私の好きな讃美歌

 思い出の讃美歌

137号 山本 敬

137号 - 山本 敬

137号 - 山本 敬
(1986年3月)

 30数年前、横須賀市の衣笠病院に赴任し、院内の職員住宅(六畳一間)に住み込んでいた時、当時は医師も看護婦も殆どが、全国から集まってきたクリスチャン職員であった。
 そこで、色々と信仰上の議論が盛んであり、よく病院教会の牧師である中島先生のところに話をききに行ったりした。(先生も院内に住んでおられた。)
 どうも医療伝道都はどういう事か判らないとか、イエス・キリストにならうといったって、とてもそんな事出来るわけないとか、皆で色々話し合った末、中島先生の処に聞きにいこうという事になると、誰からともなく「又中島先生に適当に言いくるめられる結果になるなあ」といった声がきかれた。
 何もかも判らなくなった時、ふと歌った。
  “馬槽の中に 産声あげ”の歌が、神であり人であり生きる苦しみを、我々と同じように散々味わったイエス・キリストが“同行二人”のようにいつも一緒にいてくださる、と思えて、それからは、何か讃美歌を選べと言われた時は、今だに“121番”と答える事にしている。

138号 小口 文子   

138号 - 小口 文子   

138号 - 小口 文子   『246』(1986年5月)

 私の好きな賛美歌は多い。歌詞に心うたれるもの、曲の美しいもの、その時その時の懐かしい思出。1963年の5月、アメリカに居た娘夫婦の招きで私は独り旅をした。帰りにカナダにおられるミスハード先生をお尋ねした。 私の20歳の時、信州上田に居た私は先生によって導かれた。 ナラマタで先生と共に暮らした3週間は私にとって忘れ得ぬ思出となった。ナラマタは美しいオカナガン湖に面した小さな村。バーノンはすぐ近くの町。そこには一世の日本人の方達がすんで居られた。 或日の夕べ、先生と私はその方々に招かれ、持ち寄りの日本食で集会をして下さった。先生は日本が大好きで日本の為に半生を捧げられた。カナダのお話を聞いたり、11名の皆で讃美歌を歌ったりした。最後に先生と私は此の246番を歌った。上田にいた頃先生と共によく歌った讃美歌であった。 カナダの夕暮れは長い。広い草原が静かに暮れて行く時、主にあって結ばれた方々の中で私は深い恵みを感じた。ハード先生は、一昨年、98歳で天に召された。 長い人生、此の罪深い私は主によって赦され、恵みによって生かされて来た事を深く感謝している。



旧讃美歌 2461.

かみのめぐみは かぎりなくとも、   
ゆるさるべきか、このつみびとは

139号 川田 峰子

139号 - 川田 峰子

139号 - 川田 峰子   『511、 517』
(1986年7月)


 私は、好きな讃美歌が、年令とその時の状態で変わってまいりました。讃美歌には、実に素晴らしい詩が多く、礼拝の中で、牧師をとおして受けたみことばが心の扉を開け、深く語り掛けてくれ、涙する事もしばしばでございます。
 理屈の苦手な私にも、讃美歌の詩は、時には慰め、又きびしい戒めとなって、私の心に伝わって参ります。511番は愛である主が弱い信仰に甘んじております私でも、主につらなる兄弟姉妹との交わりの中に覚えて下さっている喜びと、感謝で大切に歌っております。
 幼い時の子供讃美歌、女学校時代の古今聖歌集(聖公会)旧讃美歌と歌ってまいりましたが、その時代と今とでは、讃美歌の受け止め方も、味わい方も変ってきたように思います。昔は思いきり唄う事に喜びを覚え、メロデイーの美しさにひかれた様に思いますが、作今は、年と共に声がかっての様に、思い通りに出なくなった事もあり、歌詩の方に目が向くようになってまいりました。
 私は、友人の愛称讃美歌に名前を入れております。折にふれ開いて思い出し、口ずさむ事もありますし、礼拝の折に友人の番号に出合います時、共に礼拝をしていると云う喜びを深く心に感じる事もございます。
 高い声のでなくなりました今、アルトの方を歌いたいと思いますが、音がとれずにおりますので、今年から聖歌隊の練習にお仲間入りさせて頂きましたが、まだまだ体型に似ず、蚊の鳴くような声で参加しておりますが、神様を心から讃美出来ます様に頑張りたいと思っております。
 一つ残念に思いますのが、私の好きな曲も此の部類に入っておりますが、讃美歌からは雑と云う字を、無くして頂けないものかと思っております。


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旧讃美歌 511番
  みゆるしあらずば ほろぶべきこの身、
  わが主よ、あわれみ すくいたまえ


旧讃美歌 517番
  「われに来よ」と主は今、やさしくよびたもう、
   などて愛のひかりを 避けてさまよう。

141号 小林 政治

141号 - 小林 政治

141号 - 小林 政治  『396、404』(1986年11月)

 編集子から次のようなご宣託がございました。(ジョーク) あなたのすきな讃美歌を知らないと、葬式のときに困惑するからだということらしい。なるほどと、機会を与えて下さったことを感謝したものの、自らも、日頃葬儀に立ち会う毎に、その必要性を痛感いたしていたものですが、やはり私のような優柔不断の人生は、人に声を掛けられないとその気になれません。といって、いざ、選ぶとなると遅まき乍ら、むつかしく、越えられそうでいて、越えられぬ壁のあることに気がつきました。 それは、時に異常なほどの、感動で唱えた讃美歌であり、激励の神の声であり、恵みの満ち足りた讃美歌でありましても、環境と考えるが妥当か、はたまた境遇によってか、とにかく、わたしの場合は変ってきたことは事実だからです。身勝手な信仰しか持ち合わせないからでしょうか。しかしすきな讃美歌は、その人にとって不要なものでも、時に変わっても、一向に可笑しくなく、ごく自然のことと解釈して、まえおきがばかに長くなりましたが選ぶに当り、与えられた題名が「私の好きな賛美歌」なので全く葬儀にかんけいのないこととして、年よりのひがみとして、どうぞご随意にご冷笑のうえ、その節にはご苦労様でも声高らかに神を讃美して下さいますことを今よりお願い申し上げておきます。  讃美歌 404番 永遠の旅人、そして求道者が、大自然の摂理の中に、来し方の、罪も、汚れも、ただ一条の煙となって、灰となって、聖化されることの、生涯にたった一度の聖化こそ、ご迷惑をかけた皆様とお別れするに相応しい景色だからです。 受洗当時の教会はよく「聖歌」を使ったものでした。日本人特有の、悲壮感の漂うものから始まって勇気凛々、ただこの道あるのみと励ましの御手に縋りつく思いの姿を思い出すからです。信仰とは何んぞやとも、神とは何ぞやとも知らず、ただ、無手勝流に、昔に教えられた、敬神崇祖で、一点の疑問も無いままに、悲しい戦争の脱力感と、求道を志した岐れ路であり、戦争の遺物の寝言です。その節にはとは申しませんが、ちなみに396と404です。

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旧讃美歌 396  なやみのあらぬを さちとはおもわで、  いたみのうちにも みめぐみおぼえよ

旧讃美歌 404  山路こえて ひとりゆけど  主の手にすがれる 身はやすけし

142号 山本 基 

142号 - 山本 基 

142号 - 山本 基   『495番、476番』(1987年1月)

 私の好きな讃美歌について書けとの事ですが、特に好きな讃美歌と云う程のものはありませんが、想い出の多い讃美歌について書かせてもらいましょう。 私はクリスチャンホームに生まれたので祈りと讃美歌の中で育ったと思われますが、私の幼少の頃は戦前戦中であり、まわりは軍歌と行進曲のみでありました。 その様な中で小学校の低学年の頃のクリスマス一夜に聞いた“きよしこの夜”は心に残る讃美歌になっております。場所は東京世田谷の田園都市線(その頃は大井町線と云っていた)の自由が丘と九品物駅の中程の線路ぎわの、しもたや風の伝道所で先生は末吉先生と云う女の先生一人で日曜学校が開かれていました。 クリスマス祝会は夕方6時頃より始まりにぎやかに劇やコーラスがあり8時頃には終わり、それぞれ家路についたものでした。満点の空に星がキラキラと輝きメルヘンの夜を創り出していました。その時代の子供達は夜の外出等全くないものでしたから夜道を歩く事が珍しい事でもあり、折からの寒風に身ぶるいしながら祝会の時に歌った”きよしこの夜“とはこのような夜の事なのかと感動を覚えた事でした。その後”きよしこの夜“を聞く度に50余年前の感動を新たにしております。 思い出深い讃美歌の二ツ目として“母ぎみにまさる、友や世にある”。私の家は父が厳格なクリスチャンであったので、毎日夕食前に家族全員が食卓の前に座りこの“母気味にまさる”を歌いお祈りするのが習慣になっていました。何で毎日毎日同じ歌ばかり歌うのか不思議に思う事がありました。しかし父は母(私の祖母)をこよなく敬愛していたのでしょうか、この習慣は変わりなく、父が明治学院に奉職していた頃父が礼拝を司会する時は必ずこの歌を歌ったと云う事です。今でもこの歌を聞くと空腹感をじっと我慢していた子供の頃を思い出します。この讃美歌もメロデイーだけ残り歌詞は改定されたのは残念です。その他495番の中の"我はほこらん ただ十字架を゛、476番の中の〝みつかいよ、つばさをのべ、永遠の故郷へ みちびきゆけ″等 心に残る歌もあるが紙面の都合上又の機会があればお話ししたい。

143号 吉田 暁美

143号 - 吉田 暁美

143号 - 吉田 暁美
(1987年3月)


 好きな讃美歌は沢山ありますが、私が生まれて初めて聞き生涯忘れることのできない讃美歌405番について思い出すままに書いてみましょう。1946年4月台北から両親の故郷鹿児島に引き揚げてきた私は2か月程近所の小学校の高等科1年に在学、6月に編入試験を受けて県立の女学校に入学しましたが、標準語しか話さない生意気な生徒だといじめられたのです。
 この様ないやな目にあってから、しばらく忘れていたことを思い出したのです。敗戦後一番中の良かった台湾人のお友達を皆でいじめたことです。日本に帰国が決まった時、彼女に謝らなければと思いながら勇気がなくて謝らずに帰ってきたその後悔がつのるばかりでしたし自分の過ちを謝れないことのつらさがどんなものかよくわかりました。私の母はきびしい人でしたから私はいつも反抗ばかりしていましたので、私のそうした気持ちなんて知るよしもありません。そんなある日、歌の好きな母がいつもの調子はずれで聞きなれない歌詩で素敵なメロデイーを口ずさんでいました。思わず母にその歌はどういう歌なのかきいたのです。珍しく母は仕事の手を休めて次の様な話をしてくれました。
 「私が東京で関東大震災に逢った時聞いた話だけど、あるカトリックの女学校の校舎が地震で崩れ落ちた時、逃げ遅れた生徒を尼さんの先生が助けようとその生徒をかばいながら、自分の息がたえるまでこの歌を歌い続けてなくなったんですって。この生徒は助かったそうよ。讃美歌っていってキリスト教で歌う歌なの」私は電気に打たれたようにびっくりしてしまいました。何故って母の口からキリスト教という言葉をきいたのはこの時がはじめてでしたし、戦争中抱いていたキリスト教のイメージとは似ても似つかないものだったからです。キリスト教が人の為に自分の命を捨てるような勇気を与えてくれる宗教だったとは。
 そう云えば戦争中もサンタクロースが私達姉妹にはプレゼントを持ってきてくれたのが不思議でなりませんでした。それから間もなく女学校にYMCAが出来たのでその集会に参加するようになり、誘われるままに鹿児島教会の門をくぐったのです。そこで母の歌っていた讃美歌が405番の送別の歌であることがわかったのです。この讃美歌をきくことがなければ私とゆるしの神の出会いはなかったと感謝の思いで一杯です。

145号 相川 麗子

145号 - 相川 麗子

145号 - 相川 麗子(1987年7月)

 私を可愛がってくれた祖母は縫いものの手を休めて“・・・ わがつみをあらいて、雪よりも白くしたまえ”(521)と、身振りよろしく、外国人なまりで歌い、「これはデントン先生の歌い方」などと、側にいる私たちを笑わせました。英語の“主われをあいす・・・”(461)も聞かされました。その祖母は明治5年生まれ(115年前)、郷里の結城から、明治女学校を経て同志社に進んだという、当時にしては一寸変わった経歴の人で、デントン先生には、同志社でお世話になったのでした。その後、私が女学校を終わるときに、仏事のしきたりの

 願いが叶って、宇都宮から上京し、寮に入りました。30人たらずの、自治の共同生活で、毎日の夕拝はその日の当番が司会役、私は讃39をよく選びました。“日くれて四方はくらく、わがたまはいとさびし よるべなき身のたよる 主よ ともに宿りませ”、今、5番まで歌いかえしてみて、はじめての寮生活のさびしさからこれを選んだのかとも思いますが、当時の私には、歌詞よりも夜に似合う、静かな曲にひかれていたようでした。

 19年前クリスマス礼拝で受洗を許していただいた時、“みゆるしあらずば ほろぶべきこの身・・・”(511)を胸いっぱいの思い、涙と共に歌わせていただきました。この受洗の準備の頃、私の中のイエス像は、少しも生きていないことが気になり、「それでもよろしいでしょうか」と内藤先生にお尋ねしたことを覚えております。昨年10月5日の礼拝で、272番を歌いました時、何故か鮮やかにイエスのみ姿が迫り、会堂の隅の席で、しみじみと感謝の思いにひたりました。“エマオのみちにて かたれるみ弟子に あらわれたまいし むかしにあわねど もえたついのりに わが主とあうかな”

 「現在は」と問われれば271とお答えします。“いさおなき我を 血をもて贖い イエス招き給う、み許にわれゆく”“つみとがの汚れ 洗うによしなし イエス潔め給う、み許にわれゆく 

 一番から六番まで、どのことば尊くて、慰めをいただきながら歌っております。曲もそれにふさわしく、深く、強く、重くひびいてまいります。

147号 平野 ゆう子

147号 - 平野 ゆう子

147号 - 平野 ゆう子
(1987年11月)


 私は中学高校をミッションスクールで学びました。とは云えクリスチャンホームではありませんでしたから、それまでの生活になかった物に対して馴染めなかったのでしょうか、反抗的でさえありました。一学期に一度、宗教講演があり、方々の教会から牧師さんをお招きし、全校生徒が礼拝堂に集まりお話を聞くのです。高校一年だったと思います。何と仰言る先生でしたかお名前も、又そんな不真面目な学生でしたから、お話の内容も覚えておりませんが、その講演の最後の光景だけが脳裏に焼き付いております。お話の最後に先生は「今から讃美歌を歌います。その間に、このクリスマスに受洗を決意した人は前に出ていらっしゃい。」と仰言り、私達は歌い始めました。一人二人と前に出て行きます。先生のお話とその歌詞に感動したのでしょう。皆涙を流し講壇の下に並びました。でも私は心の中で「こんな感じ易い女学生達に、こんな風に一時的な心の昂揚を利用して受洗を約束させるなんて許せない」と繰り返していました。数年後、鎌倉に越して恩寵教会に通う様になり、2年とたたぬ内に受洗を考えるようになりました。クリスマスも目前のある晩K姉に受洗についての迷いを話しました。いつもじっと考えてからポツポツと考えを述べられるK姉が、この時ばかりは「あなたが選ぶんじゃなくて神様が選んで下さるんだからいいんじゃない」と即座にはっきり答えを出して下さいました。「そうだ、心の中が散らかっていてもイエス様に入って頂こう。それからお掃除をすればいい。」その時私の心に甦ったのが讃美歌240番、あの宗教の講演最後に反抗しながら歌った曲でした。


  とざせる門を 主は叩きて
  答えいかにと 佇みたもう
  長く外門に 立たせまつる
  われらみ民の こころなさよ。


 どんな衝動的とも見える受洗でも決して後悔する事はないと、今は確信しています。あの時前に進み出た方々も、信仰生活を送っていられるでしょう。CSの子供達もいつか心の戸を開いてくれる様祈ります。


  今はいかでか ためらいおらん
  主よ、戸を開く、入らせ給え

159号 林 利夫(雄)?

159号 - 林 利夫

159号 - 林 利夫
(1989年11月)


 自己紹介もかねて、ささやかな追憶を綴ってみたい。
讃美歌といえば「つとめいそしめ 花のうえの きらめく露の 消えぬまに」の歌詞がうかぶ。と同時に、これを歌っていた日曜学校、タクトを振っていた“先生”を憶い出す。
 当時、まだ青年であったであろう先生は絣の着物、袴、高下駄という出立ちで子供達に熱心に神の道を説いていた。その若い奥様がオルガンを弾いていた。昭和4,5年の大阪市郊外浜寺町のことである。
 実は、その日曜学校の開かれていたのは、近所に住む私の叔母の家であった。私は姉達につれられてオルガンの音のする日曜学校に通い出したのである。
 もともと、私の母はよく家でオルガンを弾いていた。母は娘時代上野の音楽学校に通っていたという。しかsh、家が傾いて卒業出来なかったらしい。その心残りもあってか、オルガンの前に座っていた。このような機縁で、私は小学校高学年に達するまで、子供讃美歌を毎日曜日歌い続けていた。

282号 511番「光と闇とが 」佐々木雅子



思い出の讃美歌    511番 「光と闇とが 」
                           佐々木雅子
 1980年ちょうど30年前の5月の10日間、韓国・光州市民の闘いは、日韓連帯の仕事をしていた私にとっても、ハラハラドキドキの10日間でした。報道管制が敷かれる中で、キリスト教の地下ルートだけが闘いの情報を入手出来、毎日の記者会見資料作りに、西早稲田の会館で韓国問題を仕事にしている者たちが動員されたのです.朴大統領射殺後(79年)韓国全土に広がったデモやストライキを抑え込もうと政府は戒厳令を敷き、光州では学生たちのデモに軍が発砲したのをきっかけに,道庁広場に10万とも20万ともいわれる市民が集まってきました。一方戒厳軍、空挺部隊は老人、子ども、妊婦までも銃剣で突き刺し銃殺するという残虐の限りをつくしました。
 光州の人々に連帯するために、光州事件を起こした首謀者として死刑判決を受けた金大中さんの救出のために、日本にいるキリスト者(新・旧・在日大韓合同)の祈祷会も頻繁に行われました。在日大韓教会が選んだ讃美歌はいつも「光と闇とが」でした。私の印象では葬送曲ですが、彼らが歌うとなんと闘いに臨む行進曲に変わったのです。
 一人の在日青年の言葉が忘れられません。「闘わなければ全員皆殺しにされる。妥協しちゃダメだ!」届かないエールでした。
 今、金大中さんは復権し、あの世に旅立ち、日韓交流も日常的になっています。これでよいのだと自らに言い聞かせつつ、5月が巡ってくるたびに光州の犠牲者2千人を思います。

287号 412番「昔 主イエスの」高田 昇

思い出の讃美歌  412番 

「昔 主イエスの」   高田 昇



 終戦後三年が経ち、キリスト教に入信した直後の頃でした。学生生活があと一年を残すだけとなったのですが、私は依然として将来の進路を決しかねていました。そんな時期の或る晩、大学YMCA主催のキリスト教伝道集会が国立教会(当時無牧)でありました。講師は美竹教会浅野順一牧師で演題は忘れましたが、聖書詩編第37篇(文語聖書)讃美歌412番の記憶は鮮明です。



「悪をなすものの故をもて心をなやめ、不義をおこなう者にむかいて嫉みをおこすなかれ」(1節) 

「エホバによりたのみて善をおこなえ、この国にとどまり真実をもて糧とせよ」(3節)


 不条理な社会の現実を前にして、どんな職を選ぶべきか思いあぐねていた私の心に強く響いた聖句でした。「この国」すなわち無秩序のこの世の中にとどまって強く生きよとのみ言葉です。現実逃避の心の弱さと卑怯さを叱咤された思いでした。この時歌われた讃美歌が412番(旧234A)です.音調が思索的で音域が広くない私にとっては歌い易い曲です。それに歌詞が当時の時代背景にぴったりで一番から四番まで容易に暗んじて歌える歌です。


「昔主イエスの播きたまいし

いとも小さきいのちの種」

「歴史の流れ旧きものを

帰らぬ過去に押しやる間に」

「時代の風は吹きたけりて

思想の波は騒ぎたてど」


 敗戦により歴史のながれが一気に変わった時です。産業は破壊され、思想は混迷する戦後の激動の時代でした。つい数年前までは皇国史観で教育され、聖戦を信じ国家の勝利を願っていた私が,奇しくも今ではその戦責を懺悔するクリスチャンになっています。福音の種は時代を超え国境を超え、極東のこの国に伝播して多くの青年をその心をとらえております。このような歴史的状況のもと、み言葉の普遍性と永遠性を詠嘆するには、まことにふさわしい讃美歌であると感じました。歌う毎に「この国にとどまれ」との聖句と夢にあの晩の感動が蘇ってまいります。

289号 私と讃美歌との出会い 林 美子



私と讃美歌との出会い
林 美子


 私がまだ4,5才の頃サラリーマンの父は日曜日には日曜学校の先生。朝早く讃美歌が書かれた(母が筆で書いていた)大きな模造紙の束を抱えて家を出ます。私達三人姉妹は献金の小袋をポケットに父の後について約20分位歩き、林の叔母宅を借りて開かれている日曜学校へ。和室の教室では正面にでんと立てられている讃美歌の掛け軸の横で、父が独特の両手を大きく左右に振るリズムに合わせて、後ろに座る小学生のお兄さんお姉さん達(その中に私の夫もいた)に負けじと「主われを愛す」「つとめいそしめ花の上の」と楽しく歌っていました。小学6年生頃クリスマスに父の特訓で、アルトを歌ったのが私の合唱の初めての経験でした。


 恩寵教会の礼拝で、以前に使用されていた讃美歌にはメロデイーの美しい曲、懐かしい曲が沢山あります。


 1998年4月から讃美歌21に移行した当初は、すぐにはなじめず違和感がありました。会員への普及の為、有志で練習しテープを作ったり致しました。


 聖歌隊の練習では、歌詞を大切に、言葉の内容をどのように表現して行くのかを求められます。練習の度に同じ注意を受けたり、うまく出来て褒められると嬉しくなり、取り付き難い曲も好きになってきます。


 秋の明治学院での教区音楽祭には滝口亮介兄による編曲、指揮の讃美歌も独特の指導に乗せられ、何となく上手になった気分で楽しく歌ってきました。


 私の好きな讃美歌の中で特に印象に残っているのは「讃美歌21-226番 輝く日を仰ぐとき」です。以前横須賀文化会館での伝道集会に、重度身体障害者のレーナ・マリアさんが透き通るような美しい声で歌われたのが、今も耳に残っています。


 「讃美歌21-303番 丘の上の主の十字架」、「讃美歌Ⅱ-192番 シャロンの花、26番 ちいさなかごに花をいれ」も美しいメロデイーで歌い続けたい曲です。


 これからも礼拝で皆様と共に讃美を続けられますようにと、心から願っています。

290号  賛美歌と私   野村利孝

 賛美歌と私   野村利孝


 私が賛美歌についての認識を改めたのは、一九八一年五月三一日に現在の教会堂の起工式が行われ、同年一二月一五日にパイプオルガンが設置された頃であった。当時会堂建設のために四〇〇〇万円の資金が必要で、同時にパイプオルガンを購入するのは資金不足の折、かなり論争があり、私も反対であった。しかし、「礼拝と讃美と祈り」とにパイプオルガンは欠くことのできない存在であるとのパイプオルガン委員会(すでに六年越しの委員会)の熱心な説明を受け、パイプオルガンの受け入れと共に改めて、賛美歌についての認識を持ったのであった。パイプオルガンの設置も、まことに良かったと思っている。


 賛美歌は自分で歌えるものは何番でも好きである。とにかく中学一年生の頃から六〇年以上も歌ってきたのだから何かの折りにつけて口ずさむ。故吉田吉彦兄がご友人と、知っている賛美歌の数を競ったとのエピソードを奥様から聞いたことがあるが、メロディーだけなら私も負けない。




私が勤めたミッションスクールでは原則として月に一回、礼拝説教が割り当てられている。賛美歌は自分で選択し、前もって音楽教師に頼んでおく。およそ四〇年間の説教では教会暦にのっとって、イースターには四九六番(うるわしのしらゆり)、母の日には五一〇番(まぼろしのかげをおいて)、収穫感謝祭には五〇四番(実れる田の面はみわたすかぎり)、アドベントは九四番(久しく待ちにし)、クリスマスには一〇六番(あらののはてに)など、そして、天城、御殿場、清里などでの修養会では三〇番(あさかぜしずかにふきて)、卒業式での四〇五番(かみともにいまして)など、それ以外に多く歌ったのは五〇〇番代で、五一四番、五一五番、五一七番、五二五番、五三六番など。なかでも五一五番(十字架の血に清めぬれば)の第四節「ほむべきかなわが主のあい ああほむべきかなわが主のあい」が特に好きで、高校生七,八百人と礼拝堂一杯、大きな声で讃美すると身内がふるえる思いであった。


 一二二番(みどりもふかき若葉のさと)は亡き子に、ここから名を付けたほど好きなのに今もって、歌うと声が出ない。


 学生の頃から通して好きなのは、二九八番(やすかれわがこころよ)である。帝政ロシアの圧制からの独立運動を鼓舞するために作られたこの曲は、現在も「フィンランド賛歌」と名付けられフィンランドでは国歌に次ぐ第二の愛国歌として歌われているそうだ。この賛美歌は第四聖日に「癒しをもとめる祈り」の時に歌われるが、私にとっても心安らぐ賛美歌の一つである。 


 これまで挙げた賛美歌の数々はむろん、旧賛美歌の番号である。とにかく、六〇年にわたって、旧賛美歌で神を讃美してきたのだから、賛美歌21になじめるはずがない。したがって、日曜礼拝では小さな声で、オルガンの曲についていくことがせいぜいなのだが、旧の賛美歌の曲がたまに歌われても、歌詞の歯切れの悪さに、旧賛美歌の歌詞で歌ってしまったりする。そうであっても、せめて、旧賛美歌を礼拝ごとに一つは入れてほしい。


 近頃、旧賛美歌を歌うと涙ぐむ思いになってしまう。

291号 「賛美歌に心ひかれて」 山本律子



 「賛美歌に心ひかれて」 山本律子


私が小学校5年生になった1941年(昭和16年)(旧関東州、旅順市、現—中国遼寧省)小学校は国民学校と改称され、鬼畜米英一色、英語は全廃となりました。そしてこの年の12月8日、日本は太平洋戦争へと突入していったのでした。音楽の時間も音階のドレミファがハニホヘトイロハに変わり、先生がピアノをポンと弾かれると、ハホト、ロニト、ハヘイ、などと元気良く声を合わせた皇国少年少女達の一人でした。敵性音楽はすべて御法度、誰がこんな指示をしたのでしょう。二度とこの様な時代にならないようにと祈るばかりです。


 前回恩寵月報290号に野村利孝さんが、「賛美歌は自分で歌えるものは何番でも好きである」と書いていらして思わず「わたしも」と声をあげてしまいました。
 毎週礼拝の中で歌われる賛美歌、教会歴に合わせて牧師、音楽委員会の方々が準備してくださる多くの賛美歌には新しい曲もありますが、やはり耳慣れた賛美歌のときは皆さんの歌声も一段と弾んで聞こえるように感じます。


 60年以上も前、1949年頃東京の女専の寮にいた時、友人と教会巡りをしたことがありました。二人共キリスト教には無縁の家庭に育った者どうしです。まず有名な教会にと赤坂霊南坂教会におそるおそる〜足を踏みいれたときのドキドキ、ハラハラがいまも記憶に残っています。一段高い所から響いてくる聖歌隊のコーラスのハーモニーが心にしみました。学校と寮が板橋にあり、もう少し近い所は?と次は弓町本郷教会の礼拝には何回か出席してみました。その後、卒業、就職などで静岡に帰りそのままになってしまいましたが、礼拝での賛美歌がいくつか心に残り、キリスト教に対しては何か憧れのようなものを感じていました。


 夫、山本敬と出会った頃、賛美歌集をみながら私が何気なく「うるわしの白百合〜(1—496番)」と口ずさんでいると、「その賛美歌よく知っているネ〜」と言いながら、二人でページをめくりつつ、あれこれ知っている曲を歌ったのも懐かしい思い出です。「僕の親父さん、牧師なんだよ〜」との言葉と共に……


 ある時、義父、山本弥一郎が入浴中、お風呂の中から何か声が聞こえます。なんだろう?論語の言葉でもなし、メロディーでもなし…。耳を澄ましてよく聞いてみると「雪よりしろく〜、……したまえ〜」。 あっ!賛美歌だ〜!義父の愛唱歌の1−521番でした。今、その義父の、孫、曾孫の中には次々と音楽を学び励んでいるものが続いています。これは大正時代に伝道師となり、教会で礼拝のオルガンも弾いていた義母のDNAによるものも多分に受け継がれているのでは、と思います。夫々の日々の成長の響きが天国にも聞こえますか?


 今、しみじみ思うこと。76年も前に(5才の頃、旅順で)私の父の同僚であったクリスチャンの御夫妻にたった一度だけ連れて行って頂いた旅順キリスト教会の日曜学校のクリスマス祝会。その頃牧会していらしたのは若き日の貴山栄牧師。女専時代、東京で友人と行った弓町本郷教会の当時の牧師が田崎健作先生でした。
 すべて後になって知ることになるのですが、お二人は義父の親しい友人であり、特に貴山先生とは義父は生涯の親友でした。お互いの息子たちの結婚式の司式は必ず互いにしよう、との約束もあったとのことで、私達の結婚式は目黒の新栄教会で実現しました。そして、私は翌年受洗へと導かれたのでした。


 偶然と思えることがすべて必然であったこと、私がイエス•キリストのことを何も知らない中にも、ずっと一方的に心の扉を叩き続けて下さった、主の深い愛の導きに感謝するばかりです。


 恩寵教会に転会させていただいて42年、この間教会でなければ出会うことのなかった良き信仰の友との豊かな交わりがあり、また大勢の同労の友を主の御許へ送りました。「永眠者記念礼拝」で読み上げられる一人一人のお名前を聞きながら、共に礼拝を守り賛美の声を合わせた日々が蘇ってきます。やがて地上の日常が終わったとき、神の御許で待っていてくれる人と再会できる喜びの信仰を与えられている幸せを思い、主の御名を心から称えたいと思います。

293号 母の日 長井喜一郎

母の日  長井喜一郎


ははぎみに まさる
     ともや 世にある
いのちの はるにも
     おいの あきにも
やさしく いたわり
     はぐくみ たもう
ははぎみ まさる
     ともや 世にある


ははぎみに まさる
     ともや 世にある
えまえも なみだも
     ともにわかちて  
ゆうべの 祈りに
     心を あわす  
ははぎみに まさる
     ともや 世にある


 曲は現在の讃美歌四九三番です。


  戦前 わたくしの少年の頃に歌われていた、馴染み深く、そらで歌える数少ない、母の日の讃美歌です。少しばかり母について書いてみたいと思います。


  母は一九四二年五月わたくしと妹を残し、四二歳結核で亡くなりました。母は山梨で生まれ、小学校卒業後上京し、製薬会社で女子工員として働き、父と出会い結婚しました。 以来八百屋、米屋(精米業)、プラスチック成型業と、戦争時代にほんろうされ、父と共に大変苦労しました。わたくしは 八百屋の時代に生まれ体が非常に弱く、病院に日参していたそうです。当時を知る人たちにその有様を聞き、申し訳ないと思っています。


  中国に風樹の嘆きということわざが有ります。「風静かならんと欲すれども風止まず」孝行したい時に親はいないの意味です。このことわざを切実に感じます。

294号 思い出の讃美歌  中島道子

思い出の讃美歌      中島道子


 時は思い切って昔々にさかのぼります。
今から六十数年前、私は旧制女学校を卒業したばかり。我が家は米軍の空襲により跡形もなく丸焼けになりました。荷物疎開していた奥多摩からトラックに荷物と共に家族六人が乗り、大変な思いをして逗子に住むことになりました。
空襲を受けていない鎌倉や逗子は全く別世界の感がありました。
でも戦争は終わったのです!!。そんな折、兄が友人から青い表紙の英語讃美歌を頂いたのです。私は幸いにも学校でアメリカ人の先生から発音の基礎を習っていました。そして音楽の授業でも和音をドイツ語で教えていただきました。
何の娯楽も無く、いつも空腹で楽しみのない時その讃美歌は宝物になりました。
兄は音叉も手に入れました。これで兄弟四人のコーラスの完成です。その時一番好きだった歌!!。 そうです。「Abide with me」現在の日本語讃美歌では
218番「日暮れて闇はせまり」です。


 今でもこの曲を聞くと色々の思い出が湧き出し切なくなります。兄弟二人も天国に召され、妹に話してもあまり感動してくれません。書店で英語讃美歌を置いているかと聞きましたが無く、幸いにも阿部さんが持っていらしてコピーして下さいました。私は嬉しくて嬉しくてたまりません。本当に恩寵教会員でよかった聖歌隊に入ってよかった!!。フェリスに入ってよかった!!と切りがありません。すべて神様のお導きだったと痛感しています。


 阿部さんがコピーして下さった「Abide with me」を載せます。
皆様もご一緒に歌いましょう。

295号  思い出の讃美歌  原節子

思い出の讃美歌 原節子


 私と讃美歌の出会いは1943年東京のミッションスクール、女子学院に入学した時から。素敵なチャペルに毎朝全校生徒が集まる礼拝で始まります。そこで歌う讃美歌が美しく楽しくてそれが5年後の洗礼につながった様です。


 二年生になると勤労動員で三田の簡易保険局へ通い学校には週一回位しか通えませんでしたが、保険局のビルの屋上で朝の礼拝を持ち、伴奏もなしで歌った讃美歌217(あまつましみず)、310(しずけき祈り)、404(山路こえて)等、今でも口ずさんでいます。


 三年生になると空襲もはげしく5月24日の東京大空襲で、チャペルと共に全校舎焼失、担任の先生は殉職なさり、焼跡の校庭で泣きながら歌った405(神ともにまして)は忘れられません。


 この曲は其の後、葬儀、お別れ会で何回も歌いましたが、父の転勤先の岡山信愛教会で受洗し青年会で青春を送り、50年に結婚の為東京に帰る時、岡山駅のホームで青年会の人達が(神と共にまして)と大合唱し汽車がホームを離れるまで歌って下さった事も深く心に残る思い出です。


68年間の礼拝、教会のお集り、聖歌隊で歌った讃美歌はその時々で心に響き慰められ豊かな気持になりました。感謝です。
私の好きな讃美歌の504(主よみてもて)はウェーバーの魔弾の射手の曲で、77才で受洗した主人が唯一歌える讃美歌でした。


もう一曲好きな463番
1.

わが行くみち いついかに
なるべきかな つゆ知らねど
主はみこころ なしたまわん
そなえたもう 主のみちを
ふみて行かん ひとすじに


2.

わが心よ 強くあれ
ひとはかわり 世はうつれど
主はみこころ なしたまわん


私の信仰生活を導き、癒してくれる讃美歌、これからも歌い続けたいと思います。

2 96号 思い出の讃美歌/好きな讃美歌 八木健



思い出の讃美歌/好きな讃美歌 八木健


小学校5年生のクリスマスに、通っていた平和学園で初めて習った英語の讃美
歌が『Silent Night,Holy Night』(きよしこのよる)
でした。逗子の祖父母の家に行った時、静かな夜に歌っていたら祖母イネさんが大変褒めてくれました。祖母と二人だけの大切な思い出です。
Silent night,holy night,all is calm,
all is bright,・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
Sleep in heavenly peace.
<54年版 109番>


17~20歳の頃、茅ヶ崎教会の青年部に行っていました。青年部が中心となっていた聖歌隊で、クリスマスの祝会に歌ったヘンデルの『ハレルヤコーラス』は、讃美歌ではありませんが今でも楽しい時に口ずさむ程の思い出の曲です。木下芳次牧師に初めて出会った頃で、そのカリスマ的な存在感と優しさが
今でも懐かしく目に浮かびます。多くの青年部での交わりは、みんなじいさんばあさんになってしまいましたが、今も深く続き、私の両親が今茅ヶ崎教会で
お世話になっています。本当に不思議な出会いです。


20代前半は、“インターナショナル”を歌いながらデモに参加する紛争のただ
中にいました。金属資源を求める鉱山会社に入り、20代後半は兵庫県の生野
町の生野鉱山で企業人に仕立て上げられる為に徹底して鍛えられました。
鉱山を守るのは、山神社の神社の神様でした。会社の行事は全てこの山神社で
行われました。
約10年間教会に遠ざかっていた私が妻となる女性と婚約してから、鎌倉恩寵
教会に吸い寄せられるように、この頃東京本社に戻っていた吉祥寺の独身寮
から礼拝に出るようになりました。毎週語られる内藤牧師のこれでもかこれでもかと胸に迫ってくる説教の言葉に、“新しい家庭を築く土台はこれしかない”と勇気付けられて、ついに信仰告白を決断しました。その後押しをしてくれたのが、岳父山本敬との出会いでもあり、思い出の讃美歌54年版の270番でした。
 信仰こそ旅路をみちびく杖 よわきを強むるちからなれや
 こころ勇ましく旅を続けゆかん この世の危うき恐るべしや
<54年版 270番の1番>


悲しみの中で、幾度歌ったでしょうか?54年版の405番、讃美歌21の
465番。そんな中で強烈な印象に残るのは、内藤牧師とのこの世での突然の
別れです。すべての式が終わろうとしている時に、この讃美歌を誰もが涙を
流しながら歌っていました。その時、私の横で一人の青年が流れる涙を拭おうともしないで、この讃美歌を歌っていました。多分、子供の頃から教会に通っていた青年だろうなと思いながら・・・。


 かみともにいまして ゆく道をまもり
 あめの御糧もて ちからをあたえませ
 また会う日まで また会う日まで
 かみのまもり 汝が身を離れざれ
<54年版 405番>


好きな讃美歌となると、欲張りな私には選び出すのが大変です。
日本人が作詞(別府信夫)、作曲(蒔田尚美)した讃美歌21の57番。
4番の歌詞 夕ぐれのエマオへの道で 弟子たちに告げられた
       いのちのみことばを わたしにも聞かせてください
この情景を描いた絵画やルカによる福音書の24章の13節から35節まで
が目に浮かんできます。夕暮れ迫るエマオへの道を歩いている二人の弟子に、復活のイエス自身が近付いて来て、一緒に歩かれ、話し掛けられてきました。でも、目も心も遮られている弟子たちは、イエスの存在に気が付きません。
泊まる家に入り、一緒に食事を共にします。イエスが賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになったときに、二人の目が開いてイエスだと分かりますが、その姿は見えなくなっていました。目の前にいるイエスに気が付かない弟子たちの姿には、信仰鈍い自分を見ているような気がします。
<21の57番、Ⅲ編の5番>


旋律もさることながら、歌詞が好きな讃美歌は54年版の262番です。
(21では、300番になりますが)
1番=> 十字架のもとぞ いとやすけき 神の義と愛のあえるところ
コロサイの信徒への手紙1章の15~23節でパウロが語っている『御子の死によってまでも、私たちを救ってくださる神の愛と喜びに溢れた』歌詞です。
『揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、福音の希望から離れてはならない』と
パウロは人々に述べ伝えています。
2番=>妙にもとうとき神の愛よ 底いも知られぬひとの罪よ
 ひとの罪は底いも知られぬほど深く、それに対して神の愛は妙にも貴いと歌っています。
3番=>この世のものみな消ゆるときも くすしく輝くそのひかりを。
この讃美歌を歌うとき、何故か讃美歌21の78番が浮かんできます。
『わがすべて 主にゆだね  わが心きよめられ 深き罪 あがなわる
   ただ主こそわが力 祈りつつ 求めゆかん』
絶望的な暗闇にあっても神は、わたしたちの心の内から輝いて、希望の光と
勇気を与えてくださいます。


この讃美歌も54年版の歌詞の方が好きです。333番(=>21では529番)
 どんな時でも、“主よ、われをば とらえたまえ”と叫んでいたくなる。
パウロがフィリピの人々に宛てた手紙で、『わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。』と言っているように、“とらえたまえ”とすべてを委ねて神に祈る。赤子のようにすべてを主に任せられるとき、“さらばわが霊は 解き放たれる”のだろうか?自らの恨みに打ち勝つために、捨て切れない“わがやいば”を“くだきたまえ”と祈る。
そして主は、『神が、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。』
『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と、わたしたちが永遠の安きを得るために、約束されています。


讃美歌21の454番は、1621~81年までドイツに生きたゲオルグ・
ノィマルクによって作詞・作曲された私の最も好きな讃美歌です。
“愛する神にのみ より頼むものは”、『岩の上に自分の家を建てた賢い
人に似ている』とイエスは語られました。
“悩み苦しみ、痛み嘆きを 誰が知り 誰がなぐさめてくれるのか?”、『あなたの重荷を主にゆだねよ 主はあなたを支えてくださる』『神こそ わたしの
岩、わたしの救い、砦の塔。主は従う者を支え 決して動揺しないように計らってくださる』、“選ばれたものに ふさわしく生きよう み心を信じ み旨に
従おう“と歌い上げて行きます。
『主御自身があなたに先立って行き、主御自身があなたと共におられる。主は
あなたを見放すことも、見捨てることもない。』、『わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。どんな被造物も、
わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない』と“わたしたちの主は 正義の礎 歌と祈りささげ、
主の道を歩もう“と歌い上げています。
                         八木 健

297号 好きな賛美歌  山口みどり

好きな賛美歌   山口みどり


 昔、内藤協牧師から「賛美歌の歌詞の内容の高さは、時に説教がかなわないと思うことがある・・・」と伺ったことがあります。


 賛美歌はどれを選んでも心に響く何かをもっていて、その時の自分の心の状態により全く違った感想が浮かんだりします。礼拝説教に対するのと同じかもしれません。


 好きな賛美歌を本気で示すことは、自分の心を裸にするようで私にとってかなり厳しく、少し恥ずかしい。そこで、メロディーが美しい、ハーモニーが美しいという点から選ばせてもらうことにします。


 1954年版賛美歌の中には、子供の頃から慣れ親しんだ曲が多く、決めるのがむつかしいけれど360番「疲れしこころをなぐさむる愛よ」、361番「主にありてぞわれはいくる」等は、メロディー、ハーモニー共に美しいと思います。


 賛美歌21の中では、120番「主はわが飼い主」、132番「涸れた谷間に野の鹿が」、二曲とも詩篇歌で歌詞も美しい。クリスマスが近くなってきましたたが、271番「喜びはむねにみちあふれる」が気に入っています。途中「神の一人子が、この世に生まれて・・・」と歌う時のハーモニーの動きは歌詞の内容を支えていてすばらしい。


 オルガニストとしては、バッハをはじめ何人もの作曲家がオルガン前奏曲に編曲しているドイツコラールは皆大好きです。例えば37番「いと高き神に栄えあれ」、51番「愛するイエスよ」、63番「天にいます父よ」、230番「起きよと呼ぶ声」、311番「血しおしたたる」、等々ときりがありません。


 賛美歌は、礼拝の中で会衆と共に歌う時、その内容が一番心に響いてくると私は思っています。そして時にはオルガニストとしてその支えをさせていただけることに、心から感謝しています。

297号 思い出の愛唱さんび歌 松本とみ

思い出の愛唱さんび歌    松本とみ


 つとめいそしめ花のうえのきらめく星の消えぬまに   (旧368)


昭和二十年八月 私は二十才になったばかりでした。
悲惨な戦争が終わり重苦しかった胸の内に、ぽっかりと晴れた空が見えたような気分を覚えています。その翌年足利と群馬桐生の境、小俣に東京自由学園― 羽仁もと子さんの「思想しつゝ、生活しつゝ、祈りつゝ」を道しるべに友の会会員だったクリスチャンの大川波子先生が(今の私塾のような)勤労奉仕で勉強も出来なかった娘達に、生活の基本を教えたいとの熱意で小俣女子生活学校を開かれました。私は婦人の友のくらしぶりにあこがれていましたので早速に生徒になりました。クリスチャンであり地方の素封家の大川家の広い邸宅を開放され、寄宿まで用意され疎開していた人達も入れて二十人程の集まりが、山裾の緑深く水清い里で始まりました。そして授業の一番初めに教えてもらい口にしたのが先の368でした。


 私塾学校でしたが朝は讃美歌に始まり国語、美術、宗教、音楽、料理。宗教はマタイ伝を伝道師の方から聞きました。学校は自由な空気の中で、教えてくださった先生方は大川先生の幅広い交流の中から選ばれた専門人達でした。


 今当時の事と共に時折唇にのぼる讃美歌は


うるわしの白百合 ささやきぬ昔を イエス君の墓より いでましし昔を
                           (旧496)
まぼろしの影を追いて うき世にさまよい うつろう花に さそわれゆく  
               汝が身のはかなさ    (旧510)
しづけき河のきしべを すぎゆくときにも 
           うきなやみの 荒海を わたりゆくおりにも
                           (旧520)
わがよろこび わがのぞみ わがいのちの主よ
       ひるたたえ よるうたいて なおたりぬを思う(旧 527)


むくいをのぞまで ひとにあたえよ 
         こは主のかしこき みむねならずや  (旧 536)


 私は結婚のため一年程でしたが、この学校は二年で終わりその後は小俣幼児生活団として現在も地もとの子ども達の教育に力を注いでいるとのことです。あれから六十有余年、思いがけず恩寵教会の会員となった私は、やはり熱心に導いて下さった小俣の先生方との絆が讃美歌で繋がっているのかと日々感謝と反省の中で最後の時を思うこの頃です。

298号 思い出の讃美歌  神谷和子

思い出の讃美歌  神谷和子


 1996年の春、茅ヶ崎教会と香川教会の有志による聖地旅行に参加して、10日余りイスラエルの旅をしました。エルサレムでの最後の日、この地方では珍しく雨が降りました。朝ホテルの窓一面の水滴を見た時は、乾いた土地を巡ってきた身に、ほっとした安らぎを覚え、嬉しかったのを覚えています。イスラエルでは雨は祝福と言う意味がある事を後で知りました。


 その日はエレンカレムの訪問教会を訪ねる予定でした。恐らく使うことはないであろうと思いながら持参した雨具を荷物の底から引っ張り出して着用。糸杉の繁る小高い山を登りびしょ濡れになって教会へ辿り着きました。
この天候の中、現れた東洋人のグループを堂守はびっくりした表情で招き入れてくれました。ここは(ルカ1•39〜45)マリアがエリザベトを訪ねたことを記念して建てられた美しい教会で、比較的新しく音響効果がすぐれているのが有名とか。見学のあとで讃美歌を歌うことになりました。まず初めは迷わずに木下芳次先生のお好きな(旧)267番です


神はわがやぐら わがつよき盾
苦しめるときの 近きたすけぞ
おのが力おのが知恵を たのみとせる
陰府(よみ)の長(おさ)も などおそるべき


 その若き日、この歌に見送られて戦場へと征かれた先生の心中はいかばかりであったことでしょう。思いを馳せながら次々と外の雨音に負けじとばかり歌ったことが懐かしく思い出されます。ホテルに帰って濡れた靴をドライヤーで乾かし夕方の送別会に臨みました。そこで幕屋教会員というガイドのKさんが最後に「何卒、イスラエルのために祈って下さい」と結んだ言葉が年月を経た今も折に触れ重く、思い出されてなりません。

299号 私の讃美歌 田中伸子



私の讃美歌   田中伸子 (1974年版讃美歌・讃美歌第二編による)
自分を振り返って、それぞれの年代で歌った讃美歌の思い出や歌うと思い出す人々のことを書きたいと思います。




讃美歌の初めての思い出は、小学生のとき日曜学校で歌った
「主われをあいす」です。歌詞の意味もよく分からないままメロディーに惹きつけられて歌っていたことを思いだします。幼稚園の教諭もしていた日曜学校の先生が、聖書を題材とした紙芝居、朗読をして下さいました。引き込まれるように聞きました。




中高生の頃は学校で毎朝礼拝がありました。
166番「イエス君は」(英語の時間に教えて頂きました)、
288番「たえなる道しるべ」、390番「やさしく友をむかえよ」、
452番「ただしく清くあらまし」、496番「うるわしの白百合」。
讃美歌と結びついて、鮮明に残っている記憶があります。礼拝では生徒会の奉仕部が奉仕活動を呼びかけていました。奉仕活動として乳児院に行きました。強い粉ミルクと赤ちゃんの匂い、そして乳児が頭をゴツンゴツンと床にぶつける音、これだけは強烈に残っています。
この学生時代に通った教会では学校と違い第二讃美歌も歌いました。メロディーと詩がとても美しく新鮮に、またドラマチックに感じられました。1番「心を高くあげよう」、177番「あなたも見ていたのか」、184番「神はひとり子を」、195番「キリストにはかえられません」




社会人になってからの思い出として第一讃美歌2曲があります。
312番「いつくしみ深き」。
喜びの時も悲しみの時も歌うことの多い讃美歌です。この歌は義父の亡くなったとき歌いました。私は早く父を亡くしていたので父親像を描けませんでした。田中と知り合い初めて「父親」と接しました。出会えて幸せだったと思います。母親とは違う物の見方、考え方をするのだと思いました。六人の子供を持った父は思いやりの深い人でした。容易な道を歩んできた人ではありませんでしたが、周りに困難な状況の人がいると黙って手助けする人でした。
494番「我が行くみち」。
祖母のよく歌った讃美歌です。祖母の闊達な生き方、明快な行動力は小さい時から植えつけられた幼子のような信仰によって支えられていたのだと思います。
さて、私自身の讃美歌ベスト3が決まるまで、もうしばらく時間が残されていますように。

301号  わたしの好きな賛美歌  岡村 満里

わたしの好きな賛美歌 岡村 満里


 昨夜の眠りを妨げたあの雨音はどこへ行ってしまったのでしょう、窓を開けると庭の木々は雫をしたたらせながら、朝日の中、その緑はいっそう鮮やかです。「あさかぜしずかにふきて、小鳥もめさむるとき、・・・・(讃30)」、若い日の夏季修養会の朝の礼拝を想います。そして一日の務めを終えたとき口ずさむのは「日暮れて四方はくらく わがたまはいとさびし、・・・(讃39)」でした。私は札幌のミッションスクールで学生時代を過ごしました。初夏、女学生たちは三々五々「緑も深き若葉のさと、ナザレの村よ、汝がちまたを・・・・(讃122)」を嬉々として歌いながら集り、大合唱になりました。「(讃216)あぁうるわしきシオンのあさ、ひかりぞ照りそめける。・・・」、「(讃217)あまつましみず ながれきて・・・」、詞も曲も美しく私たちの大好きな賛美歌でした。たくさんある賛美歌の中でいつも私の心の中にあるのは「(讃308)いのりは口より いでこずとも、まことの思いの ひらめくなり、いのりは心の 底にひそみ、隠(かく)るるほのおの 燃え立つなり。」です。祈りたい、けれどなかなか言葉がでない、そんな時いつも心の中でこの賛美歌をうたいます。好きな賛美歌は沢山あって選ぶのは難しいです。「讃美歌21」にも分りやすい詞で良い曲がありますが、口を付いてでてくるのは(旧)讃美歌なんです。


 岡村さんからお好きな賛美歌をうかがいながら、賛美歌にまつわる話を聞かせていただきました。(文責 朝倉)

283号 愛のわざは小さくても 荒井かおり

283号 愛のわざは小さくても(讃美歌第二編 26番『ちいさなかごに』)荒井かおり


この讃美歌との出会いは、高校生のときでした。聖公会の信徒であった私は、教会では『古今聖歌集』を使っており、高校でミッション•スクールに入学するまで讃美歌を手にすることがありませんでした。讃美歌と古今聖歌集の曲は、メロディーが微妙に違ったり、メロディーは同じでも歌詞が違ったりしているため、朝の礼拝で讃美歌を歌う度に馴染んでいるメロディーや歌詞と間違えないように気をつけなければなりません。入学当初は讃美歌に対して違和感を覚え、随分緊張しながら歌っていたように思います。/そんな思いでいた私が、初めて「この讃美歌、素敵だな」と思えたのが、この第二編26番でした。「花の日」によく歌われる讃美歌ですが、聖公会には「花の日」を祝う習慣がないのでこの曲は全く知りませんでした。学校の「花の日」礼拝のときに歌いながら、メロディーの可愛らしさと歌詞の優しさに、朝の礼拝での緊張(?)が解け、言葉が自然に心に染みとおっていくのを感じました。
あいのわざはちいさくても、
かみのみ手がはたらいて、
なやみのおおい世のひとを
あかるくきよくするでしょう。
当時も今も、人前で目立つことをするのは苦手で、私のような小さな器の者が、人の役に立ったり喜ばれたりすることがあるのかどうか、あまり自信はありません。四代目クリスチャンで、幼児洗礼を受け、小学校4年生のときに堅信礼を受けた私は、成人してから自分の意志で受洗した人のように深く物事を考えて信仰生活を始めた訳ではありませんので、情熱をもって声高に信仰とは何かを語り宣教に励むというタイプでもありません。けれども、教会の内であれ外であれ、何かできることがあれば喜んで求めに応じたいと思っています。子どもたちやお年寄りを対象とする本の紹介やお話会、障害児教育のための勉強会、病気の人や獄中の人の訪問、寿の奉仕など、どれも本当に小さな愛の業に過ぎませんが、私程度の者にもできる神さまに与えられた働きを、奢ることなく平常心でこなしていくことができればと思っています。

284号 思い出の讃美歌  人見輝子

284号 思い出の讃美歌  人見 輝子


536番 「むくいを のぞまで 」


 ある時、母が太ももに熱湯をかけ、大変ひどい「やけど」をしてしまいました。母はその頃85歳で一人暮らしをして居りました。
丁度母を訪ねた親戚の者から勧めても、医者には行かないからと私のところに連絡があり、私は急ぎ中央線のおくの「武蔵小金井」に住んでいる母の所へ行きました。母は特に痛がる様子もなく「大丈夫よ」と言っていましたが、すぐに医者へ連れて行きました。医者は入院することを勧め、すぐに小平の病院へ連絡を取って下さいました。
 翌日入院することになりましたが、入院した時はまだ部屋が空いていなくて、とりあえず「待機している部屋」に寝かされました。わりと広い部屋でカーテンで仕切られていました。カーテンで仕切られているお隣には、ご病人とお付き添いの方がいらっしゃるようでした。
 翌日娘と一緒に病院へ行くと母は殊のほか元気で、娘の見舞いをとても喜んで、折角来てくれたのだから歌を歌ってあげましょうと讃美歌「むくいをのぞまで・・」を大きな声で歌いだしました。私はカーテンの向こうにいらっしゃるお隣の方にご迷惑ではないかとハラハラしましたが、止めるわけにもいかず聴いておりました。一番二番と歌詞も間違わず音程もしっかりと歌いました。
歌い終わった時思いがけずお隣から拍手が聞こえました。私が「おやかましくてすみません。病人が歌うもので一寸止められなくて・・・」とお詫びしますとお隣の方は「お見舞いの方ではなくご病人が歌われたのですか? 歌手をしていらしたのですか?」と仰り私はびっくり致しました。
 母はその後その病院には一週間ほどの入院で清瀬の救世軍の病院へ転院しました。そしてその後四カ月程で天に召されました。
 私が母の歌声を聴いたのはこれが最後でした。

284号 思い出の讃美歌 松本繁雄

284号 思い出の讃美歌 松本繁雄


インドネシア教会での讃美歌の思い出


私はインドネシアに19867年から1972年まで、味の素合弁会社の社長として5年間滞在した。その間、ジャカルタのプロテスタント教会に所属し、日曜礼拝に通った。そこには、米国から3人の宣教師が派遣されて牧会し、礼拝者は欧米人、中国人、インド人、インドネシア人(クリスチャン改宗者)、日本人(2-3名)等多民族から成り立っている。ある意味では、ジャカルタの社会のコスモポリタン性を象徴している。説教は英語、讃美歌も英語。従って、そこで、謳われた讃美歌も目新しい曲目はないが、特によく謳われた曲目として記憶に残っているのは、「主イェスにおいては」(日本語讃美歌「主イエスにおいては」560番)でした。勿論英語の歌詞ですが、参考までに英語と日本語を下記します


1 主イェスにおいては世界の民、東と西とのへだてはない。
2 主イエスの救いは力強く、南と北とを結び合わす。
3 人を差別せず心ひらき、ひとしくみ神のみ前に立とう。
4 主イェスにおいては世界の民、心をかよわせ一つになる。
(In Christ there is no East or West, In Him no South or West;
But one great fellowship of love Throughout the whole wide earth
In Him shall true hearts everywhere Their high communion find;
His service is the golden cord Close binding all mankind.
Join hands then, brothers of faith, whate’er your race may be;
Who serves my Father as a son is surely kin to me.
In Christ now meet both East and West; In Him meet South and North.
All Christly souls are one in Him Throughout the whole wide earth.)


この讃美歌は、他民族社会インドネシアの祈りであると思います。同国の平和と神様の祝福を心から願う次第です。
                                  (松本繁雄)

285号 讃美歌「主よみ手もて」 登内鍈二

285号 讃美歌「主よみ手もて」 登内鍈二




 十月三日の主日礼拝での讃美歌の中に、504番「主よ、み手もて」があった。
歌い始めるとすぐに涙が出てきて、止まらなかった。もう十年以上も前になるが、恩寵教会に通い始めた頃、どの讃美歌も、その歌詞の一言ひとことに感動し、心癒され、うれし涙が溢れて、歌おうとしても声が出なかった。
 「主よみ手もて」。近年の自分の行動、その結果目の前にある現実、さらに、そこまで歩んで来た自分の行動とその結果、を振り返ってみると、「ちからをたのみ、知恵にたよる道を歩んだようでも(2番)、結局は、よろこびのさかずき、かなしみのさかずきをたくさん飲みながら(3番)、わが主に導かれて歩んできたことがよくわかる(1番)。
 ある人が人生を振り返って、神様に言ったそうだ。「神様はこれまでいつも私と共に歩いてきてくださったので、足跡が二つありました。でも私がつらかったとき、悲しかったとき、足跡は一つしかありませんでした。どうしてそういうときに神様は私と一緒に歩いてくださらなかったのですか」と。すると神様は、「そのようなとき、私はあなたを背負って歩いていたんだよ、だから足跡が一つなんだよ」とお答えになった。
 これからも自分としては、相変わらず日々、「ちからをたのみ、知恵にたよる」のであろうが、あとで振り返ってみれば、けわしい道も、楽しい道も神様の道案内通りに、歩んでいるのであろう。
 どの讃美歌も、歌詞の一言ひとことに、心底納得するし、素晴らしいと思う。
 「主よ、み手もて」。4番は、どこかの国のリーダーにも歌わせたい。


 「この世を主に ささげまつり   かみのくにと なすためには
  せめもはじも 死もほろびも   何かはあらん 主にまかせて」

285号 「ここに私はいます」三股奈津子

563「ここに私はいます」三股奈津子


「好きな讃美歌は?」と聞かれると、慣れ親しんできた旧讃美歌からでしたら、いくらでも思いつきます。体に染み付いたメロディーは心地よく響き、少し難しい歌詞には、昔から綴られてきた思いを感じます。「備えたもう主の道を、踏みて行かん一筋に。」「御恵みを身に受くれば、我らも今は強し。」「妙なる御恵み日に日に受けつつ、御跡を行くこそ、こよなき幸なれ。」何十年も前から、変わらない思いがあること、変わらない言葉があることは、本当に素敵なことだと感じます。
そんな考えによって、なかなか「讃美歌21」への気持ちの切り替えができないでいました。メロディーに違和感を覚えたり、現代語訳に物足りなさを感じたり・・・ここで御紹介する讃美歌に出会ったのは、そんな頃でした。「言葉がストレートすぎて讃美歌って感じしないなぁ」それが、この讃美歌への第一印象です。
 礼拝後、口ずさんでいる自分に気がつき、じわじわとその歌詞の内容や、メロディーの親しみやすさを感じ始め、今度の礼拝で、小学生と歌ってみようとさえ思えました。(私はキリスト教系の小学校で教員をしているので、時々礼拝当番が回ってきます。)
当日、子供たちは礼拝堂が割れんばかりの元気な声で歌ってくれました。「ここに私は居ます、凍える子の涙にも。あなたは?」小さな子どもたちの澄んだ声が、1節1節紡いでいく賛美の中で、何だか泣けてきました。「これは、私たちが今、まさに暮らしている世界からの賛美なんだ」それがこの讃美歌への第二印象です。
 数ヶ月の時が経ち、ある朝、学校の廊下を歩いていると、「共に私はいます、変革呼ぶ人々と。あなたは?」クラスから聞こえてきました。担任に聞くと、子供たちからのリクエストが多く、かなりの頻度で歌っているとのことでした。「現代の言葉で、現世界を歌い、現代を生きる子供たちに愛される讃美歌。それもまた良い。」この讃美歌への第三印象です。
 移り行く世界に合わせて、讃美歌が変わっていくのもまた良いと思えた、最初の讃美歌です。

286号 私の好きな賛美歌 島田貫司



私の好きな賛美歌


島田 貫司


私の好きな賛美歌は沢山あります。中学・高校生だった頃の好きな賛美歌、大人になってから好きになった曲、又 曲が良い、詩が良いと、いろいろ年をとると共にかわってきます。特にローエル メーソンの賛美歌は好きです。幼い頃から聴いたり歌ったり、お陰で米国へ留学中、又海外旅行先で私の人生を豊かなものとしてくれました。
 ローエル メーソン(Maison Lowell – 1792/1/8~1872/8/11)は米国マサチュセット州のメドフィールドで生まれ、後独学で音楽を学び、後ジョージア州へ移った彼は銀行に勤めながら作曲をし、やがて推賞を受け権威あるへンデル・ハイドン協会の名誉会員に推されたが謙虚な彼は平会員として入会した。そして米国内の大教会の音楽指導者として活躍され1827年ヘンデル・ハイドン協会の会長兼指揮者となり「米国教会音楽の父」と称された。
 メーソンは1817年結婚、四人の子息のうち二人はオルガン・ピアノ会社メーソン アンド ハムリンの創立者となり、一人はメーソン・トーマス四重奏団のメンバーとして活躍。1872年ニュージャージー州のオレンジにある自宅で死去。彼の墓は今年没100年となるヘボン博士の近くに在る。2010年5月7日私は二人の墓を10年ぶりに訪れた。メーソンの賛美歌は旧賛美歌(1955発行)の中に24曲、3,54、62,112,142,165,211,214、216,218,228,239,268,299,307,320,368,374,403,471,472,491,543,550他 沢山の作曲、編曲を残され今日、世界中の教会などで歌われている。1997年2月 賛美歌21となり6曲となった。97,236,297,434,441,494.
 メーソンの曲、沢山ある中で私は441番「信仰をもて」が好きです。歌詞は旧と賛美歌21と違うが賛美歌を知り、どこでも歌えることは旅先で出会った人とすぐ親しくなり信頼し合い信仰の力に驚く。言葉ではなく曲で友愛を深める人生をすごしてきました。小学校以来、今日まで賛美歌を歌い続けてこられた幸せな人生に感謝しています。

286号 心に響く賛美歌 山崎千賀子

286号 心に響く賛美歌 山崎千賀子


   心に響く賛美歌


山崎 千賀子
賛美歌240番(旧賛美歌)
 とざせる門を 主はたたきて
 こたえいかにとたたずみたもう
 ながくそともに立たせまつる
 われら御民のこころなさよ


 「汝らがために死にしわれを
 などかこばむ」とおおせきこゆ
 今はいかでかためらいおらん
 主よ戸をひらく
 入らせたまえ


私の手許に一枚の古びた絵がある。「世界の光」と題するもの。ウイリアム・ホルマン。ハント - 1853年油彩。
 森の中に、つたがからみつき、ぴたりととざされた扉が手前に描かれている。その前に白い長衣を着て左手にランタンを下げ右手で扉をたたいておられる主イエス・キリスト。キリストの視線はじっとこちらを見つめ、「今、お前の心の扉をたたいているのだよ」という御声が心に伝わる。


 洗礼を受けて長い年月がたあっていたが、転勤族の夫に従ってあちらこちらの土地へ転居を繰り返している内に日曜日には教会の礼拝へ通うという習慣が頭の中からすっぽり抜けてしまっていた。
 鎌倉に居を定めて後、ある日ふとこの賛美歌が頭の中で鳴り、同時にこの絵「世界の光」のことを思い出した。急いで帰宅し、学生時代につかっていてボロボロになりかけている讃美歌を開きピアノで弾いてみた。将にイエス様が私の心の扉をたたき続けていて下さっていることを知った。
 間もなく鎌倉恩寵教会と出会うという大きな恵みあずかることが出来、心から感謝をいたしております。

287号 讃美歌の想い出 山本哲子

287号 讃美歌の想い出 山本哲子


讃美歌の想い出  山本哲子
何時しかこの年になり生かして頂いた過ぎし日々をなつかしく感謝の中におもい巡らすこの頃でございます。
五、六才の頃、三田のフレンドセンターの広間でのクリスマスの集いにお仲間と二人で、「ふたたび主イエスの降ります日」を唱ったなつかしい想い出。


聖坂の通りから見えた「神は愛なり」の塔。その塔の下にある講堂での毎朝の礼拝。あの先生がお好きだった讃美歌。あの方がよく選んだ讃美歌。折りにふれ一人で歌って居ります。旧讃美歌の番号のそばに母が小さく記したお名前。なつかしい方々。


青山学院、恵泉女学院、普連土三校合同のクリスマスの夕べが催された日比谷公会堂での想い出。後年、会堂と背中合わせの市政会館に働き場所の与えられたときの驚きと感謝。其々感謝一杯でございます。


私のよく歌う讃美歌。
56(七日の旅路) 301(山辺にむかいて) 326(ひかりにあゆめよ) 405(神ともにいまして) 518(いのちのきずなの)

288号 想い出 渡辺文子

288号
      想い出     渡辺文子


 讃美歌の想い出は、私には楽しく辛いものでした。
渡辺が召されて、もう十年余りとなります。仕事一途の人でしたが、晩年心筋梗塞を患いそれからは少し生活を楽しむようになりました。車の運転が好きでよく出かけ、走り出すと休むのも忘れる程でした。当時テレビのコマーシャルで美しい歌が流れ、テープにとって車中でよく聴いていましたが、歌いたくて二人で歌詞を考えたのですが、思うようにゆかずあきらめました。
或る日、主日礼拝にこのメロディが流れ「あれっ」と思いましたら451番
アメージンググレイスでした。
   くすしきみ恵み われを救い 
     まよいしこの身もたちかへりぬ
中年になって教会生活になった私達には全くこの通りで、それからはよく口ずさんでおりました。教会のお別れには皆さんに歌って頂き旅立ちました。
それからはこの讃美歌を聴くたびに思いがこみあげ、歌えなくなり困りましたが、年月が経って今は慰めとなっています。

288号「私の好きな賛美歌」佐々木一彦

288号「私の好きな賛美歌」  佐々木 一彦


いつも私達を愛し見守って下さる神様に、常に感謝しております。また、この様な場面を設けて下さった事にも感謝(?)致します。
さて、私の好きな賛美歌について、経緯とご紹介をしたいと思います。
その賛美歌を好きになったのは、今から約29年前の中学3年のクリスマスの時です。
従姉が日曜学校に通っており、「キャンドルサービス(当時はクリスマスの夕べ?)があるので是非来ない?」と誘われたのがきっかけです。高校受験を控え、気持ちも高ぶっていた事もあり、「少し心を落ち着かせて・・・」との配慮があったのかもしれません。とにかく母と出席する事にしました。
その時賛美したクリスマスソングに心打たれました。静かに奏でるメロディ、心和やかに歌われる歌、まるで心が洗われるようでした。それからクリスマスに歌われる賛美歌が好きになりました。沢山ある中で、もし強いて挙げるとしたら次の賛美歌が好きです。
旧賛美歌では、「98番」・「103番」・「106番」・「108番」・「109番」・「111番」・「112番」・「114番」・「115番」・「119番」です。さらに賛美歌21では、「258番 まきびとひつじを」・「260番 いざ歌えいざ祝え」・「261番 もろびとこぞりて」・「263番 あら野のはてに」・「264番 きよしこの夜」・「265番 天なる神には」「267番 ああベツレヘムよ」などです。
これらの賛美歌は、お恥ずかしい事ですがクリスマスが近づくと、仕事中でも道を歩きながらでも小さな声で覚えている歌詞を無意識のうちに口ずさんでいたりします。
また、教会へ通うようになってから好きな賛美歌も増えました。

289号 『私の好きな賛美歌』佐藤寧

『私の好きな賛美歌』


佐藤 寧


 私は旅をするのが好きです。知らない土地を旅しながら日常生活を少し離れて自分を見つめたいからです。そして最近になって、旅の楽しさは家に帰ることにあると実感しています。
 私は、50歳になったのを機に生き方を変えたいと思い、妻とともに恩寵教会に通い始めました。おそらく誰しもが一度は人生について考えたと思いますが、私の場合も様々な疑問が頭から離れませんでした。「人間は、何処から来て、どこへ行くのか?」「自分はどのような生き方をしたいのか?」など。そして、妻ともに1年後に受洗しました。
 しばらくたってから、大学のチャペルで「奨励」を頼まれました。「奨励」の内容はこれまでに読んだ物語をテーマに選びました。例えば、「『ガリバー旅行記』と愛について」です。そんな時には、パウロのあの言葉、すべては「愛がなければ無にひとしい」を引用しました。しかし、賛美歌については一貫して「ガリラヤの風かおる丘で」を選びました。この賛美歌は歌い易いだけでなく、その歌詞が気に入っているからです。「ガリラヤの風かおる丘で、ひとびとに話された、めぐみのみことばを、わたしにも聞かせてください」のことばは私の心を揺さぶるものがあります。
 数日前にも「奨励」を頼まれて、「『裸の王様』と真理」について話しました。アンデルセンのこの話を知っている方も多いと思いますが、一言でいうと、ある王様が二人の詐欺師にだまされて、この世で最もみごとだという洋服を着て街をねり歩くのですが、愚か者や就いている地位にふさわしくない者には見えない布地を使っているというのです。それを見た幼児は「あの王様は裸だ」と言い、まわりの大人たちも褒め言葉をやめて一斉に、「王様は裸だ」と言います。時として大人の論理は、真理(または真実)と無関係であるという教訓を子供たちに伝えようとしているようです。
 洗礼を受けてから15年が経とうとしている今、自分の歩みを振り返ってみて満足しています。自分の専門が科学といえるものであるなら、私は科学者ですが、科学理論はつまるところ緻密に計算された「仮説」でしかありません。しかもその研究対象は、繰り返し起こる現象ですから何百年に1度の大災害をとりあげない研究者が大多数を占めます。また、人間のすることに「絶対」はありませんから、「絶対に安心」ですという科学者の甘言に騙されないようにしたいものです。
 イエスが言われことばとしてヨハネ福音書に、「私は道であり、真理であり、命である」があります。このことばを肝に銘じて日々生活したいものです。

290号 私の好きな讃美歌 田中梗子

290号 私の好きな讃美歌 田中 梗子


 私が讃美歌に出会ったのは文京区のパプテスト教会でした。幼稚園でしたが今でも“主われを愛す”、“神様はのきの小雀まで”、“うるはしき朝も”などは歌詞もしっかり記憶していて忘れることが出来ません。
 その後6年生で神戸へ越してからはしばらく教会から遠ざかりました。終戦を迎え同志社の先生や復員してきた若い青年達が新しく東神戸教会を立ちあげました。5年間は会堂もなく転々と仮住まいでした。でもその中で今にも倒れそうな教会学校の校長先生の引揚者住宅に集り讃美歌を歌いまくったのはかけがいのない思い出です。
 食べ物も着るものも不自由な、今とは到底比較も出来ない時代でしたが生きがいのある楽しい青春時代でした。この教会で亡き主人とも出会い洗礼も受けました。
 昔の讃美歌で番号も覚えていませんが記憶に残っているのは“うるわしの白百合”や“まぼろしの影を追いて”など沢山あります。若い時から今に至るまでどれだけ讃美歌に慰められてきたことか、感謝でいっぱいで過ごして居ます。

292号 思い出の讃美歌 宇治田憲彦

292号 思い出の讃美歌 宇治田憲彦


私は還暦の年に洗礼を受けましたので、それまでは讃美歌に親しむ機会は殆どありませんでした。教会では最初から聖歌隊に入り歌って来ました。私にとっては讃美歌はお祈りの一部と考えて、時々にかなった讃美歌を心をこめて賛歌することに努めてきました。従って、子供の頃や学生時代の懐かしい讃美歌とか愛唱讃美歌はとくにありませんが、印象に残った讃美歌としてまず「アメージンググレース」(くすしきみ恵み・讃美歌21・451)があります。テレビのCMで黒人ソプラノ歌手が歌っていたのが印象深く、良い歌だと思っていましたがこれが讃美歌とは知りませんでした。出張でアトランタへ行った際、黒人教会を見学し熱狂的にこの歌を歌っているのを聞き、初めて黒人の中で最も愛唱されている讃美歌であることを知りました。現地の人からその由来を聞かされて尚驚きました。18世紀の半ば作詞者John Newtonは牧師の息子でありながら、ぐれて奴隷船の船長としてアフリカからニューオリンズへ向かう途中、カリブ海でハリケーンにあい沈没しそうになった時、彼は神に祈りをささげたところ嵐はやみ救われた。自分のような無頼漢にまで神は驚くべき恩寵を下されたことに改心し、英国に留学し牧師となった。米国南部に牧師として戻った彼はそのときの神の恵みを讃美歌として作詞し、当時はやっていたアイルランド民謡の節にのせて黒人の間で歌われるようになったそうです。この由来を知ると英語の歌詞の意味がよくわかります。黒人奴隷たちは自分たちのような身分の低い卑しいものにもAmazing Grace(驚くべき神の恩寵)が与えられると信じ神を讃美してきたのです。
もうひとつ生涯忘れられない讃美歌があります。「ガリラヤの風かおる丘で」讃美歌21・57です。聖歌隊でもよく練習しましたが、日本人の作詞・作曲で珍しくラテン的で軽快なリズム感、歌詞も情景描写的でわかりやすく若い人に人気のある讃美歌です。数年前尼崎のJR宝塚線脱線事故で尊い犠牲になった同志社大学の女子学生の告別式で故人の愛唱歌であったこの讃美歌を友人たちが合唱する光景をTVで見ましたが誠に感動しました。
一昨年11月に聖地イスラエル巡礼の旅に参加する機会がありました。ガリラヤ湖の北東部ペテロ・アンデレ召命の岸辺から小高いガリラヤの丘に上り、有名な山上の説教の場所で船本弘毅先生による山上の礼拝が行われ、島田貫司さんが用意してくれた楽譜で一同「ガリラヤの風かおる丘で」を合唱しました。天気もよく気候も良く、歌詞のとおりガリラヤの風が香る丘で、将にイエス様の山上の垂訓のその場所で、お説教を聞き、この讃美歌を合唱しました。
“ガリラヤの風かおる丘で、ひとびとに話された、恵のみことばを、わたしにも聞かせてください・・” 夢のような感無量の思いで歌いました。


                         宇治田憲彦

292号 追憶とともに 日置恵子

292号 追憶とともに 日置恵子


 敗戦直後京城から引き揚げて来た私は、両親の実家がある尾道と防府で
小学校生活を終え、下関に転居後ミッションスクールで中・高時代を過ごしました。学生時代浅野順一牧師の教会に通った母と、時には父も一緒に下関教会の礼拝に出席しておりましたが、いつとはなしに働きながら定時制高校で学ばれる青年会の方々が、我が家に集まられるようになりました。たいした娯楽もない頃でしたから、食後は聖歌隊の方の指導の下で次々と讃美歌を歌って過ごしました。その中で532番は、シベリウスが帝政ロシア圧制下のフィンランドの人々の為に作曲した交響詩「フィンランディア」の中の曲と聞き、強く惹かれる讃美歌になりました。その後父は四十代後半、続いて私も高三のクリスマスに小幡慶助牧師の下に受洗しました。
恩寵教会では、「癒しを求める祈り」のときが設けられ、祈りに続き532番が歌われます。友人や知人、又身近な者達のことを思い祈るひとときですが、東日本大震災以後は神と向き合う心と歌詞とが、これまで以上に深く響き合う気がします。余談ですが、元青年達は社会的にも立派な働きをされるようになり、上京後の両親との交流も長年にわたって続き、病気見舞いや葬儀には遠路駆けつけて下さいました。
 著者名も内容も忘れてしまいましたのに、「たといそうでなくても」という題名は今も心に残っている本があります。戦時中クリスチャンであるために迫害をうけた韓国の方が書かれたものだと思います。そして、これもかなり前のことですが、地域集会で「ダニエル書三章」を学んだ折り「たとえそうでなくても」という箇所に出会い、大切な物をやっと探し出したような気持ちになりました。.自立心に欠け依存心の強い私には、「たとえそうでなくてもあなたの判断を全て受け入れます」と神に応えることはとても難しい。というよりできない。
でも、そうであるからこそ一層「神の前で、神と共に、神なしに生きる」というボンヘッファーの言葉を心に刻み、残された人生を歩みたいと願っております。

293号 私と讃美歌 阿部美子

293号 私と讃美歌 阿部美子


 私の名は讃美歌の「美」を選んで、祖母が名づけた。幼稚園のころ、育児で礼拝にでられない母のために、美山讃子先生が家に来られた。小さいだるまさんのような先生は春の日差しのようなお顔で「あなたと私で讃美歌よ。『主われを愛す』(讃21-484)を歌いましょう」と言われた。


 捜真女学校の英会話の英会話の授業では英語讃美歌を必ずひとつ歌った。音符と発音が組み合わさらず、いつも語尾が余ってしまった。初めての英語讃美歌「Jesus love me this I know」(讃21-484)、この讃美歌は信仰を伝える第一歩なのか。幼稚園の時、中1の時、本当の意味が分らなくても、間違っていてもそのまま歌っていた。


 「ほめたたえよ、つくりぬしを」(讃79)、中3の時、チャペルの献堂礼拝で学年合唱した。建築費を借金と学債でまかなった、と聞いた私は、建築したのも、費用を用意したのもすべて人間なのに、「身も魂もささげる」とは何のことかと、疑問と反発の混じった気持ちで歌っていた。


 (讃21-398)「・・・、昔の痛みを抱えて輝く。・・・・新たな歴史を与えてください。」「・・・われらの山河を切り裂き隔てる 境を乗り越え、・・・」作詞者・作曲者いずれも日本統治下の朝鮮半島に方々と気づいた時、単純には歌えなかった。痛みや分断を与える側に自分がいることを思う時、「新たな歴史を今こそ与えてください」という一節に許しと未来への呼びかけがあった。どのように答えようか。


 「球根の中には(讃21-575)」、友人のお父様の前夜式で歌われた。「いのちの終わりはいのちの始め。おそれは信仰に、・・・」私は聖書を読んではひっかかり、批判するか、分らなくなると思考停止する。しかし歌いながら、心底「そうだ」と素直になれた。やさしい言葉でつづられた歌詞のせいか。歌詞と旋律に私は受け止められた。


 「キリストよ、光の主よ」(讃21-222)、モザラベ聖歌。聖歌隊で初めて歌った。「祈り求めるのはキリストの平和」不思議な旋律。気がつくと心の殻が自然に解け去り、開放されていた。


 客観的にものを見たがり、簡単には納得したくないこだわりが私にはある。時にはそれが自分を苦しめることになる。そうした鎧をはがす力が讃美歌にある。

294号 私の讃美歌 田中英雄

294号 私の讃美歌 田中英雄




還暦をむかえる頃になって洗礼を受けた私には、歌いこみ身に沁みこんだような讃美歌が残念ながらありません。それでも、子どものころに歌った思い出の讃美歌が一つあります。クリスマスケーキと結びついた讃美歌です。幼い頃にキリスト信仰に触れた私の父は、ひとにはあまり語りませんでしたが信仰心の厚い人であったと思います。毎年クリスマスには「きよしこの夜」と「主われを愛す」(484番)などいくつかの讃美歌とケーキがセットになっていました。その頃の私はどちらかというと「不二家のペコちゃん」を愛していました。
青年期、私は宗教、なかでもキリスト教が大嫌いでした(兄二人は信徒)。どういうわけか聡明な美しい(?)クリスチャンの女性と結婚することになりました(自己責任)。
結婚(式)の為に教会に通い始めました。その頃覚えた讃美歌が「ただしくきよくあらまし」(旧452番)と「いつくしみふかき」(493番)です。「きよくありたい」と思っていたわけではない、「慈しんでもらいたい」と望んでいたわけでもないのですが自然に口ずさむようになりました。「いつくしみ深い」を歌うとピエタ像(ミケランジェロ・サンピエトロ)のイエスを抱く母の姿が思われて心がジーンとします。
あと一つ好きな讃美歌は「かみはわがやぐら」(旧267番・・ルター作)これは讃美歌
21(377)「かみはわがとりで」ではちょっと不都合です。私は「おのが力 おのが知恵を たのみとせる 陰府の長も・・」この歌詞が好きなのです。散歩しながら口ずさむと「長」の自分が飛んでいくような気分がします。

295号 私の好きな讃美歌 上戸基夫

295号 私の好きな讃美歌 上戸基夫






「球根の中には」
     (讃美歌21 575番)


球根の中には花が秘められ
サナギの中から命羽ばたく
寒い冬の中春は目覚める
その日その時をただ、神が知る




 私は現在小学校の教師をしています。勤務している聖ステパノ学園は、澤田美喜が1953年大磯に創立したキリスト教学校です。現在では、学校の精神に共感し通う子どもたちのほか、様々な理由によって親元で暮らせず児童養護施設エリザベス・サンダース・ホームで生活している子ども達や、大勢の人数の学級では通学できない子ども達など、様々な子ども達が一つのクラスの中で机を並べ、学校生活を送っています。その一人ひとりは、本当に純粋に毎日を精一杯生きています。
 小学校はのちの人生に大きく影響を与える年頃だと思っています。この時期に出会った人、体験したこと、すべてはその基礎となり、成長していく過程で大切な土台となるからです。
 学校生活の中で子ども達を見ていると「あれ?いつの間にこんなことができる様になったの?」とか「知らない間にずいぶん大きくなったな!」と感じることがたくさんあります。毎日顔をあわせている自分のクラスの子ども達でさえも、この様に感じるものです。教師ですから、子ども達が成長するように、日々教え導いて行くことは当然の責務ですが、日々積み重ねていく成長だけではなく、気が付かないところで大きくなっている子ども達を見ると、一人ひとりの成長しようとする力と共に、子ども達を大切に育んで下さる神様の力を感じずにはいられません。
 学園では、毎日礼拝で一日が始まります。お祈りをして、聖歌を歌い神様を畏れることを学びます。私は最初に挙げたこの讃美歌を歌う時、子ども達に自分を育ててくれるのは親であり、教師であり、そして神様に生かされていることに少しずつでも気が付いてくれればと話をしています。
 初めて担任した子ども達は既に二十歳を越え、それぞれに自分の道を歩み続けています。今年度担任している一年生もまた、同じ様に成長していくことでしょう。その一人一人に、神様がどんな時でも子ども達に寄り添ってくださる、そしてまさに「その時」を与えてくださる事で、立派な大人へと成長していける様、私はこの讃美歌を胸に、子ども達と日々向き合っていきたいと思っています。 

296号 思い出の家族の愛唱讃美歌  小川信子

296号 思い出の家族の愛唱讃美歌 小川信子


私の父は明治22年生まれ、青年時代に受洗し、その後牧師となりました。


家族6人(父•母•二人の兄•私•妹)で囲む夕食では、まず讃美歌を歌い、次に食前の祈りをすることが常でした。その讃美歌は、毎日同じものに決まっていました。「ははぎみにまさる」(旧讃美歌437)です。私が物心ついた頃から、戦争で家族がバラバラになるまで、何千回と歌ったことになります。兄弟は当たり前のように、すべての歌詞を暗記してしまいました。


先日の同コーナーで、長井喜一郎さんの愛唱歌が「ははぎみにまさる」であることを知りました。うかがってみると長井さんは、私の父から、16歳の時に受洗されたとのこと。とても驚きました。讃美歌にまで、その思いは受け継がれるものなのでしょうか。


母の愛唱歌は「たえなるみちしるべのひかりよ」(288番)でした。
とこ世のあさにさむる そのとき、
しばしの別れをだに なげきし
あいするもののえがお、
みくににわれをむかえん。


大正時代、父と結婚した母の当初の生活は、苦難に満ちたものでした。各地の教会へ招聘される牧師の妻としてその地に伴い、子供をもうけました。しかし厳しい生活の中で、6歳•5歳•3歳•1歳の子供たちを、疫痢や肺炎で次々と亡くしました。一週間のうちに、幼い姉妹二人が亡くなったこともあったと聞いています。母の心もちはいかばかりであったことでしょうか。


〈あいするもののえがお〉。この言葉は、まさに母の心情そのものだったのだと思います。亡くした子供たち、私の遇うことがなかった兄や姉の事を思いつつ、この讃美歌を歌っていたことでしょう。


「馬槽のなかに」(讃美歌21 280)は、私の長兄、山本敬の愛唱歌です。衣笠病院の礼拝当番の際には、必ずこの讃美歌でした。「馬槽のなかに」は、昭和初期、日本人によって作詞作曲された初めての讃美歌であるとのこと。歌いやすいメロディー、平易な言葉で、イエス様のご生涯をあらわしています。兄はおそらく、自分の生き方の導として、この讃美歌をことあるごとに歌っていたのだと思います。

298号 印象深い賛美歌3曲 柴田昌一

298号 印象深い賛美歌3曲 柴田昌一


 二昔も前のことですが、元横浜訓盲学院理事長の今村幾太先生が百一歳で天に召され告別式が行われました。そのとき歌われた賛美歌の一つが賛美歌21の204番『よろこびの日よ』でした。これは先生の愛唱賛美歌と言うよりは、先生の遺言によるものでした。


「死ぬということは、本人にとって決して悲しいことではない。神に召される喜びのときである。だから自分の告別式のときは是非この賛美歌を歌ってほしい。また祭壇を飾る花も華やかな花にしてほしい。」ということでした。先生は、色とりどりの献花の中で眠りにつかれたのです。


 このような告別式は、幾多先生が特別変わっている方というわけではなく、本来のキリスト教の告別式の特徴を表していると言えるでしょう。なぜなら告別式は、ご本人のご遺体を丁重に葬り神の御許へお送りする儀式ですが、これらすべてを神への賛美の中で行われるのがキリスト教の特徴であるからです。


 このような経験があって、204番は大変印象深い一曲であり、愛唱賛美歌の一つになりました。


 あと二曲は、『キリストの生涯』に分類されている280番『馬槽のなかに』と289番『みどりもふかき』です。二曲ともに中学時代に学校でよく歌われた賛美歌で、最初に覚えた賛美歌であると思います。


 二曲とも曲調も好いですが、何といっても歌詞がイエスを生き生きとイメージできるところが好きです。更には私にとって、最初にキリスト教の信仰を具体的に感じることができた印象深い曲でもあります。


 どのような礼拝も、その中心は神への賛美であると思いますが、誰でもその思いを端的に表現することができる賛美歌は大変大切であると思います。本教会は、その賛美が賜物豊かな多くの方々に支えられており、日ごろ心深く感謝を覚えています。

299号 私にとって「心に残る讃美歌」鬼形通世

299号 私にとって「心に残る讃美歌」鬼形通世


キリスト教学校で中学生だった頃、名物教師であった担任がよくクラス礼拝で使った讃美歌がありました。♪はるのあした、なつのまひる、あきのゆうべ、ふゆの夜も~♪と続く、讃美歌503番でした。単調でリズミカルでとんとん拍子の憶えやすい曲です。この讃美歌はその先生との思い出と重なります。また、♪御神とともにすすめ、死もなやみもおそれず~♪讃美歌445番は以前、横浜大洋ホエールズの応援歌に使われていたようです。私にとっての讃美歌入門は、このようにやたらと元気の良いものから始まっているようです。大学生時代は学生がほとんどだった教会の青年会で、クリスマスなどに聖歌隊が組織されました。音楽に精通した学生の厳しい指揮指導のもと、にわか仕込みながらそれなりに一生懸命に教会の中でも外でも練習しました。その時間は妙に楽しい時であり、この期間の体験は今までよりも讃美歌との関わりをより深めてくれたと思います。♪丘のうえの教会へ のぼる石だたみ~♪讃美歌189番は、教会学校キャンプに同行し、目的地へ向かう道でみんなと楽しく歌ったことが印象強く残っています。逆に♪み言葉をください、降りそそぐ雨のように~♪讃美歌58番は暗くて重苦しいのですが心に残る讃美歌でした。これらの讃美歌はいずれも1954年版の2編付き讃美歌に収録されていたものです。
1997年に初版発行された讃美歌21には収録されなかったもの、新たに加わったものもありました。讃美歌はその時々に応じて、出会った人であったり、立たされた状況であったり、自分のなかにある心境や心情とピタリと合ったときに共鳴し心のどこかに残されてきました。♪昔主イエスの蒔きたまいし、いとも小さき いのちの種~♪讃美歌412番は穏やかなハーモニーがきれいで好きな讃美歌の一つです。讃美歌58番とおなじく日本人が作詞しています。なにか日本的な情感があるようにも思えます。♪球根の中には 花が秘められ、~♪讃美歌575番は、曲の旋律と歌詞が沈んで弱くなっている自分を励まし、素直にしてくれて、少しずつ元気を取り戻すきっかけになってくれているようです。
心に残る讃美歌は、その時々の思い出や人々との関わりを思いださせてくれます。

301号 初めての讃美歌 野村信子

301号 初めての讃美歌 野村信子


 私の記憶にある讃美歌との出会いは、とても劇的なものでした。
3歳の私は11歳年上の姉と二人で、台湾高雄市の港町キリスト教会に行っていました。牧師は江口忠八先生で戦後は立川教会で生涯牧会をなさっていました。ある聖日の礼拝中にオルガンが響き、出席者の歌声に私も一緒に歌いたいと声を出して歌いました。するとオルガンも皆の歌声も止まり、皆一斉に私を振り返りました。私の声はオルガンに合っていない上に歌ではなく、ただの叫び声だったのでしょう。私はなんでこんな事になったのだろうと思うばかりでした。でも直ぐにオルガンが響き礼拝は元に戻りました。帰り道、姉は恥ずかしいじゃないのと言い足早に歩きました。
 当時、江口牧師が15歳年上の私の長兄に、牧師にならないかと勧めたそうですが、兄は僕は人前で話をすることはできませんと断ったそうです。この兄は旧制中学でトロンボーンを吹き、戦後家に楽器が無い時代には、音叉で音を調べて歌っていました。下の兄はスーザーホーンを吹き、大通りをブラスバンドで行進するのは気持ちがいいと言っていました。まだ応召される前の事です。
 戦争に負け日本へ引き揚げるまで満州、中国、朝鮮の日本人には申し訳ない程、台湾では穏やかに過ごせました。母はよく「飼い主わが主よ」「主よみてもて」をピアノを弾きながら歌いました。でも私は母の一心にそうしている姿がなぜかつまらなかったのを憶えています。
 海軍軍楽隊の初期の指揮者である母の父(久松 太郎)はフランス海軍から指揮法を学びました。後に三越音楽隊の指揮者となり、楽員には戦後も活躍した田谷力三や黒柳徹子の父上もいます。黒柳朝の「チョッちゃんが行くわよ」の中で徹子のお父さんが「すばらしくいい先生」に楽典の全ての特訓を受ける話がありますが、その先生が私の祖父です。三越本店では日に三回演奏したそうです。
 母は習わないでピアノが弾け、青山教会ではオルガニストをしました。讃美歌改訂があると「調」が変わって弾きにくい、それはちゃんと指導を受けていないから伸びないのだと言っていました。「いい耳」は私をスキップして私の子ども達に飛び、彼らはそれぞれ何かしらの楽器をさわります。
 両親は私をキリスト教学校へ進ませてくれました。学校では毎朝礼拝があり、たくさんの讃美歌を憶えました。女学校なので讃美歌をテノールで歌う人もいました。そうするとテノールがソプラノの上をいき、教会にはないハーモニーになります。
 家族で歌う時、父と兄達はバスを歌いました。私一人でアルトを歌うのは難しいのでバスに合わせました。そのせいかアルトやバスの旋律が取りやすい曲が好きです。父は讃美歌337「わが生けるは、主にこそよれ、死ぬるもわが益、また幸なり」が好きでした。讃美歌21から消えたのが残念です。
 私の第二子の女児は生まれて四日目に呼吸が弱くなり七日目に召されました。「みどりもふかき、わかばのさと」から若葉と名付け萌える生命力が与えられるよう祈り、夫は出生届を出しました。
 私の兄は牧師にはなりませんでしたが、私共の三男が牧師になりました。幼い妹を教会につれていき、恥をかいた姉が召された時、私共の息子が司式をして葬儀をしました。
「むくいをのぞまで、人にあたえよ」  「ああ主のひとみ まなざしよ」
「たえなる道しるべの光よ」      「丘の上の主の十字架 」


好きな歌は挙げると、きりがありません。讃美歌一つ一つには様々な出来事や忘れられない人々が背景になっています。

304号 私の好きな讃美歌 高田順子

304号 私の好きな讃美歌 高田順子


さて、…と讃美歌を開きますと、あるわあるわ、


先ず讃美歌21
57番 ガリラヤの風、かおる丘で…
175番 わが心は、あまつ神を…
287番 みどりも深き、わかばのさと…
300番 十字架のもとにわれはのがれ…
303番 丘の上の十字架 苦しみの標よ…
306番 あなたもそこにいたのか


 主の十字架についたとき
522番 キリストにはかえられません…
566番 むくいをのぞまでひとにあたえよ


旧讃美歌
511番 みゆるしあらずば滅ぶべきこの身


第2編
189番 丘の上の教会へ、のぼる石だたみ


その他、まだまだクリスマス、イースターの讃美歌等々…きりがありません。


ただ、この中から一つを…と云われたら、私は迷わず旧讃美歌の、511番を挙げます。




一、みゆるしあらずばほろぶべきこの身
わが主よ、あわれみすくいたまえ
イエスきみよ、このままに
我をこのままに救い給え


二、つみのつもりて、いさおはなけれど
なお主の血により、すくいたまえ
イエス きみよ、このままに
我をこのままに救い給え


三、みめぐみうくべき身にあらねども
ただみ名のために救い給え
イエスきみよ、このままに
我をこのままに救い給え


四、みわざを世になす、ちからあるものと
イエスきみよ、このままに
我をこのままに救い給え


まさに私の心を言いあらわしてくれている讃美歌なのです。


心からアーメンなのです。

305号 「実れる田の面は」大野高志

305号 五十四年版讃美歌 五〇四番「実れる田の面は」大野高志


 「好きな讃美歌」というより、大切な何かを私の中に刻んだ讃美歌です。
 昨年の秋、奥様と看護師と私の三人でこの讃美歌を歌う中、ホスピスから旅立っていかれた方がありました。心から奥様を大事にされていたご主人でした。ご夫婦ともにクリスチャンであった訳ではありません。けれども、奥様のお母様がクリスチャンで、奥様自身もミッションスクールの出身でした。奥様は、最期の近づくご主人に寄り添う日々の中、かつてよくお母様がこの五〇四番を歌っておられたのを思い出しておられました。主の祈りも思い出され、五〇四番と一緒に、毎夕口にされていました。
 五〇四番。それは私の祖母の愛唱歌でもありました。祖母は私が三歳のときに亡くなっていて、私にとっては「記念会の歌」でした。ホットケーキを焼いてくれたこと、夏の日に盥で水浴びをさせてくれたことを断片的に思い出す祖母です。盥の水浴び・・。盥は祖父が営んでいた洗濯屋のものであったかもしれません。今のクリーニング屋さんと違って、昔は実際に店の裏に洗濯場があって、衣服をぐつぐつ煮てきれいにしていたのです。脱水機は「振り切り」と呼ばれて、巨大なモーターベルトを回しては、水を「振り切って」いました。会いにいくといつも祖父は腰までのゴム長をはいて、湯気と轟音の中登場しました。
 その洗濯屋の湿気が障ったのではなかったか・・・。五十代前半で亡くなった祖母について、晩年祖父はよくそんなことを私の母に言っていたそうです。五〇四番は、私にとって母の実家の風景(記念会もこの家で行われていました)そのものでした。
 三歳の記憶と、目の前の光景が、どうしても私の中で重なりました。「もう間もなくでしょう」という看護師の言葉に枕元に寄せてもらい、イザヤ書五十五章八節以下を読みました。「雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。」そして五〇四番、四節で「かりいれ終えなば・・・」と歌う中、その方は旅立っていかれたのでした。五〇四番は、この方の残された感謝のメッセージであるように思えてなりませんでした。
奥様も教会に通い始められたそうです。人はたくさんの愛の中で生かされ、いのちを紡いでいく―そしてこの私も、関わりと愛に生かされてきた一人であった―
そんな気づき。一粒たりとも「むなしく」種を蒔かれない神様を証する、五〇四番となりました。

307号 私の好きな賛美歌 太田壬穂子

307号 私の好きな賛美歌 太田壬穂子


 今より68年ほど前でしょうか、私は稲村ケ崎の聖ロカ幼稚園にいっておりました。その幼稚園では時々外人の神父様がいらっしゃって、英語で賛美歌を歌ったりしておりました。
 或るクリスマス会の夜に兄が親代わりに私に付き添って来てくれました。その時、兄は英語だったと思いますが賛美歌をさっぱり歌えなくて、私をつついて「どうしよう・・・」と困り果てた様子でした。私は「口を動かしていればいいのよ」などと云う子供でした。今考えますとその頃から恥ずかしい子供だったのだと反省するばかりです。それでも妹や弟とはクリスマスになると幼稚園へ行って楽しく過ごした時の思い出が懐かしく蘇ります。
 高校に入った頃だったと思います。姉夫婦の行っている教会に私も行くようになりました。その教会で私達学生だけで263(讃美歌21)「あら野のはてに 夕日は落ちて・・」を歌う事となりました。練習方法、日程、パートの事等私達自身で決め、心を一つにして歌い上げました。その時の達成感は私に合唱の素晴らしさを味わわせてくれました。この喜びを与えて下さった神様に感謝の気持ちでいっぱいでした。
 57(ガリラヤの風かおる丘で)、60(どんなにちいさいことりでも)、127(み恵みあふれる)、166(主は、わたしを究め)等は私の心を優しく素直にしてくれます。
 毎週礼拝での賛美が楽しみです。神様と会話しているようで幸せいっぱいになります。これから、どんな賛美歌に巡り合えるのかしらと楽しみです。

311号 思い出の賛美歌 長井英子

311号 思い出の賛美歌 長井英子
 聖地旅行において聖地と共に思い出される賛美歌を綴りたいと思います。
 一九九八年アッシジへ、緑豊かな丘の上に、フランチェスコの墓の上に造られたといわれているフランチェスコ教会へ、しかし一九九七年の大地震により、大きい損傷を受け、修理中のため中に入ることができず樂しみにしていたジオットの「聖フランチェスコ小鳥に説教する図」を見ることはできませんでした。でも「ハレルヤ、ハレルヤ」と歌いつつ丘を登って来る多くの人々に出会いました。
 中腹までラクダに乗ってシナイ山へ。途中は氷雨のような冷たい雨、しかし頂上は晴れて山の向こうから朝日が昇ってきます。シナイの一木一草もない山々。後の山には太陽に照らされた私たちの影が写っています。
 山べにむかいてわれ 目をあぐ
 助けはいずこより きたるか
 あめつちのみかみより
 たすけぞわれにきたる
 エフェソは広大な土地に多くの遺跡。図書館、商店の立ち並ぶ街、道のモザイクは今も所々残っています。、円形劇場で賛美歌を歌いました。
「ここもかみの  みくになれば、
 天地御歌を   うたいかわし
 岩に樹々に   空に海に
 たえなる御業ぞ あらわれたる」
当時の田浦教会の牧師佐藤先生は客席の最上段で、聞いておられ、とてもよく響き、よく聞こえましたとのこでした。
 イスラエルにある「良き羊飼いの野の教会」小さい瀟洒な教会でしたが中に入ると、外国の人達が輪になって賛美歌をうたっていました。私たちも輪に入り一緒に
   「グロリア インエクセルシスデオ
  グロリア インエクセルシスデオ」と
賛美しました。その時の夫の一首
   輪をなして 外国人(とつくにびと)と
      声あわせ
   グロリア インエクセルシスデオ
 ガリラヤのテイペリアスで一泊、朝日がガリラヤ湖の向こうから昇ってきました。度々荒れてペテロを悩ました湖ですがその日はとても穏やかで船で渡りました。
   「ガリラヤの風かおる丘で
    ひとびとに 話された
    恵の みことばを
    わたしにも 聞かせてください」
今は旅行は出来なくなりましたが、本当に恵まれた聖地旅行だったと感謝しております。

311号 私の好きな賛美歌 田中惠美子

311号 私の好きな賛美歌 田中惠美子

 私にとって好きな賛美歌は沢山あります。でもどれかひとつと云われたら旧賛美歌の48番をあげたいと思います。この曲は、私が道を歩いている時、台所に立っている時、掃除をしている時など壊れたレコードのように自然に口遊んでいるのです。心が鉛のような時にはどんな賛美歌でも歌うことが出来ない私なのですが、この曲は不思議とそのような時にも声を出さず心の中で呟くように歌っています。

1.

しずけきゆうべの しらべによせてうたわせたまえ、父なるかみよ。

2.

日かげもやすろう ころにしあれば、父にぞゆだねん きょうまきしたねを。

3.

日ごとわがなす あいのわざをも、ひとに知らさず、かくしたまえや

4.

鳥はねぐらに、ひとは家路に、かえるゆうべこそ いとしずかなれ。

5.

かみよ、この世の 旅路おわらばわがふるさとに いこわせたまえ。

この曲は1896年(明治29年)にアメリカ人の宣教師 A.ベネット夫妻が作った曲です。明治時代以来好んで歌われたそうです。私にとって謙遜で信仰にあふれたこの美しい歌は気負わないで歌うことが出来る一曲です。私達がどんなに苦しい状況下にあっても、神さまが共にいて下さるのですから、この曲以外でも、そういう時にこそ大きな声で心から賛美歌を歌いたいものです。

313号 思い出の讃美歌 長尾俊郎

思い出の讃美歌 長尾俊郎
讃美歌二一 三六二番「創造の主」


 思い出深い讃美歌は幾つかありますが、先ずあげたいのが讃美歌二一の三六二番「創造の主」です。       
私が鎌倉恩寵教会の聖歌隊メンバーになって直ぐの夏季集中練習でこの歌の特訓を受けました。滝口亮介さんの編曲によるコーラス曲でした。男性はバスのみで、女性はソプラノとアルト。タイトルの頭書には「教会歴 神の名・神の支配」とあり、作曲者の上部には「Wilderness」と書かれてあるので、かなり荘厳な感じの歌であることは確かでした。


 歌詞の一番、二番は旧約聖書の「創世記第一章」の天地創造に関する事柄を扱っているので、厳かになるのは当然だと感じました。


 一.創造の主、その指で、宇宙
 を造られた。日よ、月よ、星よ、
 ほめよ、み力を。


 二.全能の主、そのみ手は、大
 地を支える。水よ、雨となり 
 告げよ、み恵みを。


 この歌詞の通り、全能の神様が天地を創造されたことを讃めたたえた部分なので、聖歌隊に入ったばかりの私も思いきり腹筋に力を入れて練習に励んだのでした。
 特に「創造の主、その指で宇宙を造られた」という出だしの部分には、すごくインパクトの強い歌詞だなと驚驚させられました。


 歌詞の三番、四番は天地創造から離れて、神の救済、内在による祝福についての内容です。


 三.救済の主、その腕は 人々
を抱く。来たれ、平和の鳩、示せ、
神の愛。


 四.内在の主、散らされた民を
一つとし、祝福したまえ、共に生
きる日を。


 三番と四番の歌詞は一番、二番とは随分趣が違うように感じます。私にとっては、天地創造のインパクトが強い一番、二番の歌詞に惹かれるものがありました。


 この讃美歌は二〇〇一年十月に戸塚の明治学院大学チャペルで行なわれた神奈川県の教区音楽祭で滝口さんの指揮のもと鎌倉恩寵教会聖歌隊によって歌われました。聖歌隊員になりたての私は心を込めて大声で歌ったのは勿論です。それ以来、この歌が忘れられません。


 不思議なことに、あれから十四、五年経つ現在、この歌を日曜礼拝などで歌ったことがありません。又この歌を歌える機会が訪れることを祈っています。

314号 私の好きな讃美歌 浜本和子

私の好きな讃美歌   浜本和子


 讃美歌を歌いたくて教会へ行きました。
毎週行くようになったのは30年くらい前のことでしょうか。受洗はしていませんでした。


 教会の雰囲気、オルガンの音色に憧れていたのかもしれませんが、ある日のお説教と讃美歌がズシリと胸に迫りました。
 それは讃美歌の197番です。
日常の中に言い訳をしたり、疑いの思いで人を見たり…。自分の身を守ることばかり。そして、その頃よく読んでいた遠藤周作の本の中で、踏み絵の上に残された足の指のことが書かれていました。この讃美歌を歌う時、いつも私は問われている気がします。「あなただったら、どうする」と。


 讃美歌の57番も好きです。
聖地を訪ねたことはありませんが、確か小塩節著、“ガリラヤ湖畔の人々”という写真集で、きれいな空と緑豊かな風景を見た時、私もこの場所でみ言葉を聞いているその時の人々の一人になった気がしました。


 私の勝手な想像ですが、ガリラヤの風かおる丘…は、日本の5月のさわやかな風の感じと思っていますが…
恵みのみ言葉、ちからのみ言葉、すくいのみ言葉、いのちのみ言葉…
満ち足りた気持ちになります。


 相変わらずバタバタとした毎日ですが、心を整える大切な日曜日、皆様と共に讃美歌を歌い、また元気に歩き出す私がいます。

316号 讃美歌と私 藤本悟

316号 讃美歌と私 藤本 悟


主日の礼拝において、讃美歌を選曲してくださる荒井先生、伴奏を担当される奏楽者の方々、また讃美歌奉仕をしてくださる聖歌隊メンバーの方々にも感謝しつつ、毎週讃美できる幸いに感謝したいと思います。


1.讃美歌への思い
『讃美歌21』の「はしがき」に、讃美歌と共に歩むものに対する心構えが記されています。簡潔にして、味わい深い文章です。
「神の民の歴史は賛美歌と共にありました。キリスト者たちは賛美歌によって神の御名と御業の偉大さをたたえ、主イエス・キリストを告白してきました。賛美の声があるところにはいつも聖霊が働き、信仰の交わりが与えられてきました。賛美歌は私たちを信仰に導き、養い育てます。また困難や苦しみ、寂しさを乗り越えさせ、それに立ち向かう勇気を与え、宣教の奉仕へと送り出す力となります。」
この「はしがき」のなかで、一つ気がついたことがあります。讃美歌が「賛美歌」と記載されているのです。その表紙には『讃美歌21』と明記されていますので、誤植ではないかと疑問を抱きましたが、その疑問は次の説明で氷解しました。それは、『讃美歌・讃美歌第二編』の凡例のなかに記されています。
「たとえば讃美歌の「讃」は、正字では「讚」であり、常用漢字では「賛」であるが、我々はわが国キリスト教界の多年の慣習に従い、常用漢字の精神をも汲んで、現在の「讃」を用いることにした。」
「わがキリスト教界の多年の慣習」といえば、讃美歌集には、『讃美歌』のほかに、『聖歌』もありますが、私の数少ない経験では両讃美歌集を併用する教会はなかったように思います。聖歌隊があるのであれば、讃美歌隊という名称もありそうですが、どの教会も「聖歌隊」と呼称されているようです。これも、「わがキリスト教界の多年の慣習」といえるのでしょうか。


2.わが家の讃美歌集と讃美
わが家には、3種の讃美歌集があります。『讃美歌・讃美歌第二編』、『讃美歌21』、『聖歌』です。『こどもさんびか』もあったような気がしますが、今は見つかりません。
これまで礼拝出席した多くの教会では、『讃美歌』を使用していましたが、私が受洗の恵みに与った、超教派の香港日本基督者教会では、『讃美歌』と『聖歌』とを隔週交互に使用し、また、「プレイズ」などを礼拝前の時間に讃美することも経験しました。
伴奏楽器も多様で、会堂ではパイプ・オルガン、オルガン、電子オルガン、ピアノ、ギター、エレキ・ギターを中心としたバンドなど。家庭集会ではリーダーの「音取り」で、無伴奏で讃美しました。
3.讃美歌の楽しみ
礼拝で讃美する際に前奏の間、楽譜の上に表記されている国名、作曲家・作曲された年代などを見るのを楽しみにしています。16世紀に作曲された讃美歌や新興国の讃美歌を讃美するにつけ、時間と空間を超越した信仰者と思いを同じくすることは、礼拝に叶ってすばらしいものだと思います。
主日の礼拝で、5曲の讃美歌が讃美されます。讃詠と頌栄との2曲は定番ですから、残り3曲が選曲されます。定番の讃詠(83)はシューベルトの作曲、頌栄(24)はジュネーブ詩篇歌です。前者は19世紀、後者は16世紀に作曲されました。また毎月1回讃美される「やすかれ、わがこころよ」(532)は、シベリウスの「交響詩フィンランディア」の一部です。クリスマス・シーズンに讃美される「聞け、天使の歌」(263)はメンデルスゾーンの作曲です。
讃美歌集には、時代を超えて、世界各国から多数の作曲家の作品が集められていますが、シューベルト、シベリウス、メンデルスゾーンなどのクラシック音楽の巨匠たちのものも、多く収められています。さらに、バッハ、ヘンデル、ハイドン、モーツァルト、べートーベン、ウェーバー、ブラームス、チャイコフスキー等と綺羅星のごとくで、これはクラシック音楽の源流が教会音楽にあることから、当然ともいえます。
その中で、交響曲からも讃美歌が創作されています。年代順に歌集をみていくと、『讃美歌』にはハイドン「交響曲第93番」から「朝」(28)、ベートーベン「交響曲第9番」から「昇天」(158)収められています。また『讃美歌第二編』にはブラームス「交響曲第1番」から「すべてのもの統らすかみよ」(59)があります。しかし『讃美歌21』ではいずれも削除されているのは残念です。
交響曲に限らず、教会以外では聴く機会が少ない巨匠たちの讃美歌を讃美することは、その作風の新たな一面を味わえることにも繋がり、ささやかな楽しみとなっています。


終わりに代えて
私も教会生活が20年に及び、リピート曲も多数含まれますが、数え切れないほどの讃美歌を讃美してきたことになります。しかし、密かに恥じ入るところは、歌詞を覚えている曲が極めて少ないことです。童謡、歌謡曲などは苦も無く覚えているのとは対照的です。
そこで、礼拝で讃美される讃美歌のなかから、私は少しずつ歌詞を覚えていこうと思います。そして週1回の礼拝での讃美にとどまらず、日々口ずさみながら毎日の生活を過ごしていきたいと願っています。
冒頭に引用しました『讃美歌21』の「はしがき」には、先の文章に続いて、次のように記されています。
「賛美歌は世代を超えて歌い継がれ、時代と共にさらに新しい歌も生まれ続けています、今の時代に生きる私たちもまた、新しい歌で信仰を証ししましょう。」



320号 賛美歌の思い出 服部道子

賛美歌の思い出 服部 道子


 「好きな賛美歌を」と月報の係の方から頼まれましたが子供のころの懐かしい思い出として書かせていただくことをお許しいただきペンを取りました。


 私にとっては一番最初に覚えた賛美歌だと思います。その曲は讃美歌21では402番、旧讃美歌では502番「いともとうとき イエスの恵み・・・」です。まだ小学校に入る前だったかもしれません。私が生まれる前ヨーロッパに留学していた父があちらで集め持ち帰ったレコードがありました。その中にこの一枚がありました。その頃は何語で歌われていたのかも解らずただ聴いているのが楽しかったのです。この曲は讃美歌21略解によると作詞者は福音唱歌作者キャサリン・ハンキーと云う女性で、この方は少女時代から日曜学校の教師をされていたようです。1866年に書かれ、その後作曲者ウイリアム・フィシャー によって曲がつけられ、1869年に出版された曲集に収められました。「TELL THE STORY」はフィアデルフィアで1869年に出版されたパンフレット、「ジョイフル ソングス」に収められました。私が初めて聞いてから80年位、今でもこの曲を歌う時、歌詞の意味プラス懐かしさに涙ぐむ時もあります。この頃から知らない間に神様は導いて下さったのかと思うこの頃でございます。ここで私の拙い文章は終わりますがもう一つ付け加えさせていただきますが、このレコードが造られた時代、両面吹き込むことができなかったのか、このレコードの裏面はつるつるで何も吹き込まれていませんでした。

322号 讃美歌と私 田中美津次

322号 讃美歌と私 田中美津次


シナリオ作家、倉本聰の自伝エッセー集『いつも音楽があった』が出版されたのは三十年以上も前のことです。様々なジャンルの音楽とのふれあいが綴られていました。収められた四十編のそれぞれに音楽との出会いが語られ、流行歌・軍歌・童謡・クラシックなど四十曲の中に、「主われを愛す」「きよき岸べに」「きよしこのよる」「わがたましいを」の讃美歌四曲が登場します。両親がクリスチャンという家庭で本人も幼児洗礼を受けており、普段から讃美歌にふれる環境にありました。いつも音楽に囲まれた生活。讃美歌があたり前のように息づく生活。私の日々もそんなふうにごく自然にふれあっていけたらと思い描きながら三十年が過ぎました。
しかし私と讃美歌との接点はほぼ教会の中に限られたものでした。それでもキャロリングや葬送のときの讃美歌は、礼拝式とはシチュエーションを異にするからか、神のご支配を一層密に感じます。
信仰の先達が遺してくれた讃美歌をいま私たちは歌い継いでいます。特に惹かれる讃美歌は私にもあります。旋律の美しさ詩の美しさに、途中で声が出せなくなってしまい、ひと呼吸おくこともあります。二八〇番「この人を見よ、この人こそ、人となりたる活ける神なれ」、五一五番「きみは神のため何をささげる」、五七五番「その日、その時をただ神が知る」の詩句にくると、楽譜がにじんで続けられなくなります。