イースター

120号 イースター早天礼拝 吉田暁美

イースター早天礼拝

吉田暁美


 四月三日の復活日早天礼拝は、うすぐもりでしたが、風もなく、さほど寒くもない天候のもとで、逗子マリーナの海岸の近くの一角で待ちました。


 今年の参加者は、例年にくらべ、教会学校の生徒の参加が多く、小学生の低学年の子どもから、大人の会員まで、約三十名でした。


 礼拝に、吉田吉彦さんの司会と、証詞によって守られました。聖書はルカによる福音書二十四章一節から十二節まで。証詞では、今年のレントの期間における克己のむずかしさについて体験談を話されました。克己することは、自己の欲望との戦いであることは、頭の中では充分にわかっていながら、現実の社会生活の中で、難問題をかかえたり、時間的においつめられたりするような状態になると、煙草をやめようとしても、気分転換にすってみたり、気をまぎらわすためにすってしまったりでとうとう克己することが出来なかった反省をあかしされました。祈りのあと、みんなで、イースターのよろこびのあいさつを交わし、それぞれ帰途につきました。十数名が教会に行き、教会で朝食の準備をしました。食事を共にした人数は二十名でした。最近教会学校に出席しはじめた子どもたちに主イエスのよみがえりが、今すぐにわからなくても、朝早くおきて、礼拝を守ったこと、教会で皆と一緒に朝食をたべたことが、いつの日かみのりになるようにとねがっています。早天礼拝に出席した会員の方から、復活の讃美歌をもっとたくさんうたいたいという要望がありました。


120 号
1983/5/29


126号 イースターの思い出 羽田時子 

「神与え、神取り給う、神の御名はほむべきかな」

羽田時子


去る一九八二年四月に病夫を伴い米国に向って出発。一過性脳虚血の為に右頸動脈切開手術を受ける云う不安は私に取っては大変な重荷を感じ、この時に祈ると云うことも忘れ自分自身をあやしむばかりであった。


丸き窓天なる声は聴こえざり
飛行は虚し火窯鳴るのみ


 こう言う時に人間の命に対するはかなさ、脆さをひしひしと感じ眠ることも出来ずひたすらに夜の明けるのを待ち遠しく思い、その時に、神はそのひとり子を賜う程にこの世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで永遠の命を受けるためである。そのみ聖言が新鮮に甦りのように心を打ち、はっと夜の明け白らむ空を見ることが出来その感激は、目をあげて高きを見よと、迫る大きなものを感じました。


水平線鮮紅となり夜明け待つ
行きつく処山脈を越ゆ


カステード山脈を越えて目的の地シヤトルに近づく折に、神与え神取り給う神のみ名はほむべきかな。


 このみことばにより危険そして緊急な手術と云う私の心に起って居った大きな動揺をおさめることも出来て心を鎮めシヤトル空港に無事迎えられ感謝でいっぱいでした。


 案じて居った手術も幸い若いドクターの手により成功し、汗だくになって手術室より出て来られたので、ひと言のお礼をのべると、はるばる日本から来て手術をさせて下さったことを光栄に思いますと、その謙虚な態度は心打たれました。

 順調な回復を祝福されて、私と娘は教会に行きました。青い湾を見おろす丘の上に建てられた小さな教会でした。


 聖壇の正面に荒削り等身大の十字架が掲げられてあり、何んともこれには度肝を抜かされてしまいこの時ばかりは言葉は無用と只それのみしか思うことも出来ず、立ちつくし十字架を見上げて居ると、金髪の老婦人がいともやさしく椅子に案内して下さり、そっと腰をおろしては見たものの、余りにも生なましい十字架。釘もて打たれ落ちて居る音さえ聴えるかに感じ、耳を澄まして居ると、讃美歌四九六番、うるわしの白百合の曲が流れ、ほっと我れに帰ると同時に世界にひろく歌われ讃美と愛のキリストのみ業が、この異国に来て聴き知ることが一層の強い感激となり、全世界人類の救いであるイエスキリストを、しかとこの肉体を通して更に新しくあがめる事が出来て感謝にあふれる泪は止めどもなく流れ落ちて清められ、あらためて又も言葉無用只信ぜよとの思いを深められました。


 帰りの車の中で、お母さんが泪をこぼしたので私も出してしまったと娘に云われ、この泪こそ母娘共に尊く大切にしています。


十字架を十字架を見よとおらぶ
声白き火箭飛ぶ山上の教会


126号   1984/5/27

126号 イースターの思い出 川村智子 

「忘れられない早天礼拝」

川村智子


 戦争が終り、疎開先の長野から帰って間もなく、父が日曜学校に連れて行ってくれた。そこは建物全体がトタンで出来ているカマボコの型をした葉山教会だった。 日曜学校の生徒数も少なく、それでも熱心に通っていたのでいろいろの思い出はあるが、イースターというときまって思い出す苦い体験がある。 両親のあとについて葉山海岸での早天礼拝に初めて参加した時のこと、ほとんど大人ばかりの礼拝で何人かの方々が祈ったあと突然「では次に高木智子さん祈って下さい」と、両親ではなく私が指名された。祈りといえば、日曜学校の献金の祈りしかしたことのない私が、ドギマギしながら二言三言祈ったらあとの言葉が続かずで、長い長い沈黙。その時の気持ちは三十年以上過ぎた今でも忘れることが出来ない。何故、短い祈りで終りにしなかったのかと後になって思った。それ以来、人前で祈るということにある種の恐怖をおぼえるようになった。 この苦い体験のあと、我が家で家庭礼拝と称して、毎晩夕食後に簡単な礼拝を行うようになった。一日に一章ずつ聖書を輪読し、交代で好きな讃美歌を選んで四部合唱をし主の祈りとアーメン三唱で終る。特別の日丈父が祈った。五人の兄弟一人一人に一つずつ聖句を暗唱させて、少なくともその聖句の精神で生活するようにと父から言われたのもこの頃だった。 イースターには家族全員四時頃起きて、簡単な朝食のお弁当を作り、気の短い父にせきたてられて五時頃早天礼拝に出かける。行く先は海岸だったり山だったり年によって異なったが、三月末頃の早朝のこと、ほとんど毎年オーバーなど着て出かけた。目的地に着くと家族丈で礼拝をし、そのたと同じ場所で朝食を広げる。何年続いたのか確かな記憶はないが、私の青春時代ではかなりの位置を占めていた。二週間後に結婚式をひかえた年のイースター早天家族礼拝は兄嫁も加わり特に印象深かった。これで家族礼拝も終りになってしまったわけである。 今年のイースターには恩寵教会の方々と、鎌倉の海岸で、私にとっては十八年ぶりのイースター早天礼拝を守らせて頂いて感謝感激であった。 これからは親の立場でも家族礼拝を守りたいものと願いつつある。


126号   1984/5/27

126号 イースターの思い出 岩楯幸子 

「イースターに思うこと」

岩楯幸子


 「あの日は日曜日、とても晴々とした日でね。」常にやさしい顔を一層やさしくして母は末っ子の誕生日の日を語るのです。五人の子供達はご馳走のテーブルを囲みながら、話に聴き入り、前にも聞いたことのあるこの話の途中で、一斉に笑いだそうと待ちかまえるのです。
 話の続きは次の様でした。いつも孫の命名は祖父の役目でしたが、今度は、「男児の名前は考えたが、女児の名前は品切れ。」と言われて母も当惑したが、今度こそ自分達の好みの名前を付け様と心に決め叔母が置いていったカードに画かれた白百合の美しさ!そうだ百合子が良い。どうか名前にふさわしい子であってほしいと願ったそうです。予定通り四月十九日の朝無事出産。祖父や父の期待に反して四女の誕生。隣りにスヤスヤ寝ている顔は丸顔でどうしても百合子とは名付けにくい。名前の選択に窮している時、叔父が名付親になろうと申し出て、“幸子”と名付けたと言うのが私の命名の次第で、ここで三人の姉妹は大いに笑う。私は少々プライドを傷つけられながら改めて鏡の中の自分を観察して仕方なく納得し、「いいわ、名前の様に幸せになるもの。」と意気込み、人の幸せは外見でなく心の問題であると母も大いに私を慰め励ましてくれたものでした。然しこの話は長い間すっかり記憶から薄れてしまいました。
 五十六年のイースターは丁度私の誕生日と重なり、いままで眠っていたこの記憶が何か意味ありげに想い出されました。当時の生き証人である叔父に問い合わせましたところ答は次の様です。「幸の字は山上の垂訓の“幸福なるかな”から頂戴したのだよ。」であり、この幸いの意義の深さと重みに驚きは増すばかりです。
 両親は単に幸多かれとの願いを私の名に託したと思はれますが、私の人生のスタートは平穏無事とは参りませんでした。父は私が満一才にならぬうちに急逝し、その三年後祖父も他界したのです。
 以後母の献身的な愛と祖父の周到な経済計画に支えられて五人の子供は明るく育てられ、母の希望通りキリスト教主義の学校に進学いたしました。
 在学中に与えられました霊的な種は、敗戦の激動と兄の病死など相続ぐ困難と失意の中で、
むしろ培われ、ゆらぐことのない確かさの中に根を下し方向づけられていったと思います。
 “悲しみがなくなる事を幸福と思う者は、永久に幸福にはならない、むしろ悲しみがどの様に慰められるかを真に知るものが幸福である。”とのカールヒルティの言葉が復活節の頃自分の命名の由来と相まって明確に浮び、至福のさいわいの意義の高さと重さを改めて感じるものです。


126号   1984/5/27

131号 受難週を迎えて 服部敦雄

131号 受難週を迎えて 服部敦雄


 受難週とはイエスがエルサレムに入城された日曜日から、復活の前日迄の一週間を言います。そして福音書では其のエルサレム滞在六日間の出来事を次の記事で纏めております。
(日)エルサレム入城
(月)宮きよめ
(火)論争 譬話 終末 予言
(水)ベタニヤでの塗油 ユダの裏切
(木)最後の晩餐 捕縛 審問
(金)ピラトの審問 十字架 埋葬


此の受難週にあたりマルコ福音書を顧みたいのです。此の福音書は詳細な序論がついた受難史だと言われ、其の中心的関心はイエスの受難で占められております。殊に十一章より十六章にあるエルサレムの出来事の中で、十四、十五章は受難物語と呼ばれ其の中心をなしています。其の中でも十四章一節から十一節迄に私は関心を持ちます。此処では祭司達がイエスを殺そうと企て、ユダが裏切りを約束する記事の中にナルド香油の物語が挿入されているのです。何故此の物語が冒頭で取り上げられたのでしょうか。
 イエスを殺そうとしている人達、そして一方ではイエスに対し敬愛の念を示す一人の女の行為の対比を、明確にするのが其の狙いであったとも解釈されます。然し此の油注ぎの行為が、イエスの受難を指し示す予言であった事も見逃せません。油を注ぎかけた事は、これから死地に赴こうとするイエスが、本当はキリストであり、救済者である事を暗示しているのです。此の女は其の様な深い意義も知らず、唯心からの敬愛をもって行ったのでしょう。然し八節にあります様に「此の婦人は出来る限りの事をしたのだ。それは葬りの用意であった。」と言われ、九節にあります様に此の行為は全世界のどこでも記念として語られる様になるのです。マルコの中心的関心が受難にあったとするなら、此の最初の描写は鮮かに陰謀と敬愛の対照を描き出しているのです。そしてナルドの香油を注いだ婦人はマルコにとって、八節に示されてあります様にイエスの受難の重要性を認めた最初の人となるのであります。此の様にして此の女はマルコに於て、受難物語の始めに取り上げられる事になったのだと考えるのです。
 其の行動によって死と復活に至るイエスの道は、此の使者の決定的中心である事が強調されております。そして此の女には意図もなければ目的もありません。それ故に女の言葉は何一つ記されてありません。然しイエスだけは此れを受けとめられたのです。天国とは言葉を発する必要のない所、言葉と事実が一致する故に、愛を誓う事も意味を説明する事も必要ないのです。唯イエス一人が無言の出来得る限りの事を受けとめられたのです。そして其の瞬間、此の女はイエスの死と復活に共にあずかる者となったのです。
 受難週を迎えるにあたり此の物語りでの、無心のそして唯敬虔なる一人の女と、イエスの深い恵みに考えを新たにするのです。
 

162号 イースターの想い出  林美子

162号 イースターの想い出  林美子


 イースターと言えば先ず思い出されるのは私の子どもの頃です。日曜学校で頂く赤青黄の色卵。殻を割ると白身までほんのり色が染まっている。また聖句とか花が描かれているものもありました。イースターの朝早く私が台所を覗くとテーブルの上に母と祖母が日曜学校の子ども達の為に一晩がかりで作った色卵が沢山並べられていて、そっと触るとまだ少し湿り気が残っていました。私の父は公務員でしたが、本職以上に熱心に日曜学校の友達と一緒に父に連れられシオン山へと早天礼拝に向かいます。住宅を通り抜けると畑地の彼方にこんもりした繁みのやゝ小高い丘が見えて来ます。


 今では此の辺りは既に開発されて当時の面影は何も残っていませんが…。私達がシオン山と名付けた此の丘の上で聖書とお祈り、そして皆の大好きな讃美歌を声高らかに歌います。


”しののめに鳥歌えり 
朝風に鐘ひゞけり”
我が主の君ぞこの日に甦れる”


 五十余年前の歌声が今も鮮やかに蘇って参ります。


 ところで最近の二年間のイースターは敬愛する内藤先生に続いて私の母の召天という辛く悲しい思い出となってしまいました。


 一昨年の受難週では田中義助先生の熱い祈りと内藤先生より聖餐を頂き、礼拝の説教で”朽ちゆく我が身故に今日を精一杯生きよ。”と伺って感謝の中にイースターを迎えましたのに…。先生の突然の召天は信じ難い試練でした。


 この翌年の奇しくも同じ日に母が八十九歳で急逝したのです。イースターの前に帰郷した私に、母は少し厳しい句調でためらい乍ら孫達が教会に行くように、とすすめるのです。永く父の伝道を助けていた母にして見れば、若い者の考えを歯痒く感じていた事でしょう。私は心の内を見透かされた思いでした。


 母はイースター当日体調が良いからと、久し振りに家族に伴われて教会の礼拝に出席し、古い会員の方々の前で家族への信仰の継承について日頃の想いを語ったそうです。今年もまたイースターが巡って参りました。あの時の母の言葉は私や孫達への遺言であったと今しみじみと思っております。

245号 【「レント」に想う 】 高田 昇

【「レント」に想う 】月報245号      1055字
            高田 昇


 私は今、レントの歩みの中で人生の苦難について思いめぐらせています。
 主の凄絶なご受難と、使徒たちの悲惨な殉教に想いを馳せる時、信教自由の現代では、殉教を強いるほどの信仰的迫害はなく、いわば宗教の順境時代にあって、かえって私たちの信仰は甘くひ弱なものになってはいまいか。主の私たちを愛しつくされた故のご受難に対し、私たちには主に殉教的誠実さで仕えつくす程の信仰があるかどうかが問われてまいります。
 思うに、信仰にはさまざまな段階があります。私は五十年以上の信仰生活を有しますが、悲しいことに今なおしばしば信仰の迷いを経験するのです。前世紀の大戦時におけるナチスのユダヤ人迫害や広島・長崎市民の被曝、今世紀になってアフガン・イラク国民の受難など、いわれなき不遇の事実を前にして、「主よ、どうして?」と心の動揺を覚え、「世界正義はいずこに?」と懐疑が生じます。私はより強く、より深く、より明らかな信仰に導かれなければならないと思うのです。 
 言うまでもなく私の信仰の糧は聖書にありますが、とりわけ信仰の内省的静思のときはヨハネの福音書を多く繙きます。それは信仰者を対象とし、迫害の受難にある彼らを励まし助けるために書かれたものと思われます。同じ福音書でも共感福音書は主イエスのなされたみ業と教えが多く語られ、群衆への福音宣教に力点がおかれていますが、ヨハネ福音書はイエスが何者であるかに力点をおき、『言、道、真理、生命、世の光・・・・』あらゆる表現を使って主イエスの人格を描き、その主の与える生命のすばらしさを強調し、より完全な真実な信仰に導くことを主眼として書かれているからです。
 さて人生において経験する苦難についえ、聖書は何と語るか。私はヨハネ福音書 九章一、三節のみ言葉に強い衝撃を受けました。主は生まれつきの盲人を見て、それは神のみ業の現れるためであるとおっしゃるのです。この世の中には誰の罪でもない艱難があり、その苦難のうちに神の栄光と祝福が宿るという。私はこの至高の権威のみ言葉にただひれ伏す外はありません。そして、ヘレン・ケラーやレーナ・マリアの面影を頭に思い浮かべながら次のような思いに導かれました。即ち、いわれなき艱難にあってもその艱難のなかに人生の課題をみ、その運命の意味を読み取って、これに耐える努力をするところに人間精神の崇高さがあるのだ、と。
 『あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。』 ヨハネ福音書十六章三十三節 (高田 昇)

221号 振り返りみて(レント)三嶋信

221号 振り返りみて(レント)  三嶋信


 三月はレントの月、この月こそ、心を掘り起こし、静かに思いを深く過ごさねばならぬ。


 この時期世上では、年度替りであり、学校ではこれまでのクラスから次へと進級する時である。毎年それが繰り返され永い歳月を経て来たが、西暦二〇〇〇年を迎えた今、どのような時を積み重ね今日に至ったか、個人のささやかな軌跡であるけれども今日のそれとは時代を隔てて一つの感慨であるので振り返って御恵の中にあった子供の頃のことを記してみることにした。


 それは一九三〇年前後の頃の神戸のひとすみの地域での子供たちの世界の一部の写し取りである。


 当時、それぞれの家庭には兄弟姉妹が多く、従って住宅地では隣り近所沢山の友達がいた。学校から帰ると車の通ることのない道路や空き地、広っぱで日が暮れる迄、鬼ごっこ、隠れん坊などで遊んだものだった。


 そして、日曜日が来ると、週日に学校へ行くのと同じ様に隣り近所の友達を誘い合わせて日曜学校へ出かけた。(日曜日にある学校の意味で、当時はこの呼び名以外にはなかった)殆ど信者の家庭ではなかったが、子供達が日曜日も規則正しく目覚め日曜学校へ行き「良いお話」を聞く事には賛成で、子供を日曜学校に行かせる事にやぶさかではなかった。


 日曜日まで部活動があり縛られる今と違い、テレビ、テレビゲームも勿論、塾もなかった。週日には学校へ行き日曜日には日曜学校へ、それが子供達の生活の習慣となっていた。


 日曜学校の建物はやや大きめの普通の住宅で、部屋数も多かったので分級も出来た。机、椅子ではなく畳に座っての礼拝であり、先生は皆若い男性でいられた。(女性は当時家事労働に忙しく外の活動をする余裕はなかった。)讃美歌の歌詞が模造紙に縦書きに墨痕鮮やかに書かれてあり、沢山の讃美歌の数だけ綴じられ、T字型の木の枠にセットされていた。「神の恵みはいと高し…」繰り返し歌った讃美歌は柔軟な頭脳に刻み付けられて終生忘れることはないであろう。


 先生方は皆良いお声の持ち主でいらして、お話が大変お上手であられた。礼拝でのお話は讃美歌と同じく脳裏に強く印象づけられた。時々戴く美しい小さなカードは楽しみであった。


 便利な電気器具も無かった時世に友達揃って素朴な礼拝に連なったことは深い御恵である。


 やがて勃発した戦争で何もかもちりぢりになってしまったが、その時代にも、また現在も神の御恵の中に在ることは、ただただ感謝の他はない。

222号 わたしのレント 平野絢子

222号 わたしのレント 平野絢子


 イースターの前日の朝、鏡の前に座ってぼうっと考えた。《明日は菓子パンが食べられる。》次にイエスの復活のことを考えた。夜、母にこの事を話した
ところ、同じく《明日はチョコが食べられる。コーヒーも飲める》と思ったという。


 ? これはイカン


 話は三月に遡る。CS中高科での菅根先生のお話で「レントの期間中自分の一番好きなものを我慢する人がいる」と聞いた。そこで私は「菓子パン絶ち」を宣言。母には、チョコとコーヒー絶ちを勧めた。これが二人のレントの始まりだった。菓子パンを食べたいと思うたびにイエスの受難を思い起こしたが、何かおかしい。そして、イースター前日に、その思いははっきりとした。


 「菓子パン絶ちとイエスの受難は比べようがないのに、菓子パンを食べる喜びが命の喜びに優先している。」と母。「菓子パンによって、イエスの受難と復活がないがしろにされている」と私。「我慢するというのは、イエス様のために頑張っているようで他宗教のような感じがする」と母。「一番好きなものを我慢して受難を覚えるのも考えものだ」と私。

240号 イースター諸行事 (松本繁雄、荒井雅、野村信子)

240号 イースター諸行事 (松本繁雄、荒井雅、野村信子)
洗足木曜日/松本繁雄、 イースター早天礼拝/荒井雅、イースター墓前礼拝/野村信子


洗足木曜日   松本繁雄
 ことしは四月十七日が洗足木曜日で、礼拝に先立ち参列者一同で夕食を共にした。例年どおりシチューにパン、サラダと「恩寵マーマレード」の食事に教会学校の生徒も加わり和やかな食卓だった。


 食事のあと荒井牧師の司式で夕礼拝へと移った。レントにちなんだ讃美歌と聖書朗読が交互に繰り返され、聖歌隊による合唱『マタイ受難曲四〇番』も加えて七曲の讃美歌が捧げられ、会衆は主の受難に対する思いに感動を深くした。聖書はマタイによる福音書二六章一七節〜七五節、二七章一五節〜五六節が五回に分けて朗読された。


 讃美歌と聖書朗読の間に、主の最後の晩餐を想起して聖餐式が執り行われた。司会者によって大きな一塊のパンとぶどう液が会衆の前に運ばれた。会衆はそのパンを千切りぶどう液に浸していただいたのである。大変感銘深く、感謝に満ちた礼拝であった。


イースター早天礼拝  荒井雅


 四月二十日(日)イースターの朝六時に、早起きをして早天礼拝に出席しました。朝早くて眠かったのですが、教会には大人の人たちや子どもたちも集まってきました。礼拝では讃美歌を歌って、聖書を読んでから、田中英雄さんのお話しを聞きました。弟子のトマスがイエス様の復活を、証拠を見なければ信じないと言ったときに、イエス様が「見ないで信じる者は幸いである」とおっしゃった個所が印象的でした。お話しが終わってから、また讃美歌を歌ってお祈りをして終わりました。


 礼拝後はみんなで朝食の準備をしました。手作りのパンに、教会のマーマレードや、卵、ソーセージ、シーチキン、きゅうり、レタスなど自由にはさめるように用意し、紅茶と牛乳もありました。いつもの教会学校とはまたちがう雰囲気で、とても楽しく過ごしました。


イースター墓前礼拝  野村信子


 今年のイースターは四月二十日午後一時に、雨の中、約三十名が、荒井牧師の司式で賛美歌三百二十五番を歌い、コリントの信徒への手紙Ⅰ・十五章四十二〜三節をテーマに、私たちは将来、だれしもが必ずこの世での命を失うが、ここに憩う五十一名の方々と共に「輝かしく」、「力強く」復活するとのメッセージを頂き、散会した。

287号「今年のレントは・・・・・」田中和子

287号  
「今年のレントは・・・・・」      田中和子


 レントに入り、主イエスの十字架の死と、復活に思いめぐらす時を迎えました。若い時(50年も前です)は「克己献金」と書かれた袋を戴き、イースター礼拝の時に捧げました。レントの月、二月・三月は、入学試験や進級の時期なので、自分自身の時も、親となってからは、子どもたちの入学・進級・転校などに気を取られていました。この時期を、信仰への思いや反省もなく、バタバタと過ごし「イースターおめでとう〃」と迎えていました。
「主イエスの担われた苦しみに思いを寄せ」とのメッセージをいただいて、レントの時を過ごすようになったのは、ここ20年程と思います。鎌倉恩寵教会出席歴と重なります。
 「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った(ルカ22・32)」この時期、励まされる大切な聖句です。「だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力ずけてやりなさい」と続きます。
 3月11日,東日本に大震災が起きました。新聞のコラムの記者が―方丈記に「恐れのなかに、恐るべかりけるは、ただなゐ(地震)なり」とあり、日本は大昔から、この災害に苦しんできました―と書いています。今回はさらに原発の事故の不安も重なりました。これだけの災害を前にして、人はあまりに無力で、言葉もなく祈るのみです。ただ、今はインターネットで個々の思いが綴られ、支援の輪へとひろがっていることを知り、「恐れることはない」との御言葉に、より力づけられる思いです。
 この大災害に、私たちが打ちのめされないようにと、主が祈っていて下さる。このつらいレントの時を、この祈りに支えられて、思いやりと、知恵を出し合って、必ず立ち上がれると信じ、願います。
受難聖餐礼拝の祈りの時を、大切にしたいと思っています。

306号  イースター早天礼拝

306号  イースター早天礼拝
 今年のイースターは4月20日。
昨年は3月末でしかも雨天のため、CSの子ども達との源氏山での早天礼拝は
残念ながら教会の集会室で守りました。(平野校長はフランスでイースター)
今年は山へ行けるかなと、お天気がとても気がかりでしたが、前日の雨も上がり6時半に教会集合。(私はちなみに4時半過ぎに起床。集まってくる子ども達の顔を思い浮かべながら、源氏山での朝食準備)
 集合時間に集まってくる子ども達の顔は元気いっぱい。朝の新鮮な空気を吸いながら銭洗い弁天の坂を登り、多少間違えながらも源氏山公園に到着。
重い荷物は登内さんが車で運んでくれました。
 ソメイヨシノの桜は既に散っていましたが、八重桜はまだ咲き誇り何といっても前日の雨に洗われた新緑の美しい事!こんな緑に囲まれた静かな場所で礼拝を守れることに感激!!
 讃美歌を歌い、聖書を読みそしてイエス様が復活されたお話を校長先生からうかがいました。その後、みんなで芝生にシートをひいて輪になって頂く朝食は、ちょっぴりピクニック気分でした。少し離れたところでは、雪の下教会のCSの生徒さんが礼拝を守っていました。
 今回の出席は児童ホームの子ども達6名と先生2名。平野校長、田中義宣
登内えいじのCS教師、山本栄治親子、阿部美子、嵯峨道子の計15名でした。
 足に自信のある方は是非、来年のイースターは源氏山でご一緒致しましょう。
                            (嵯峨記)

306号 イースター墓前礼拝 朝倉万喜子 

306号 イースター墓前礼拝 朝倉万喜子 


今年のイースターの墓前礼拝には教会からマイクロバスが用意されました。教会を出発したバスの乗員は18名、案じていた交通渋滞にも出会わず新緑の中、咲き始めた薄紫の藤の花も爽やかな鎌倉の山々を眺めつつ走ります。「このまま温泉へ行きたいわ」、「今度バス旅行をしたいわね」、こんなおしゃべりで賑わっている中に早くも鎌倉霊園に到着です。時間に余裕があったので休憩所で一服、そして教会墓地までバスで運んでいただきました。


 初代牧師内藤協先生の礼拝堂よりなによりも先に「墓地を作りましょう!」との一声で作られたこの教会墓地、その当時の先輩たちの言葉をかりると「借家住まい、礼拝堂もない、お金もないのに先ずお墓をつくったの」ということでした。鎌倉西口に種を播かれた伝道所の小さな群れは心安らかに礼拝をまもり大きな群れとなりました。教会墓地に眠る方達もそろそろ現住陪餐会員の数に近くなっているのではないでしょうか。この世での旅路を終え神の国へ招かれ、そこで又多くの先人たちと会いまみえる時を与えられている、何と大きな恵みでしょう。


 バスを降りるとマイカーでの方々も到着、墓には沢山の花が柔らかい日差しのもとに揺れています。椅子が並べられ礼拝がはじまりました。讃美歌の合間に時々鳥の声が聞こえます。故人となられた方々の顔がうかびます。


 この教会墓地の道路をはさんでの向かい側には1992年に召された小口文子姉が眠られています。かれこれ10年近く前でしょうか、その頃お元気だった内藤美枝子さんにお供して墓前礼拝の後お参りして、霊園前のバス亭までゆっくり歩いてきました。穏やかな暖かいイースターでしたが車は大渋滞、待てど暮せど姿を現しません。1時間以上も立ったままおしゃべりに時間を忘れました。


 松崎百合子姉にはいつも車にのせていただきました。7分咲きの花の下、ある年は葉桜になり、ある年は桜吹雪のなかを、そんな時松崎姉は「きれいね~、来年はこの花の下を通れるかしら・・・」と歓声を上げていらしたのです。松崎姉が召されたのは3月30日、その年の桜の花を覚えていません。


 少し気になることもありました。いつもはご家族で必ずいらしていた方の姿が見えない。ご高齢とお見受けしていたので体調を壊されたのではないでしょうか・・・と。


 帰りのバスの中は14,5名、少し減りました。教会前まで送っていただき散会となりましたが、疲れることもなく皆さん夫々に帰途につきました。今年のマイクロバスの用意は大変に有難かったと思います。みんな一緒なので少しの交通渋滞は気になりませんし、何しろ安心安全です。担当の方有難うございました。