親と云われている英国のディクソン博士はその長い経験から、多種多様なボランテヤ活動を採り上げて分析し、ボランテヤ活動とは、広範囲に亘るニーズに対し、あらゆる年令を超えて、あらゆる季節を超えて応える人間の努力であると定義している。そしてボランテヤの第一線に立って活動する場合世俗的な顕彰や名誉は約束されない事を心に止めるべきであると付け加えている。
 各国の代表による夫々の個人的経験見解、夫々のボランテヤ組織の活動内容について全体会議、分科会で報告質疑応答、討議が行われたが、共通に述べられた点は、ボランテヤ活動は一方的な慈善的奉仕の時代は過ぎて奉仕をする側と受ける側との間でギブアンドテークの互恵的な関係に立ち、教える事によって教える側が学ぶ。受ける側は唯受けるだけでなくボランテヤ活動の企画に参画する事によってボランテヤ活動が本当に成功し、成果が期待出来るという事である。
 移民の国オーストラリヤは特に第二次大戦後アジア各国からの移民も増えて少数民族問題、最近の失業の増大、若い層の間に広がっている麻薬の問題等多くの社会的問題を抱えており、この対応の一環としてボランテヤ活動が活発に組織的に進められており広く根づいているとの印象を受けた。会議は月曜から金曜の五日間朝早くて7時半から夕方5時半。時に夕食後も分科会が開かれ盛沢山なプログラムであった。その間一日は現地の公立学校、老人ヴィレッジ、羊牧場の見学。半日はボランテアが参加している各種のプロジェクト訪問があった。オーストラリヤ側は2年に亘って今回の大会の準備を進め、開会式には総督の挨拶、総督公邸でのレセプション等大変な力の入れ様でした。今回の会議に参加して大いに教えられ、大変有意義でした。末筆ですが私共参加者をお祈りの中に加えて下さいました皆様に心から感謝申し上げます。                 (文責・松本)

*ボランテヤ、オーストラリヤなど、松本さんの味が出ているので、そのまま入力。
ただ、一文がかなり長く、読んでいて息つぎが必要と思われる箇所には、句読点を入れました。

142号【聖書の植物(上)】 松本 龍次郎

【聖書の植物】月報142号 

聖書の植物(上) 松本 龍次郎



 前に聖書に出て来る植物として雑文を書いた事があったが、再び書くはめになり、思案の結果聖書の最初に出てくる「イチジク」と一番多く出てくる「ブドウ」にした。


 「イチジク」はクワイ科イチジク属として果実を食用にする重要な唯一の果樹で小アジアの原産と言われ、果実としての歴史はもっとも古く地中海沿岸では五千年以前からも栽培されていたそうです。聖書の中では創世記3章9節に禁断の木の実を喰べたアダムとイブの目が開け自分達の裸である事がわかったのでイチジクの葉を綴り合わせて腰に巻いたとあります。葉は広く三裂から七裂に切れ込んでいるので綴り合わさないと透けて見えてしまうからだったのでしょう。


 又マタイ伝21章18〜24及びマルコ伝11章12〜14、20〜22節に「イエスは空腹をおぼえられ道端のイチジクを見つけられたが、時期ははづれのため葉だけで、外に何も見当たらなかったのでその木に向かって今後いつまでも実がならないように言われるとイチジクの木は枯れてしまった。」そして最後に「信じて求めるものはみな与えられるであろう。」とあるが、此の譬えはどう解釈したら良いものかわからない。


 イチジクの成熟期は年1回から三回で、関東附近ではせいぜい二回、即ち八月中旬から秋迄に熟す第二果期つまり秋果と言い、その上位部につく果実は大半が低温で落下し、更に其上についたものは脇芽の状態で越冬し翌春再び生育し七月頃成熟するのが第一期果、即ち夏果である。暑い地方では連続して成熟し第三期果、つまり冬果が三月頃に熟す。エルサレム付近は緯度から見ると九州位であるし、ナツメヤシ、アメンドウ等産するので恐らく暖い処と思うので年三回はイチジクも成熟するのではないかと思われる。


 「ブドウ」の原産地はカスピ海沿岸からトルコにかけての地域と考えられアラル海南方のトルクメンではBC六千年頃に農耕文化が始まりBC三千年頃最盛期を迎えていたが既に此処ではブドウが作物として取り入れられていた。(朝日百科世界の植物より)。


 聖書では創世記9章20節に「ノアは洪水の後農夫となりブドウ畑を作り始めた」とあるので農耕は前述よりももっと古くから始められたと考えられる。イスラエルではBC一五一八年頃エジプトからユダヤの民をひきいてカナンの地に戻るモーセが、「主から人をつかわして、私がイスラエルの人々に与えるカナンの地を探らせなさい。」(民数記13章)との命に従って斥候を出して探らせると、コルシコの谷で大きなブドウを見つけ土地がいかに肥えているかの証拠に一房のブドウの枝を切り、これを棒で二人がかつぎ、ザクロとイチジクも一緒に持ち帰ったとある。此の図は西洋の美術にもしばしば取り上げられている。


 旧新約を通して聖書にはブドウの記事が数多く出ているが、中でも新約聖書ヨハネ伝15章5節にキリストの「私はブドウの木、あなたはその枝である」という有名なことばがある。又マタイ伝21章28と33節以後、及びルカ伝20章9〜18節の譬え話しに、ブドウ園の持主が旅行している間に農夫達に貸し与え、帰って来てから収穫の分け前を出させようと使いを出した処、袋叩きに合わされたり、殺されたり、又息子迄も殺されてしまった話があるが、次の節の「家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった云々」とどうゆう風につながって解釈して良いものか、腑に落ちない。何時か内藤先生に伺わなくてはと思って居る。

143号【聖書の植物(下)松本龍次郎

【聖書の植物】月報143号 

聖書の植物(下)  松本 龍次郎



 前回はブドウ・イチジク二種のみでしたが、」その続きで教会月報コラム欄表題の「あめんどう」についての雑文と、果樹以外の建材樹木について少し書いてみます。


 「アメンドウ」どこの国の言葉なのかは知らないが、「アーモンド」のことで、バラ科サクラ属モモ亜属に分類され、木の外観、枝や葉の形、花などはモモによく似ているが、モモと違って果肉でなく実子を食用とする。


 旧約聖書には何ヶ所が出てくるが、新約には一つも出て来ないのが不思議である。原産地はインドの西部及びペルシャ(イラン)で、世界でもっとも古い時代に地中海沿岸に広がったものと推測され、最も古くから人間と関係をもった植物である。(朝日百科世界の植物より)


 聖書には創世記43章11節に「父イスラエル(ヤコブ)が、エジプトのヨセフに此の国の名産と銀を贈るようにすすめた。」とあり、その中に植物類ではアメンドウとフスダシウ(これはビール等のおつまみに最適なピスタチョナッツのこと)があった。その当時(BC二千年前位か)すでにイスラエルにはアメンドゥがあった訳である。現在スペイン・イタリア等地中海沿岸諸国と米国カリフォルニア州(一時TVCMで樹幹を特殊バイブレーターでゆすると雨霧の様に実が落ちてくるのがあった)で多く栽培されている。なお、ついでだがフスダシウは聖書に出ているのは、此の頃だけである。


 「イトスギ」創世記第六章十一〜十四節に、神はノアに言われた「あなたはイトスギの木で箱舟を作り・・・・」、と書いてあるが、イトスギと言うと一般にはホソイトスギのことで、樹型は狭円錐型または狭円筒柱型の美しい高木で、地中海沿岸地方から中東に広く分布している。イタリアサイブレスとも呼ばれ、古くから洋風庭園や寺院に植えられている。樹高は二十〜三十米にもなり、小枝のみ上方部に延び、左右に広がらないのでおそらく丸太造りであったであろう。「ノアの箱舟」には最適の材料であったに違いない。


 神もそのことを重々ご存知だったので、わざわざイトスギとご指名になったものと思われる。なお同属のオオイトスギは横浜成美学園の礼拝堂脇に大樹がある。


 「アカシア」豆科のアカシア属の植物は凡そ六百五十種もあり、大部分がオーストラリア産であるが、米国、アフリカ、アラビアの熱帯・亜熱帯にもある。一般には根瘤菌があり、やせ地でもよく育ち土地を肥沃にするが砂漠などでは低木にしか育たないが、地下水などが ある条件のよい所では高さ八米もの大木になるようだ。


 英訳ではアカシアの木をシュテムツリー、材をシュテムウッドと記されているが、シュテムウッドは堅牢で緻密であり木目が美しいので、エジプトを脱出し四十数年間荒野をさまよったイスラエルの民が聖器の材料にしばしば用いたことが聖書(出エジプト記二五章10〜13節、二六章15〜26節、二七章1〜6節等)に出ている。このアカシアは、おそらくシナイ半島の荒野に多いアカシア・トリチリス種ではなかったかと考えられる。


 「香柏」列王記上第五〜七章に、ツロの王ヒラムは愛するソロモン王の頼みでレバノンの香柏とイトスギの材木を与え、ソロモンは念願の主の宮と宮殿を建て、宮殿完成まで十三年もかかったことが記してある。香柏はレバノンシーダと訳されていて松科のヒマラヤ杉属であって、ヒマラヤ杉属には、ヒマラヤ杉・レバノンシーダ・アトラスシーダの三種がある。シーダとはヒノキ・イトスギ・ビャクシン・スギ等の諸属の通り名ともなっている。この仲間は昔から「神聖なる木」と見なされユダヤで男子が生まれると、その家の前にはシーダを植える習慣があったそうである。レバノンシーダは、レバノン・シリア・キプロス島に分布している。

153号【断章(思考ノート)】朝倉 陽



【断章(思考ノート)】月報153号 
            朝倉 陽


 「世界を理解するためには、時には世界に背を向けなければならない。よく人間に仕えるためには、ひととき人間を遠ざけねばならない」      「アルベール・カミュ」


 神は死んだと言ったニィチェの不条理哲学の作家、カミュのこの文章は、昭和三十三年に新潮社から出版されたカミュ全集のミノトールの一節である。青年時代に読んだこの一節が頭の片隅に残っていて、よほど強い印象となっていたのだろう。そして今もこの文章は好きな言葉の一つである。
「よく人間に仕える」のこの仕えるという意味は、おそらくServe 又はService(かしずく)として使用しているものと思うが、聖書の仕えるとは意味を異にしている。


 病院の聖研のメンバーに掃除担当の婦人がいた。或るとき、くやしいとポロポロ涙を流して、「今日病室を掃除に行ったら、看護婦が机にお尻を掛け、足をぶらんぶらんさせ、そこにごみ、そら、そこにも、よく拭いてと、指図したと言うのだ。自分の娘のような子にこんな扱いをされて、情けなくて、くやしくて、此処で少し泣かせてね。」と言った。
 現代俗物の典型的な特徴は、身分の低い者、弱い者、自分以下の者に対して、徹底的に冷淡で悪意さえ含んでいる。そして強い(権力)者、自分以上の者に対しては、慇懃で尊敬さえ抱くという性質をもっていて、これが俗物の典型的性情といえよう。


 本来、医療に携わる者は、Hospis(救貧院)Hospital(慈恵病院)とも言い、そこにもてなしや厚遇という意味のHospitableの意義、使命がなくてはならない。それが、文字通り「仕える」ということになると思うのだが昨今、さもしく軽薄短小人間が次から次へと社会を埋め尽くしている様な気がしてならない。


 貧しいといえば、映画、マザー・サレサを観にいった。文字通り神と世界と人類に「仕」えているマザー・テレサの姿は、イエス様そのものである。この映画の底流にある者は、「戦争」と「極貧」である。飽食の時代に生きて、自分の顔も、精神も、すべてがなんと貧しいのだろうと逆に十字架をつきつけられ、暗やみの中で涙を流し、心重く自分に泣いた。
 私に洗礼を薦めた牧師は「人を見てはいけません、信仰に躓きます」と一言だけ言った。しかし今だにこの言葉に反撥している。「人をみて信仰を学ぶからです」附和雷同する若者の心を一点に向けさせようとする牧師の思いやりであったのでしょうけど。実際、教会員から、その姿から、「仕える」ことを学んだ。


 目をとじ礼拝前の祈りを捧げていると、昂じてくる霊性の中に充実感が伴ってくるのだが、その静謐を中断させられる時がある。礼拝堂の椅子は出席順に座ってこと、前列左右の方の祈りを防げないのだが、後から、二、三、四列目あたりが先に指定席になっている。私自身が常時も、入りにくい思いがしている。この場所は後ろから来た人の、特に新来者、求道者の方のために空けて置いて欲しい椅子ではないのか?言ってみれば距離を置いて説教を聞き、場合によっては、逃げだしてもよい場所ともいえる。新来者のために空けて置く心づかいは、とりもなをさず、「仕える」ことになると思うのだけれど。




*逃げだし = 横にルビ、黒点が付いています。

159号【“おばけは怖い”—ストレスと長寿—】小林 次夫

【 “おばけは怖い” —ストレスと長寿— 】月報159号             小林 次夫

 幼い頃暗い道を歩いていると、背後から足音が近づいて来る様な怖い経験をしたことがありませんか。怖さは人間の健康な反応です。喜びにも悲しみにも同じことが言えます。年を重ねますとそういう反応が段々衰えて来るのでしょう。 老後は緑の多い静かな所で過したい。騒音のないところがよい。食物は塩分の少い油気のない淡白の物が良いなどといわれています。しかしそういう緊張のない生活を強いる学者の御高説は長寿を獲得した人には無益です。 古くから発達した地方の中都市は、環境も整備されて生活条件によく住み易いと言われています。しかし東京近郊の騒音や交通災害に悩んでいる新興都市とを較べてみると、生活環境の悪い年に住んでいる老人の方が長寿に適しているという報告があります。 生活に緊張感を持つということは、身体全体を活潑に働かせるということで、これは快適な生活を送るのに一番大事のことです。 老人の患者さんと話す時、早朝の散歩でなくて人混みに出ることをすすめています。そして多勢の人が喜んだり楽しんだりしていることに参加することです。新鮮な驚きを経験することです。それは身体全体の緊張と興奮を呼び起こしてくれます。 教会は社会的立場の違う人達が唯信仰による一致で集っています。ですからいつも分裂や新しい派が作られる危機があるといえます。しかし外からみて危機のように見える時、実は内部にはエネルギーが満ち満ちて緊張しております。 その信仰的緊張を失うと葬式宗教に堕していくのです。(宮田光雄著。“平和のハトとリヴァイアサン” )私達の教会もそのエネルギーが爆発して作られた、栄あるプロテスタントの歴史を背にして居ります。 何事にも興味を覚え、社会と環境に常に自分の存在を主張する様な緊張こそ、長寿を快適にする一番大事な、これこそ“長寿の秘訣”というものです。 さあ!おしゃれをして、人混みの中に出ましょう。  (終)                     (年長者を囲む会のお話)

161号 洗礼  赤松篤子

161号 洗礼  赤松篤子
 野口幽香先生の、二葉独立教会日曜学校に、母に連れられて行きましたのは、小学校入学前でした。
 関西学院を卒業された二十六歳の由木康先生が、牧会をなさっていらして、私は女学校を卒業する迄、御指導を受けました。鎌倉に住む様になりましてからは、教会を離れて居りました。八人の家族も年々少くなり、時間のゆとりも出来て、教会に行き度いと考へて居りました頃、武内ちとせ様が恩寵教会に、お誘い下さいました。礼拝には同級生や存じ上げている方々がいらして嬉しく思いました。
 一九八九年クリスマスに、永年の願いでありました洗礼を、塩出先生から授けて頂きました。今は豊かな心で、毎日を過す事の出来る幸せを、感謝して居ります。

168号 香港便り 単身赴任奮斗記 成田洋助

168号 香港便り 単身赴任奮斗記 成田洋助


 皆様、お変わりありませんか?イースター礼拝に久し振りで出席させて頂きましたが、塩出牧師にお目にかゝれず残念でした。ご病状を伺い、その後のご様子を案じつゝ帰任しました。一日も早く回復されます様、お祈り致します。
 さて昨秋、思いもかけぬ転勤で香港に赴任して以来、半年余りがまたゝく間に過ぎました。家内が仕事を持ち長さんが就職を控えている関係上、半ば自動的に世間並みの単身赴任となりました。日本に近いせいもあり、私と同じ年代の単身者が多いのに驚きました。
 ご存知の通り当地は昔から東西文化が折り重なった独特の雰囲気と食事と買物の天国として異名を持ち、誰でも一度は訪ねて見たい所ではないかと思います。香港島と幾つかの島々、それと中国大陸につながる九龍半島を合わせて東京都の約半分位の面積に約六百万人がひしめき合いどこも人々々の波、日夜忙しくたくましく生活している姿からは直接発散される恐ろしいまでのエネルギーを感じさせられます。住民の九十八パーセントは中国人、その他外国人で最も多いのはフィリピン人で約七万人、日本人も約二万人程居ますが人数では第七位です。教会も幾つかありキリスト教は全人口の十八パーセントですが、国民の半分位は無宗教で彼等の神様はお金だと云うことです。言語は広東語が日常使われ、英語は公用語ですが通じないこともあり通用度は六割位です。日本への関心と日本語熱も盛んですが普及は今一つと云う感じです。当地に来て私が痛切に感じたのは環境の大きな変化を数年後に控えた人々の微妙な心の動きです。この香港が一九九七年七月一日に英国の手から中国へと返還されることが決っている現在、当地の中国人は一様に複雑な思いを抱いています。この自由な中国人社会がどう変わるのかと云うことだけが当面最大の問題で、もはや属する国家も国民と云う意識も残っておらず『あてになるのは政府でも土地でもない。自分自身とわずかな財産だけ』。この信念とあせりが彼等を忙しく動かし、昼夜なく働く者や、アメリカ、カナダやオーストラリアへと逃げ出す人達が目立ち、この点で香港の変化は既に始っていて誰もそれを止めることが出来ないとの印象を強くしています。溢れんばかりのエネルギーの根源がこんな所にもあるのだと云うことは私も日本にいた時は仲々分りませんでした。その一九九七年の瞬間を一目見ようとする人々で六月三十日の市内のホテルは今から予約で満員の様です。この時香港は何を失い何を得ることになるのでしょうか。その時迄私は居ないにせよ目下の関心事の一つです。とは云え日常私の目には美しい夜景、目を見はるばかりの中国料理の数々、狭い乍らも不夜城の如きショッピング街等々、このすばらしさを一人でも多くの方々と分かち合いたいものと望んでおります。故、是非私の居る間にお出掛け下さるよう、おまちしております。片道四時間の距離、そして三泊四日で十分なのですから。

169号【加州便り】山本 仁



【加州便り】月報169号 
            山本 仁


 長くカリフォルニアに住んでいる人は皮膚を見ればわかる、と言われています。日差しが強く、雨もほとんど降らないため来たばかりの人と比べ荒れている、という事でしょうか。我々家族も当地(サンディエゴ)に来て一年以上経過し表面だけはカリフォルニア人らしく
なった様です。
 最近5年間水不足が続いていて町の中心部にある緑(これも勿論人工的に植えられ撒水で維持されている)を過ぎると郊外は赤茶化した砂漠然とした風景がずっと広がっています。いわゆる日本でイメージする美しい砂丘ではなく、石ころだらけの荒地と言った方が近い様です。乾燥した喉には今まであまり飲まなかったコーラやビールがおいしく、せっせと空缶を作ってはそれをまた返しに行っています。スーパーの外に空缶や空瓶をつぶして回収する機械がおいてあり、二缶で五セント出てくるので、優(七歳)の格好のおこずかい稼ぎとなっています。ホームレスや浮浪者風の人が大量の空缶を運んで来てはつぶしている光景を見る事もあります。
 我々が住んでいるアパートは木造三階建で四十棟程に分かれ全部で五百世帯ぐらいの人々が生活しています。部屋のまわりの住人は、ブラジル、インド、韓国、中国、ユーゴスラビア、フランス、日本人などで、アメリカで生まれ育ったいわゆるアメリカ人にはあまりお目にかかりません。敷地内には二ケ所にプールがあって住人は自由に使える様になっています。
 先日、そこでロスアンジェルスから弟の所へ泊まりに来たアメリカ人と話す機会がありました。彼は全米で一、二のレベルのUCLAの物理学科を卒業後一流企業に就職したが、三年で会社がつぶれその後四年間職がないため、家庭教師をやって食いつないでいるという事です。アメリカがいかに不況で一流大学を出てもなかなか職につけないかということです。が、一見したところは、ガールフレンドとサーフィンの帰りとかで、乗っているホンダもきれいな車でした。彼によれは、不況はアメリカの教育水準の低下が大きな原因であり、一般の公立の中・高校にはもはや教育はなく、学校ではただお守りをしているだけだ、ということです。大学はいくらかましだが卒業できない途中でドロップアウトする者が半数近いところもあり、それがひいてはアメリカの物を生産する能力を低下させている、と主張していました。日本は教育水準が高く、おれの乗っているホンダも三年間全然故障もない、などと言うものだから、日本だって、いじめや偏差値偏重など問題がたくさんあり、自分で物を考える能力のない学生がたくさんいるのだ、と返答しておきました。
 日曜日には車で十五分ほどの所にあるサンディエゴ南バプテスト教会に、昨年十二月より行っています。牧師の鈴木先生は秋田弁の抜けないお話の楽しい先生です。会員の総勢二十名足らずの小さな教会です。近所の方に教えていただき偶然に行ったのですが、最初から暖かく迎えられ子供達も楽しみにしている様です。会員の中にはアメリカ人と結婚し当地に住む御婦人も数名いて、日本とは全く違った環境の中で生活する労苦が言葉の端々に感じられます。
 我々のいたこの一年間には、湾岸危機に始まり、戦争、イラクの敗北、その後の混乱、ソ連問題、と国際的に大きな事件が続きました。日米のニュースを見比べると、日本のヒェーマニズムに欠けた視野の狭さがはっきりしてきます。
 また、こちらで取上げられる日本と言えば、“お金”に関する事ばかりで、国際的な政治の舞台からはほとんど無視されているのがわかります。無視されていると言うより、相手に対して何かを要求したり、語りかけてきたりいないので対応できないと言う方が正しいのかもしれません。我々も少しでもこういう評価を変えるべく努力してゆかねばならないと思います。それは決してお金を出す事ではなく、博愛の精神に基づいた一貫した態度を取る事ではないでしょうか。

174号【杉原千畝氏“六〇〇〇人の命のビザ】松本 繁雄

【杉原千畝氏“六〇〇〇人の命のビザ】月報174号   2045字
            松本 繁雄
杉原千畝氏 “六〇〇〇人の命のビザ”
 『わたしの隣人とはだれですか』(ルカ10・29)


 ルカ伝にある良きサマリヤ人の話は、本当の隣人になるのは容易にできるものできるものでない事を教えている。第二次世界大戦直前、大きなリスクを冒し、勇気を振って本当の隣人となる事を選んだ一人日本人外交官がいた。一九三九年から翌年まで、バルト三国の一つ、リトアニアで、日本国領事として勤務した杉原千畝(チウネ)である。
 杉原領事が発給したビザによって、大勢のユダヤ人がナチスの圧迫から逃れ、命を救う事ができたという話は、以前から断片的に聞いてはいたが、全容を知ったのはついこの二月の事でした。同氏の未亡人幸子さんが鎌倉の津に住んでおられ、彼女を囲んだ集まりで上映されたテレビ放送の録画や、未亡人のお話し、彼女の著書「六千人の命のビザ」によって、初めて真相を知る事ができた。
 杉原亮司の略歴は、一九〇〇年(明治三三)岐阜県生れ、苦学して早稲田大学専門部卒業後外務省留学生試験にハルピン学院在学中、白系ロシヤ人の家に下宿、その間、導かれてキリスト教信仰に入り、ロシヤ正教徒となる。卒業後、日本大使館勤務。外務省きってのロシヤ語通として高い評価を得た。同氏の外交官歴は、一九三七年ヘルシンキの日本大使館勤務から始まり、一九三九年リトアニアに領事館開設に伴い、領事として赴任、翌年ソ連のリトアニア侵攻により領事館閉鎖、ベルリンの日本大使館に転勤し、一九四七年に帰国するまでの動乱のヨーロッパに十年近く勤務された。
 問題のビザ発給は、在リトアニア日本領事館勤務の時期になる。同氏がリトアニアに赴任する三ヶ月前、一九三九年九月、ドイツ軍がポーランドに侵攻し、占領地区の住民、特にユダヤ人に対して、残酷極まりない虐待を行った。命からがら逃れて隣のリトアニアに辿りついたユダヤ人数百名が、領事館に押しかけてきて、日本通過のビザ発給を頼み込んだ。大量のビザ発給には本省の許可が必要で、領事は直ちに本省の請訓の打電をし、一方リトアニア在のソ連領事館に赴き、日本通過のビザを発給した場合、ソ連領通過は問題ない事を確認した。ユダヤ人の日本通過ビザ要請の背景には、彼等がナチスの圧迫を逃れて、ヨーロッパを脱出するには、シベリヤ経由しかなく、その為には日本の通過ビザがないとソ連に入る事が許されなかったという事情があった。
 数日後到着した本省の返電は、日独の関係、その他を考慮してビザ発給は不可との内容であった。領事館前には切羽つまって必死の思いで懇願しているユダヤ人の数は日増しに多くなった。幼い子供、老人も混っていた。この現実を前にして、ついに同氏は本省の訓令を無視してビザ発給の決断をした。軍国主義時代に生きた日本人ならこの様な行為がどんな結果になるかは十分に想像できる。自分のキャリアを大切にしようと思えば、あのレビ人のようにこの人達を無視する事もできた筈である。未亡人によると、その時氏は「私に頼ってくる人を私は無視するわけにはゆかない。でなければ私は神に背く」と言われたとのこと。ソ連の侵攻によってリトアニアから止むを得ず退去する迄の一ヶ月間、朝から晩までビザを書き続け、その数は二千を超え、家族を加えると六千人近いユダヤ人がそれによってヨーロッパを脱出できた。このユダヤ人達がその後どのような運命を辿ったかは、戦中戦後の混乱の中で知るよしもなく、この事件は同氏の記憶の底に埋もれたまゝになっていた。それから三十八年後一九七八年、ビザ白球を受けて無事新天地に逃れおうせたユダヤ人の一人で東京のイスラエル大使館勤務のニシュリ氏の訪問を受けて、彼等のその後の消息を知り、驚きと感慨の思いを深くした。日本のビザによって生き残ったユダヤ人は日本政府と杉原領事に対する感謝を忘れておらず、戦後杉原領事を探し出す努力を続けた。その過程で、それ迄彼等は日本政府がビザ発給を許可して呉れたものと思い、その人道的配慮に感謝していたが、実際は杉原領事が外務省の訓令を無視して、独断でビザを発給した事、然もその為に戦後帰国早々外務省をクビになったという事実を知って大変驚き、どうしても杉原氏を探し出さなければという思いにかられ、ついに同氏がまだ生存しておられる事実を突きとめ、ニシュリ氏の訪問となった。
 子々孫々まで恩を忘れないユダヤ人は同氏にあらためて感謝し、一九八五年にはイスラエル政府から「諸国民の中の正義の人」という賞が授与された。その時杉原氏は「私はあたりまえのことをしたまでだ」と謙遜に語った由。杉原氏の所為はイスラエルの国で「異邦人の中の聖なる人」としてその後も顕彰され続けている。生き残りのユダヤ人の中には、イスラエルで宗務大臣になった人、その他さまざまな分野で指導的地位に上った人は少なくない。
 勇気を振って本当の隣人となることを選んだこの一人の日本人を私共も誇りに思い、同氏の行為を末永く語り続けたいと思う。


*千畝(チウネ)ルビが打ってあります

184号 問安からいたゞく“プレゼント”山本律子

184号 問安からいたゞく“プレゼント” 山本律子


 特養衣笠ホームの献館式が行われたのは’70年(昭和45年)六月でした。七月より50名のお年寄りの入居が始まり、間もなく神奈川教区の各教会の婦人有志が中心となって、おむつたゝみの奉仕が始まりました。洗濯物の洗いと、乾燥は機械でできても、おむつの一方の輪を揃えて(長さがマチマチ)五枚を重ねて四つにたゝむ、大きなバスタオルや入浴用タオル、其の他諸々の私物をたゝんで所定の場所に納めるのは、どうしても人の手でやらねばなりません。少しでも寮母さんの手を省いて、その分お年寄りの介護の方に時間をとって欲しいと、今では教会の方だけではなく地域の老人会、婦人会、種々のグループ、団体個人も参加され其の後開所された特養鎌倉静養館の方も一日も欠けることなく奉仕は継続されています。


 クリスマスが近づくとあちこちから入居の方々にプレゼントが届きます。私達の教会では、毎日ご苦労の多いホームの職員の皆さんにそのお仕事を覚え共に祈ってますとの思いをこめて、手造りの可愛らしいものを作ってお贈りし、もう20年近くになります。今思い出すものだけでも、ピエロ人形、紙粘土で作ったツリー、布の三角ツリーやリース、和紙のメモ帖カバーや小引出しなど、今年は紐を引っぱると手足が動くサンタさんと象さんタオルが完成し、夫々のクリスマス祝会に間に合う様にお届けしました。始めは職員の人数も少なかったのが、入居者の増加やデイサービスが始まったりと、働き人も増え、今年は両ホーム合わせて170名分、十月頃より火曜日のお仕事会で皆で相談しつゝ、発想も参加も自由で楽しい作業が始まります。これは会員相互の親睦の時でもあり、あゝことしももうすぐクリスマスを迎えるのだと喜こびの時でもあるのです。


 又このプレゼントは教会の問安にも用い、お届けしています。特養「白鷺苑」の田村愛子さんをお訪ねした時、寮母さんから茶道を習うクラブがあり、先生のようにお抹茶の泡がフワッと立つ様に一生懸命練習しているがとてもこれが難しいとか、食事も全部食べられない時は栄養のバランスを考えてどのお菜も平均して食べるとかその自律した生き方に一同感服したものでした。問安はまさに私共が受ける豊かな恵みの時です。

199号「花の日、子供の日に思うこと」井戸淳子

199号 「花の日、子供の日に思うこと」井戸淳子


 「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ十一・二十八)


 花の日子供の日、菅根先生は大人と子供の合同礼拝に大きな白い袋を携えてメッセージを始められました。そして袋の中から次々と出した物は沢山の重荷でした。
「病・仕事・受験・悩み・悲しみ等」


 私は幼い子供でも、どんなに元気な若者でも、数々の経験を積み重ねて来られた熟年の方でも、重荷のない人など一人もいないと、思っています。しかし同時に他人の十字架の重さはどんなに近くにいる人でさえも理解することは出来ないのです。星野富広さんは、「人間が人間を慰めることの難しさをしみじみと思っている。」と語っておられます。


 もう四年程も前のことですが、外地で知り合った友人の御主人が仕事先の事故で突然亡くなられました。当時御夫妻には二年生と四才の女の子がいました。私は心中察するに余り有るものを感じて居りましたが、彼女が私に会いたいと言って下さり、「井戸さんならどうしてこんなことになったかわかるでしょう。ねえ、どうして。」(彼女は私がクリスチャンであることを御存知で、私達は時折「死」について話し合うこともありました。)泣き叫ぶように抱きつかれ、私はただ「同じになってあげられなくて本当にごめんね。」としか言えませんでした。どんなに辛く、苦しく、悲しいことが起きても誰一人その人と同じ気持ちになることは出来ないのです。唯一神様以外は。そして主は言われました。「私のくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ十一・三十)


 子供達も大人と同様各々に重荷を引きずって歩いています。この花の日に「神様への一言」を子供達は皆さんの前で披露しました。かわいい祈りや願いがある反面、辛い気持ちを訴えている子も居りました。それすらも胸の奥に秘めている子もきっといることでしょう。子供達の重荷を共に背負って行くことなど出来ない私ですが、子供達に、重荷を共に背負い助け励まして下さり、共に泣いて下さる方がいることを、何とか伝えて行けたらと祈っています。そのことが私自身、主に従い行く証しになって行くことを願いつつ。

217号 盲導犬候補生と共に 岡村満里



 ガラス戸を開けると、雨戸の向うにチラチラ動く犬の影。雨戸を開けて、「おはよう、お待遠様」犬も人も嬉しさ一杯、朝のご挨拶。七時の食事、まちきれなくてピョンピョン跳ねても、座って、待て「よし召し上がれ」一瞬のうちに食べ終える。「さあ今度は新聞」ポストから出した新聞を、これ、私のお仕事とばかり大得意で運びます。花に水をやった後のバケツを水道まで運んで、「私の水をいれてね」と言わんばかり。「なんてお利口なの」とほめてもらって、今育てている十頭目の「鈴鹿」の一日が始まります。
 飼育奉仕、生後二か月の仔犬を一年半程育てます。健康管理、間食は絶対にさせない、スキンシップを充分に、人との信頼関係を大切に、褒める時には大袈裟と思われる位に、叱る時にはきちっと厳しく、散歩中のマナー等、基本的な躾をする。繋いで飼わないことが決まりなので、狭いながらも庭で自由に遊び、寝ております。散歩は前の山、近くのせせらぎのある林で、思い切り走り廻り、せせらぎに入ってジャブジャブ、ミネラルウォーターをおいしそうに飲んで楽しそう。お土産に小さなダニ、時には小豆か大豆程にころころになったのをつけて来ます。可哀そうに、嫌ねととってやりますが、ダニだって生きるためだよ、と云ってる事でしょう。犬好きの我が家にとって大変と思う事は何もなく、この子達が家族共通の話題、笑いもくれて、セラピー犬と過ごしていると云っても過言ではありません。時には大変な悪さもしますが、叱りながら心の中では可愛い。
 犬好きで、若い人が主役で、私が何とか脇役を果たしてと、条件が揃っているので出来る事です。お別れの時、協会からの迎えの車に乗った子に言います。「元気でね、可愛がられる子になるのよ、バイバイ。」無事に巣立たせた安堵感と共に、ポッカリ穴のあいたようなたまらない淋しさ。十頭十色、この次はどんな子が来るかしらと、気を紛らわせます。盲導犬のユーザーの方の、「今では人に手を引かれて歩くのは怖く、心の慰めにもなっている犬を手放せません」の言葉に励まされ、あと何頭育てられるかしらと家族で話し合っております。
 三人のユーザーの方と出会え、それぞれの子の育児日記と写真を送りとても喜んで頂きました。福岡の方、浜松の方からはお便りと共に、犬と一緒のドライブや旅行に行った時の写真、前の犬との辛いお別れのビデオ、又魚沼の方からは盲学校を卒業して犬と共に歩む迄を綴った原稿とビデオが届きました。皆さん点字のお便りを下さいます。励ましと喜びを沢山頂いております。
 盲導犬の指導員の方には頭が下がります。ユーザーの方も犬と一体になる迄には、色々とご苦労があると思います。八年から十年位を共に歩んで来た子との別れはどんなに辛く淋しいことでしょうと思うと、私達が一年余りで手放す時の淋しさ等、比べられません。
 今迄に巣立って行った七頭の子は一頭も失格なく、今九頭目が学習中です。八頭目の子は不注意から行方不明になり辛く悲しい出来事でした。名前がフェアリー。フェアリーの様に来て、フェアリーの様に消えていった子、忘れる事が出来ません。
 盲導犬を連れている方に出会った時の事は皆さんご存じでしょうか。道を尋ねられた時は手を引かれて行くと頭の中の地図が混乱します。道順をきちんと教えてあげて下さい。私がまずそれを守るように心がけなくてはと思っています。

217号【花を活ける】松本 とみ



【花を活ける】月報217号   438字
             松本 とみ


 今度の花はどんな風に活けようかと日頃歩きながらウィンドウや駅舎の花に眼をやる事が多いのですが。女学生の頃から母の云うままに何々流の活け花を習い始めました。図のように形が決まっておりました。長いこと月謝を納めたと云う程のことでお許しの看板をいただきました。柾目の通った程良い大きな看板でしたので、これはまな板にすると包丁のあたりがよい等と親の想いとはうらはらな、感謝もしない不埒な娘でした。
 後年、この形にはまった活け花が、何かにつけて首を出し、この形から離れたのびやかな花を活けたいと思ってまいりました。ここ何年か講壇の花を活けるご用をいただき、今週こそはと思うのですが、花にも命があるようです。あちらをいじり、こちらを向け、なかなか思うように活けられません。思うにまかせない活け花を見る時、何事にも熱心さと、謙虚さの足りない自分を省みる思いです。
 でも次の時には、さわやかに、会堂の空気がなごむような花を飾りたいと、いつも思い願っております。

226号【講壇の花を活ける】井村悦子



◉【講壇の花を活ける】月報226号   
             井村悦子


 五感で神を感じるという話を聞いた事がありますが、この講壇の花もその一つでしょうか・・・・
 私は毎月一度、静然とした、誰もいない会堂で花を活けています。神様と花と自分だけの特別な時です。花の顔を見、十字架を見上げながら、遠くから、近くから皆さんの席の目線で花を入れています。
 先月のクリスマス祝会の花は、クリスマスを迎えるまでのアドベントを色で表すと紫か青色というお話を菅根先生からお伺いしまして、全体を紫色のグラデーションで入れました。紫という色は不思議に、ぐっと耐え忍んでいる色にも見え、また、喜こび華いだ色にも見えるのです。皆さんにはどのように感じられましたでしょうか。 
 私が、そっと心掛けている事があります。それは、すべて活け終わった時、一輪、小さな花を裏側に入れています。十字架を見上げる花です。神様のためのものです。そして、少しのお願いと反省を心でつぶやいて、会堂を後にします。

239号 盲導犬とともに 登内鍈二

239号 盲導犬とともに 登内鍈二


 二月二十三日(日)礼拝の後、教会で素晴らしいひとときを過ごす事ができました。昼食後、目のご不自由な八方(はっぽう)順子さんと高橋雅枝さんのお二人が、私たちにお話をするために、ご自分のアイメイト(盲導犬)に導かれながら、恩寵教会にお出でくださったのです。


 「セーヌ」は八方さんの、そして「ナイル」は高橋さんのアイメイトです。二頭はお二人の足下にピタリと寄り添って伏せています。


 平野ゆう子さんの開会の祈りの後、お二人のお話を聞きました。


 八方さんは杉並から、高橋さんは所沢から来られました。お二人はいろいろな場所に出かけて、目の不自由な人やアイメイトに対する私たちの理解が深まるようにお話をしておられるとのことです。


 お二人は目の病気により、徐々に目がご不自由になられたのですが、まだお若く、大変明るくて、お話もユーモアたっぷり、会場は度々笑いの渦に包まれました。その間、アイメイトたちは、少しお昼寝もしちゃいました。


 お二人のお仕事ですが、八方さんは、整形外科医院でリハビリの介助、高橋さんは、パソコン・スクールで目の不自由な方にパソコンを教えていらっしゃいます。


 八方さんの趣味は、スキューバ・ダイビング。よく沖縄に出かけるそうです。もちろんセーヌも一緒。飛行機の中では、八方さんの足下で静かにしています。八方さんは、水に触れているのが大好きで、水中でフワフワ浮いたり、海底の砂に触ったり、時には風船のようにふくらんだフグに触ったりするのがたまらないのだそうです。


 高橋さんは、ピアノをひかれます。昨年武蔵野音楽大を卒業されました。点字の楽譜は、六つの点の組み合わせで、暗号のような感じだそうです。普通の楽譜にくらべて三倍位のボリュームとのこと。


 お仕事に使う目の見えない方のためのパソコンは、普通のパソコンと同じですが、ソフト使用により画面の文字が音声になります。


 お二人をご紹介くださった岡村満里さんのお嬢様のひとみさんが最後にご挨拶されました。アイメイトを持てるのは、誰でもという訳ではなく、自立心のある人、アイメイトをきちんと管理できる人だそうです。ひとみさんがパピー・ウォーカーとして今までに子犬から育てた十三頭のうちの十頭がアイメイトとして目の不自由な方の役に立っているそうです。

246号【「喪失の老いを霊の喜びに変える」 】八木 五夫



【「喪失の老いを霊の喜びに変える」 】月報246号      1147字
             八木 五夫


 八十歳代に入ると老いを感じます。目、耳、鼻など五感に働きも鈍ります。その中で最も老いを感じさせるのが、物忘れかもしれません。
 人の知性には言語、絵画、空間、論理と数学、音楽、身体活動、社会、感情など八つの知性とそれを総括する自我(智恵の中枢)があります。脳の前頭前野という部分が五感の情報を受けて総括し思い巡らし、自覚し判断します。人間生活と未来に向かって生きていく人間行動の中枢です。 
 記憶は最盛期三十歳に比べ、六十歳では二分の一になりますが、前頭前野は八十歳になっても少し衰える程度です。物忘れや体の不自由があってもそれを補う知恵と工夫があるわけです。
 金子光雄先生(浜松方式の開発者)は人の痴呆を調べ、趣味が無く生き甲斐も無く、人とのコミュニケーションも少なく、運動、散歩もしない人が痴呆になりやすいこと、反対に、趣味に夢中で打ち込める人、友達仲間を持ち、散歩などこまめに体を動かす人は痴呆になりにくいこと明らかにして、痴呆の大部分は脳を使わないことによる事を主張されました。
 川島隆太教授(東北大学脳科学)も手軽な学習方法(一日十分の計算、音読)が前頭前野を活性化し痴呆予防に役立つと勧めています。物忘れを始め、老いの衰えのため、老い込んではならないということです。
 この十年、気分の落ち込みが免疫力を低下させる事も解ってきました。明るい前向きな生活が重要です。
 しかし人は罪と死を負う土の器であり、この人間の大きな負の負い目はどうにもならないものです。
 イエス様の十字架の贖いと復活を信じて、赦され、新しく霊の再生を与えられる感謝と喜びに生きたいと念じます。『こういう訳で、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人に囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創造者また完成者であるイエスを見つめながら。』(ヘブル十二:一〜二)
 私共の脳は八歳から十二歳頃までに基本的な五感及び言語の機能が完成され、十五歳頃脳の神経細胞の数と密度が成人並に発達します。幼少期の教育が私共の将来の人生の基礎です。幼少期の脳は順応性が高く、愛の手と環境によってその機能と発達が左右されます。
 教会生活の毎週の礼拝とみ言葉と祈りと讃美の歌は老いにとってももちろん、幼少期及び青年、壮年にとっても非常に大きな意味をもっているわけです。特に教会学校の充実を強調すべきです。「脳は未熟な状態で生まれ言葉を入れる事で爆発的に成長する。爆発は三歳、六歳、十三歳に起こる」ということを井上ひさし氏が言っていますけど、この代わりにみ言葉とみ霊を注がれるとさらに大きな飛翔があるのではないでしょうか。

250号【 青春の「時痕」】林 利雄



◉【 青春の「時痕」】月報250号            1372字
             林 利雄


「忘却とは神から人間に与えられた幸せの入場券である」
 これは少々キザな言い方だが、つい最近シベリア戦友会に出た時の感想である。シベリアでの俘虜期間中は労働に追いまくられて、おなかをすかしお互い殺気立っていた。口喧嘩や愚かななぐり合いもあった。手癖の悪い人もいてコソ泥もよくあった。この程度ならまだしも「シベリア民主運動」で売った、売られたとなるとお互いにもっと深刻である。
 その仲間達が五十年経った今日、人生航路も終わり近くなって、急に昔なつかしく求め合っての戦友会である。そこで和気藹々たる談笑の姿を見ていると、あの当時の事はお互い水に流して、忘却の彼方に追いやっているとしか見えない。忘却こそが救いである。
       ×   ×    ×
 その席上「お前の青春とは」とお互い自問自答していた。私は「負け戦ではあったが、母国のために戦った」と答えるのが精一杯であり、これが自慰であり矜持でもあった。「亡くなった戦友もいるのに生きて還って来た。囚人体験というおまけまでつけて」
       ×   ×    ×
 ソ連の監獄に座っていた時始終念頭から離れなかったことは「私がもし陸軍幼年学校、陸軍士官学校出の生粋の軍人か、或いはバリバリの軍国主義思想の持主であったなら、この境遇を自分なりに肯定するに気も楽であったろうに」との想いであった。
       ×   ×    ×
 私は歩んだ経歴から、戦犯、戦争責任という言葉には異常な関心を持っている。
 まず、戦争責任を「平和に対する罪」と言った概念のように広く捉えたくない。今次大戦(勿論満州事変以降)に限って、端的に言えば、戦いに負けた、負ける戦いを始めた、その戦いに参加した、協力したそのすべての道義的責任と捉えたい。
 この意味の責任は終戦当時軍籍にあった者は勿論のこと、軍籍になかった者も、当時成人していた男性はすべて負うべきものと考える。これは一億総懺悔に近い。
 人を心から納得させうるどうかは話の内容によるよりもその話を誰が喋っているかにかかる場合が多い。少なくとも祖国を戦いによって破れさせた私達世代の人間(私は男性に限定したい)はその発言を控えるべきである。
 極端論と知りつつ敢て言うなら私達世代の人間が舞台を去って始めて「日本のあり様」についての議論が感情論抜きで斗わせる平面に立ち得るのだと思う。
 戦後、新生日本が日本人自身が自らの手で「戦犯」を裁く苦悩を味うことなく、駐留軍の威の下に旧軍人を叩くのみで事を済ませて来た。また、与えられた新憲法を明治憲法の改正手続でこれを制定し、独立回復後また戦前の指導層を政治の場に復帰せしめた日本民主主義のあり方—これがまた日本的よさでもあるのだが—を顧みる時前述のような極論を述べてみたくもなるのである。
     ×    ×    ×
 参議院に勤めて三十年つくづく思うことは「日本という国は政治という機能を必要としない、作用する場のない社会である」と。
 其処では政治という荒療治をしなくとも、行政の場面で—例えば各省一律何%削減といった調子の—処理をし、それで国民も結構納得してゆく、その程度の対立要因しか持ち合わせていない社会である。そこに生まれてくるのは儀礼を受けもつ“政治屋”となる(了)




林 利雄兄は「自分史」『時痕』を、一九九五年三月に出版されました。その特異な体験を中心とする内容の概要と出版に到る敬意を記して戴きました。(月報部)

252号 受洗に至る道 山本鐡子

252号 受洗に至る道 山本鐡子
 幼い日「主我を愛す 主はつよければ…」と歌った大森の日曜学校、そして若き日々の五年余りをフレンド学園で毎朝礼拝の中にある祈りと讃美歌の日々を、なつかしく、なつかしく想起しております。母に「お母様は知らなくとも、神様はすべて見てご存知でいらっしゃる」と云われたことが、特に苦しくて作文に書いたこと。その事がどんなにどんなに今日まで大きな力と慰めをいただいたことか、唯唯、感謝一杯でございます。
 昭和九年入学の期に学校から頂いた聖書と讃美歌、講堂への廊下の柱に掲げられた「今朝の聖句」詩篇、コリント前書、テサロニケ前書、ピリピ書—どんなに心に残ったことか。
 戦後間もなく、フレンド・センターでミセス・ヴァイニングを中心にしての礼拝は心に残るものがございます。戦災で消失した教会堂が間もなく再建され、丁度住居の困難の中にあり、その堂守りとして十年間過ごしました。いろいろの方々とお会いできました。そして働く場も与えて頂きました。
 逗子での明治、大正、昭和と三代の女所帯も五十年となりました。少々ドラマチックな生涯であった母はよく「神様は各々に決して負えぬ荷はお与えにならない」と言っておりました。
 この頃は、これが「老い」かと我乍らオカシクなってしまう日々がございますが、再発を懸念された脳梗塞も何とか今日まですごし、ハーハーと云いながらも勝手な暮らしを許して頂き感謝一杯でございます。
 あの日から六十年、佐世保からの引揚げのときに途中、大阪で降ろされ、駅前の大きなテントの中での沢山の戦争孤児のすがたを見た日のことは、決して決して忘れ得ぬ状景でございます。
 今は唯唯、朝な夕なに、この国の有り様を、切に祈るばかりでございます。


祈らばや祈りにまさる力なし
日毎日毎の歩みにまかせて(母)


神様の傍に近く居給いて
心やすらかに今日を迎えぬ(鐡子)

252号 鎌倉恩寵教会の印象 思いのままに 増井喜興

252号 鎌倉恩寵教会の印象 思いのままに 増井喜興


 YMCAの聖書講義に伺っている時、礼拝出席を誘われ、クリスチャンの家庭に育った為か、他教会に出る事への罪意識に悩みましたが、菅根牧師のお言葉で、クリスマス礼拝に出席させていただきました。席に着いた時に涙が溢れ、その時の感動を忘れる事ができません。昨年十月二十三日夜中、呼吸困難で救急車で入院。本当に苦しい時に、“神偕にいます”の聖言を与えられ、苦しみの深い程神の恵みは大きいと痛感しました。退院後暫くは、朝の目ざめの時、自分の生きている事が不思議に思われた事が再々ありました。そんな時、長男から思いつめた様な厳粛な声で『みんなの為にもう十年生きていて欲しい。』と一言の電話で自分の生命は人の為にも生かされている事を知らされました。私はこの日から新たな希望を持って、リハビリ等始める様になりました。
 恩寵教会の皆様のあたたかいお励ましのお手紙、寄書等々は言いつくせない程の励まし、お支えとなり、ここまで回復した様に思います。又思いがけない青年会の方々とのお交わりには世界が拡がり、明るくなった様です。
 恩寵教会の根強さ、細やかさ、温かさに支えられ、育てられている事を思うと感謝でいっぱいでございます。

256号 特別寄稿 私の一九九五年一月十七日  岩井溢子

256号 特別寄稿 私の一九九五年一月十七日  岩井溢子


 ドドッ、ドカーンと体が突き上げられる音に目がさめ、次の瞬間にはガラガラと揺れて物が壊れる音。「地震だ!」と隣の夫と飛び起きて夢中で外に出る。幼稚園の庭に出ようとするが途中の焼却炉が倒れて通路を塞いでいる。どのようにして超えていったのか記憶にないほど慌てていた。空は明るくなり始め、辺りが騒然としてくる。一旦家に戻ってラジカセを取り出し、情報を聞こうとしても、京都に地震があった模様との報道しか伝わってこなかった。そんな筈はない。


 そうこうしているうちに教会の役員やご婦人が食パンを携えてきて下さる。「神戸栄光教会が倒れています!」との一声に驚く。神戸教会はどうなっているのだろうか。あらためて教会堂の点検を始める。厨房の食器はほとんどが床に落ちて割れている。本棚は倒れ、辺りに本が散乱している。小部屋は倒れた本箱で扉が開かない。それよりも会堂はどうなっているのか。塔の付け根のタイルが剥がれ落ちて鉄筋がむき出しになっているではないか。それから闘いの日々が始まった。十一年前の出来事である。


 細かいことがだんだん記憶から遠ざかってきているので、日記を取り出し、如何に多くの方々のご支援をいただいたかを改めて思い出した。今、一人の同志社大学神学部の学生さんの働きを感謝をもって懐かしく思い出す。地震二日目、京都から西宮までは電車で、そこから自転車を借りて来て下さった。故藤井暑之さん。何かお手伝いをといって黙々と散乱している教会の中を、兎に角歩けるように片付けて、黙って帰っていかれた。どんなに有難かったことか。彼は卒業後、倉敷教会伝道師を経て、東北の水沢教会の主任担任牧師になられた。そして地震十年目の昨年突如天に召されてしまった。ご夫人と二人のお子さんを残して。


 幼稚園の子供の一家が、近くの小学校の庭の車の中で寝起きをしているとの知らせに、駆けつけてみる。ブルーシートで寒さを凌いでいるが子供は元気なのでほっとする。電気はすぐにつくようになったが、水とガスが出ない。カセットコンロとボンベを次々に持ってきて下さる方がいて、とに角お湯が沸かせたので本当に助かった。水はポリタンクとゴミ袋を段ボール箱に入れて、もらい水にあちこちへ行ってもらって凌いだ。生活の知恵は次第に浮かんでくるものだ。悲しい知らせが次々と入ってくる。最初に教会員の若いお孫さんの死。避難所での生活の方々、入院中の方々。今、生かされて動けることがどんなに幸いなことかをしみじみと思い、最初の礼拝に集まってこられた二四名の方々と、感謝の祈りをささげ、これから何をなすべきかを話し合った。

269号 私たちの四十年の歩み 田中英雄 田中伸子

269号 私たちの四十年の歩み 田中英雄 伸子


 私達は一九六八年婚約式、一九六九年五月五日結婚式を恩寵教会で行いました。


 みんなで写真を撮るのに教会の部屋が狭く、プロでも全員が入る写真とはなりませんでした。集合写真の問題は現在も教会で続いています。


 約四十年経った今、意外性に富み面白いのは三人の娘に出会った事です。小さくて守っていかなければと気負いましたけれども、気付かないままに持っていた自分の枠組みを、子どもが打ち破り感情を揺り動かしてくれました。コリント第一の手紙三章「私は植え、アポロは水を注いだ。しかし成長させて下さるのは神である。」記憶していた聖句が心の中で生きてきました。偶然舟に乗って来た客と思いましたが、今は自分が舟を無事港の外まで曵航するタグボートの気がします。


 親も子どもの部分しか見えず、子どもの為と言いながら自分が安心したい気持ちが根にある気がし揺らいでいます。これからも人間が多様性に富んでいる難しさと素晴らしさを感じながら、相手の話を聞く耳を持ち迷いながら手探りで進んで行く日々が歩めますように。(伸子)


 夫はどこへ行ったのやら、ちょっと加えます。教会の四十年の確かな歩みに比べようもありませんが妻により、教会の皆様により導かれて主イエスの信仰にたどり着いたことを今は有り難く感謝しています。(英雄)

299 マイケル・ヒングソン氏来日裏話

299 マイケル・ヒングソン氏来日裏話
昨年7月22日に恩寵教会でヒングソン氏全国講演会終了後の歓送会を盛大にしていただきました。彼も盲導犬(アフリカ)も大変喜んで帰米されました。ご承知のとおり彼は生まれつき全盲で9.11の際WTCビルの78階のオフィイスから階段で盲導犬ロゼールの導きにより多くの人々を助けながら無事に脱出に成功しました。人々はこれを“9.11奇跡の生還”と称賛し、語り継がれています。10年後の2011年にこの話を「サンダードッグ」という本にまとめ出版され、その日本語翻訳権を燦葉出版の白井社長が得て日本で販売するに当たり、ヒングソン氏の全国講演会を企画しその契約から招聘まで私も係った関係で、その裏秘話を紹介致します。勿論盲導犬アフリカ(ロゼールの次代)の帯同は絶対条件でしたが、当初日本盲導犬協会が後援して盲導犬の入国からドッグフードまで面倒を見るということだったので安心していました。しかし3ヶ月前になっても何も言ってこないので不安になって訪ねたところ、入国動物検疫の問題は農水省の管轄で、当方は厚労省だから関係ないといわれ、あわてて羽田動物検疫所で事前届出書の手続きに入りましたが、農水省が世界一のハードルと自慢するだけあってその要求基準は国際基準をはるかに超えた煩雑なものでした。入国の一ヶ月前までに届出書を提出し受理されなければならず、米国側に要求された手続きや証明書を依頼し送付してもらい漸く提出しました。受け付けた技官はこれで良いと思うので上司に回すといってくれたのでやれやれと思っていますと、その夜電話があり書類不備のため来てくれといわれ、行くと所長が出てきて、これは例がない(外国人が盲導犬を連れて入国し全国で講演すること)事例であり、書類上もわずかな不備(現在有効な狂犬病予防接種のやり方の日米間の法律上の違い)があり、再度やり直しを要求するよう本省から通達があったのでそうしてもらわないと認可できないという。いくら法律の主旨から議論しても先方はこれは「制度」ですからどうにもならないを繰り返すだけで話にならない。米国人のヒングソン氏には到底理解させられないし講演会には到底間に合わないので中止せざるを得ない。しかし順調に進んでいる各地の講演会準備を見ると何としてもキャンセルは出来ないと強い気持ちを持ち、何か突破口をと考えたとき、アメリカ大使館から交渉してもらうことを思いつき、コネを頼ってアメリカ大使館動植物検疫課に事情を話し、羽田検疫所長とヒングソン氏の両者に話してもらい、最終的にヒングソン氏も米大使館の説明で了解して再度予防接種と抗体検査を大至急実施しその結果を持って羽田で確認の上、本来ならば100日間留置のところ特例として「持ち出し許可証」を発行するという形で漸くぎりぎりに受理された。米国大使館の日米各検査機関等への働きかけがなければこの難関を突破できなかった。それにしても盲導犬一匹2週間入国するのにこれだけの労力をかけねばならないとは、日本の「制度ですから」、「前例がない」という制度疲労はもう改革せねばならないとつくづく思わされました。
宇治田憲彦

304号 「寿越冬闘争」という活動に体験参加して 山本栄治

304号 「寿越冬闘争」という活動に体験参加して 山本栄治


 寿町は横浜市中区の町名のひとつである。面積は70,000平方メートル、人口は3,449人(うち外国人 503人)である(2000年度)。これ以外にも住民登録をしていない人が多数居住しており、実際には約6300人の人々が生活していると言われている。寿地区周辺は、第二次大戦中に空襲を受け焼け野原となり、第二次世界大戦後、1955年までアメリカ軍によって接収されていた。接収終了後、職業安定所の寿町への移転や簡易宿泊所群の建設がはじまった。これにともない、周辺地区から港湾労働に携わる日雇労働者が、大勢移入。まもなくドヤ街が形成された(Wikipediaより抜粋)。
 私は学生時代に東京都の山谷地区見学に参加したことがあったが、医療相談として今回は実際に一部体験もさせて頂けることとなった。公園に来る人は普段自分が診る人たちと違い、あまり医療のことを聞こうとしない人が多く、むしろ自分の価値観だけで理解しようとしたり、治療内容を要求しようとしたりする傾向がみられた。また中には病状は安定していないのに自己判断で治療を受けたり中断したりといった人もおられた。その人は公的な援助を途中で自ら断り、結果医療を受けられなくなっていた。
炊き出しや医療相談などの行われた公園は外部の人間が多く入っていて穏やかな様相であったが、ひとつ町にはいると入浴してなさそうな人やこわそうな人がいたりした。止めてある車もシャドーの貼ってある異常にぴかぴかに磨かれた黒塗りの車だったりした。かつて、麻薬、売春、売血が横行し治安が非常に悪かった地区の名残を見た気がした。
かつて2000年前に中近東におられたあの人も、寿町の人たちと似たような人たちに自ら進んで接していかれたのだろう。今の私は、医療活動を寿町のようなところで淡々とすることはできても、彼らの日頃の生きざまに同情し支え続けてあげたいと思うことはできない。自分の心の狭さを痛感した今回の体験活動であった。

317号 転入会 飯淵佐喜子

317号 転入会 飯淵佐喜子
飯淵佐喜子と申します。 


私は青春時代を仙台で過ごしました。 教会との出会いは仙台北教会の前身である東三番町教会の日曜学校の生徒にさかのぼります。大学一年生の時、川端忠冶郎牧師から洗礼を受けました。両親と姉と共に仙台から逗子に越して約50年になります。母と姉と私は東三番町教会から鎌倉雪ノ下教会に転会いたしました。 このたび恩寵教を訪ねるまでには私自身と教会との間には長いブランクがありましたが、神様のお導きで恩寵教会と荒井仁先生と皆様に出会えて本当に嬉しく感謝しています。


人間 長い人生にありましていろいろの事を嫌でも体験いたしますが神の子 人間イエスキリストの愛と苦悩と赦しの教えに 私はいつも謙遜でありたいと切に祈ります。


よろしくお願いいたします。




322号 転入会 荒井眞弓

322号 転入会 荒井眞弓


横浜二ツ橋教会から転会してまいりました。どうぞよろしくお願いいたします。
2年前まで、横浜の小学校に勤務していました。
健康には自信をもっていたのですが、2年前の2月、「ギラン・バレー症候群」を発症しました。「ギラン・バレー症候群」は、何らかのウィルスの感染により、免疫システムの支障を起こして自身の神経を攻撃してしまう自己免疫疾患です。突然のことでした。体中の関節・筋肉に疼痛があり、四肢に力が入らず、体が全く動かなくなりました。自分では何もできず、生活のすべてに介助の必要な状態で、半年余り入院しました。
それまでは、毎日毎日、にぎやかな環境の中で過ごしていたものですから、痛みに耐えながら動かすことのできない体で過ごす一日は、とても長いものでした。本を持って読むこともできませんから、ひたすら楽しいことを想像して過ごそうとしていました。夜は、とても長く静かで、楽しいことの想像は難しく、さみしいものでした。夜明け前の素晴らしい変化を見せる空の色を見ると、朝が訪れた喜びを心から感じました。
元気でいるときよりもずっと、神様がそばにいてくださっていることを感じました。聖書の「弱い時こそ強い」という大好きな句を胸に、いつも空を見ていました。退院してからも毎日夜明け前に起き、明け方の空を見ています。これから迎えるであろうもっと苦しいときにも、神様はいつも守ってくださるであろうことを確信しています。
リハビリで少しずつ回復し、体が動くようになってきました。学校を退職し、新しい出発をしました。現在、日本語教師養成講座に通っています。今度は、海外からの研修生や留学生の前で教壇に立つつもりです。新たな出会いを求めて、埃をかぶった頭にはたきをかけながら奮闘しています。


「教会は私の宝でした。」の言葉を残して 田宮繁子(再入稿予定)



 一九八八年四月からの一年間の出来事は、私にとって「まさか、そんなことは有り得ない。」「しかし、全ては神のご計画の基にあった。」との問いと結論とを自分に言い聞かせつゝ、信じ難くても信じなくてはならない事柄が続きました。
 今、私の脳裏に映る浩子さんの姿は、「たゞひたすらに目指す一点に向かって懸命に走りぬかれた人」という印象が強烈に残っています。
 浩子さんは神様から本当に沢山の賜物を戴いた人でした。そして、その賜物を忠実に磨き上げて、多くの人々にお返しした人でした。若い日には、教育者として、幼い魂に深い人間愛と豊かな知識とを与え、立派な教え子を多く残されました。ご家庭に入りました後も、地域の人々に全力で尽くしてこられ、内在する強い力に押し出されるかのようにエネルギッシュに行動された浩子さんのエネルギー源であった方を感じました。その方への信頼が浩子さんを強くし、その方のお恵みを証し続けられたのだと思います。いつの間にか浩子さんは、その方を周囲の人々に指し示しておられたのでした。


教会への思い
 転入会された浩子さんは、いつもご主人様と揃って聖日礼拝に出席され、教会の諸行事にも積極的に参加されました。毎夏行われる一泊研修会では、信仰のこと、社会問題、教育問題等、一本筋の通ったご意見を出され、落ち着いたはっきりとした言葉で話されるのが印象的でした。
 その後、再び小学校へ勤務され、夜遅くまで同僚との研究会や打ち合わせなどで大変お忙しかったようでした。「昼間の聖書研究会に出席できないので」と夜の聖書研究会を希望して、勤務の帰りに教会に寄り、九時過ぎまで学んで、暗い夜道を大急ぎで帰宅して行かれました。さぞ疲れていらしたでしょうに、少しも口にしませんでした。教育員としての責任感が強く、持ち前のソプラノで聖歌隊をひときわ生き生きとされ、「心から神賛美をしたいわね。」と常々言われておりました。


イスラエルの旅で
 私が浩子さんと特に親しくさせていたゞくようになったのは、一九八八年二月三日〜十二日までの十日間「聖地イスラエルへの旅」に参加してからでした。
 浩子さんも私も青春期に聖書との出会いがあり、今日まで聖書を学び心の支えとしてきましたので、聖書の舞台である地へ行きたい想いは募っておりました。しかし、私は、いずれ子ども達が自立してからと考えておりました。が、ある日、浩子さんから「行きましょう、後のことは何とかなるものよ、若いうちに行って来て、そこで得たものを長くお返し出来るでしょ。」と言われ、優柔不断な私の背をポンと突いて押し出してくださいました。私にとっては掛け替えのない旅が実現しました。この旅では浩子さんと私は文字通り寝食を共にした十日間を過ごしました。
 イスラエルでの第一日目の朝は地中海沿岸のテルアビブ・ヨッパで迎えました。早朝、強い太陽の光にさそわれて海岸に出ますと、乾いた空気と、どこまでも青い空、海。思わず大きく深呼吸、地中海を渡る風を胸一杯吸い込んで「イスラエルに来たのね。」と念を押すように浩子さんはつぶやき、「旅の時でないと履けないわ。」と言いながら真っ赤な靴で白い砂浜をザクザクと音を立てて、うれしそうに走りまわりました。朝食を済ませると、いよいよ待望の地へ、込み上げてくるものを感じつゝバスに乗り込みました。最初の訪問地、世界最古の燈台は、聖書の時代に商業で栄えた港町ヨッパの石道を登りつめた丘の上に風化して丸くなった姿で、その当時人々が目にしたであろう風景の中に、今も確かにありました。想いはパウロの伝道旅行の時代へと誘われて行きます。翌日からは、ガリラヤ湖の周辺からナザレ、カペナウム、クムラン、マサダ、とヨルダン川を下るようにバスの旅は続きました。
 「主人から写真を撮るよりも、自分の目でしっかり見ていらっしゃいと言われたの。」とご主人様のアドヴァイスを気にしながら、ナザレの村の子ども達や、車窓に映る羊の群、野の草花、古い教会など思わずカメラを向けていました。また、浩子さんは絶え間なくペンを走らせていました。今、目の前に聖書の世界がある。次々に案内されるこの場所で奇跡が、と思うと心の震えを兎に角印しておきたかったのでしょう。
 この旅で浩子さんを一番感動させたのは、死海のほとりにそゝり立つクムランの要害と荒野だったと思います。それは、何者をも拒絶するかのように私達の目前に立ち開っていました。乾期には、赤茶気た岩山に死を予告するような太陽が輝りつけ、雨期には、すべての道が滝と化すこの荒野でモーセが、イエスが、神と真剣に向き合ったのだと思うと、自分もその世界に身を置いてみたいと、グループから離れて浩子さんと私は登り始めました。しばらくすると浩子さんは、突然空を見上げて「何もないのね。夜はきっと、星と神様だけの世界でしょうね。神様の声しか聞こえなくていゝのよ。」と自分に言い聞かせるように言いました。
 夕刻、死海のすぐ近くのホテルに入り早速、水着に着替え塩柱が浮ぶ湖へ泳ぎに行きました。プールとは勝手が違い、腰の方が浮いてしまうのでキャッキャッと大さわぎ、塩分で肌がヒリヒリ、思わぬ体験をしました。
 その夜、夕食時に「お腹が張って食欲がないの。でも、せっかく出された食事だから、ひと通り戴くわ。」と作ってくださった方に気を遣いながら、ほんの少量ずつお皿に取っていました。
 最後の訪問地となったエルサレムでは、ありったけのエネルギーを使い果たすかのように疲れも見せずに実によく動き、あちこちで深い感動と涙の四日間でした。イエス様が十字架を背に歩まれた道からゴルゴダの丘へ。私達もその苦しみを思いながら、その石だたみの坂をひと足ひと足踏み締めながら登って行きました。主が復活されたと言われる墓の前で浩子さんは皆から離れて一人静かに祈っていました。
 旅の最後の夜、「もう一度荒野だけに来ましょう。どうしてもあの山を越えましょうね。」そう約束をして旅は終わりました。
 この旅で得た神に対する大いなる畏れと高められた思いをこれからの生活の中でどう活かして行こうかと、どんなにか希望に燃えていらしたことでしょう。
 旅から帰って二ヶ月後、大きな試練が待っていました。敬愛する内藤牧師の死でした。ご葬儀の日、浩子さんはご自分の病が判り、入院したその病室で喪服に着替えての参列でした。何と辛く、悲しい日でしたでしょう。
 それから1年、内藤先生の記念会を午後に予定していた聖日の礼拝の最中に浩子さんは天に召されて行きました。


病室で
 闘病生活の一年間は、浩子さんにとって、あまりにも厳しく重い日々であったことでしょう。悩みや不安を訴えつゝも、病を受け入れ、自分を奮い立たせようと、内藤先生の説教のテープを繰り返し聴きながら、心の平安を得ておられました。病室から沢山の便りをいたゞきましたが、ユーモアさえ交じえた文章や、今の試練に感謝している短歌などもありました。
 年が明けて病状が一段と進みましたので、週に一度伺うようにしました。痛む所をマッサージしながら、教会のこと、街の様子などをお聞かせし、短い礼拝の時を持つようにしておりましたが、浩子さんのお祈りの中にはいつも、「教会のために働かせてください。」との言葉がありました。身は病室にあっても浩子さんはいつも教会の集まりの中心にありました。皆の祈りの中に浩子さんの思いが溶け合って、私達はどれ程励まされたことでしょう。


おわりに
 「人間は神の舞台です。」と内藤先生は言われましたが、浩子さんは神に導かれ、神に従ったすばらしい舞台だったと思います。私が病室へ伺った最後の日に「教会は私の宝でした。」の言葉を残して、二日後に激しい肉の痛みから解放されました。
 浩子さんが宝にしていたらした教会が、これからも多くの人々の宝であり続けますように、心に帯して歩む覚悟を新たにいたしました。
 ご家族の上に慰めと平安があります様に祈りつゝ。
一九八九年八月    記

【諸】 かえりみて  一柳育子   

【諸】 かえりみて  一柳育子 

文集「恩寵のわだち;一九七六年発行より
  かえりみて
一柳 育子
受洗二十一年の秋を迎えて、今更のように月日の流れの早さに驚きと恐れおのゝく今日此の頃です。思えば若き日の求道に燃えていたあの頃の情熱が懐かしく思い出され、喜びと不安と何かしらの期待との中で洗礼を受けた時の感激の涙を今でも忘れる事は出来ません。
あの頃の進歩に比べて、なんとその歩みの遅々として進まぬ年月であったことでしょうか。結婚と言う一つの転期に立って、又違った世界に飛び込んで、自分を試してみようと思ったのも、心の底に流れる信仰と若さ故であったように思います。時間的に日曜日の礼拝はなかなか出席出来ず、皆様との交わりも少ない中で、毎月一回、敬愛する姉妹の家庭に招かれ、内藤先生をお迎えして、親しみをもって御言葉をわかりやすくお話し下さり心安らぐ、感謝の一時を過させて戴き、細々なからも信仰の火を燈してこられたのも、此のもより会を支えて下さる皆様のおかげと感謝しております。何時か又、生きる事がゆるされゝば教会の方々の交わりの中に加わり何か奉仕出来れば幸せと思い、希望を持って歩んで行きたいと思います。
481字

【諸】 晩年の御恩寵  永松アツ 

文集「恩寵のわだち」


晩年の御恩寵
永松アツ
此七年もアット云う間に過しましたが私は本当に善いお仲間に入れて頂いた事を心から嬉しく思って居ります。今私は女学生の寄宿舎生活の様に起床五−六時、朝7時半礼拝のさんび歌はとても気持ちよく八時食前の祈り何時も神様を間近に思います。私の様に七十歳の時神様はよくぞ私を拾って下さいましたと一人ぼんやり窓外の景色を見て居ると何時か有難く嬉しく涙が出て来ます。
それで私は神様の御用は何が出来るのかとなさけなくなる時もあります。聖書もまだまだ何度とくりかへしても読まず毎朝の礼拝もわずかな事で自分ながらはがゆい気持ちです。日曜日は一番楽しみで皆様とお目にかかり牧師先生のお話も一生懸命伺いますが其時は少しわかったつもりも年寄りの直ぐに忘れ申訳なく思って居ります。部屋に帰り今日も教会へ行き、先週のお詫びをして御礼を云い今週のお指導を願って来たと思ふととてもよい気持でございます。どうぞ皆様方も今後共、何時までもお導きをお願い致します。

【諸】 花明り  武内ちとせ 

:文集「恩寵のわだち」
  花明り  武内ちとせ

この土地に基すえられ雛の日

春空に十字架仰ぎ二十年

会堂に飾られ桃の花明り (一九八八年二月)

【諸】 四月五日のこと   武内ちとせ

:文集「恩寵のわだち」
  四月五日のこと 武内ちとせ

 「先生死んだふりなんかなさらないで下さい」あまりの事に思わず心の中で叫んでしまった。お棺の中に眼鏡をかけたまま、まるで眠っていらっしゃる先生でいらしたから。今迄の事が走馬燈の様に頭の中をかけめぐった。杖とも柱とも思っていた先生が急に召されるなんて神様はどう思っての御心なのか全く分からなかった。しかし今となれば嘆き悲しんで途方にくれ困りはて絶望の渕に立たされているのはこちら側のことであり、」先生側に立てば創立二十周年記念の聖地旅行もなさり記念礼拝、記念式も盛会のうちに終られイースター礼拝、洗礼式、聖餐式、墓前礼拝も総てお元気にお済ましになられた翌日のお旅立ちは誠に先生らしい御立派な御生涯であったと思わなくてはいけない事に気づく。それにしても余りの突然のお訣れで、美枝子先生の御心中をお察しして嗚咽をとめる事が出来なかった。   402字

【諸】 神は愛なり  一柳育子 

:文集「恩寵のわだちより
神は愛なり 一柳 育子
私が小学校二、三年の頃の事だったでしょうか、昔からの古い我が家でしたが一枚の壁掛が部屋に下がっておりました。それは誰が何時持ってきたものかさだかではありませんが、白い大きめな貝の蓋の中に「神は愛なり」と墨で記されて額のような中に赤い紐で止められていましたのを今でも鮮明に憶えております。その頃は何の意味かも解らず、時々見ては心の中で「神は愛なり」とつぶやき、くりかえしてはたゞ漠然としたものをいだいて眺めておりました。それから少したった頃でしたか仏教色の濃い我が家でしたが「ミレーの晩鐘」の複製が飾られました。それは兄が好んで求めて来たもので額に入れて得々としていた兄の顔をおぼえております。私も幼いながら暗い中に何か暖か味のある絵にひかれてよく見上げておりました。その時も信仰的なものは何もわからず、後になって早く母を亡くした我が家に、家庭的なものを求めていた兄の心の現れではなかったのかと思いました。
 間もなく日本も戦争が始まり残りの学生時代も軍事色にぬりつぶされて行きました。それはとても長い年月に感じられました。
 やがて敗戦となり苦しかった時代もすぎ衣食住もだんだんみちたりてきた頃、何か空しいものが私の中にこみあげて来ました。何をやっても満たされない、こんな気持ちでこれから生きて行くのはたまらないと思った頃、女学校時代、一緒でした一人の姉妹に教会に誘われ導かれて行きました。私の乾いた心は、砂に水がしみる如く満たされてゆき、今までの罪に気付き、ざんげし又心の安らぎを憶えました。そこには神の愛があり、それはあまりにも大きく高く深くとてもはかりしれないものでした。幼い時おぼえた「神の愛なり」の言葉の意味と祈りの重要性が少しでも理解できるようになり、様々な困難や苦しみ又喜びの時も神様の存在を憶え感謝しつゝ残りの人生を歩んで行きたいと思っております。
812字