マーマレード

( お仕事会 火曜会 )

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(藤本)

144号 マーマレード作り 山本律子 

マーマレード作り

マーマレード作り 144号


 新しい年を迎え1月も半ばになると今年もマーマレード作りが始まりました。毎週火曜日の午前中、15・6名が教会に集まり身支度よろしく大きなテーブルに必要な道具のあれこれがさっと整えられ、きれいに洗われた夏ミカンの皮をむく人、きざむ人、みを取り出す人、そのチームワークのよさは見事なものです。
 やがてミカンのさわやかな甘い香りが階下を包み始め恩寵マーマレードが出来上がっていきます。 
 初めてザーにマーマレードが登場したのは確か昭和45年頃と記憶しています。その前年当時お元気だった辰巳浜子さんの講習会でおいしい家庭の味の作り方を教えていただき、最初は少量作って見た処「いいじゃない、教会で皆で作ってバザーに出しましょう」と云う事になり試行錯誤を重ねて現在のようなスタイルが定着してもう10年以上になります。無農薬のお庭の夏ミカンを喜んで提供して下さる方々、お砂糖をそっと置いていって下さる方、何より教会のジャムだからと沢山買って下さる大勢の方々、そして忘れられないのは、こんなマーマレードの輪を育てて下さった亡き成田シズ姉の大きな存在です。教会のレッテルをつけて一人歩きしていくマーマレード、私達一層心を込めてと話し合って居ります。 (山本(律)記)

179号 ママレードの歴史 野村信子

ママレードの歴史     野村信子       

 夏みかんの熟す二月近くになると、お仕事会のママレード作りが始まります。夏みかんを四つに切り実と皮を分ける人、皮をスライサーや包丁で薄切りにする人、実を袋から出す人など、みな黙々と手を動かします。いいえ、本当は黙々とではなくその賑やかなこと。でも手は決して休みません。
 今は自分でジャムを煮たり、ケーキを焼く人が大勢いますが、二十数年前に多くはいませんでした。ママレードは夏みかんを食べた後の皮で作るものであり、実を入れるものとは知らない人もいたのです。
 このママレード作りは母の思い出でもあります。私の子供の頃から母は朝食のためにママレードや苺のジャムを作りました。今は和菓子でも甘さひかえめが好まれるそうですが、梅雨時でもかびることがないように、果物の目方を計り、それと同量の佐藤を入れて、こってりととろみのある甘いママレードを作っていたものでした。
 バザーを催すことになった時、バザーに向いているオリジナルな品はないかと考えられたのが、ちらしずし、パウンドケーキとママレードなのでした。
 初めてのバザーの時から、庭になった夏みかんを献品して下さる方があり、以来ずっとママレード作りは続いています。はじめのうちは、空びんを持ちよりそれに詰めていましたが、教会を支えて下さる方が多くなって、作る量がふえてからは袋詰めになりました。
 今は教会に大きなお鍋も備えられ、一日に一五〇袋、四十五キロものママレードを作る日もあります。バザーで好評のママレードにはこんな歴史があります。

323号  恩寵マーマレード今昔物語(1)

323号  恩寵マーマレード今昔物語(1)


一.恩寵マーマレードの源を辿りて
 時は西暦一九六八年三月三日、鎌倉恩寵教会が、鎌倉恩寵伝道所として、呱呱の声をあげし記念すべき日なり。鎌倉駅西方への開拓伝道の灯を点さんと、内藤協牧師と共に三三名が集いて、はじめての聖日礼拝が守られたり。
 内藤牧師は、「信仰と伝道の決意」ガラテヤ人手紙一章〜二四を説き給い、「・・。この新しい群の長い困難な教会形成の道を助け励まして下さい。私たちに、外側ではなく、内側を大切にする事を教えて下さい。あなたのみことばに従うたたかいを、私たちがここで真実になす事が出来ますように、アーメン」と祈られし。
 所は御成町の永松アツ姉宅。四季折々の花と緑の木々に囲まれた庭の奥深くにありし家なり。日本間二室を礼拝所として、講壇とオルガンを据えつけ、座布団、茶器などを皆で持ち寄りて備えん。二つの部屋は、大人三三名、子供三名が集いて、はち切れんばかりなり。
「新しい教会に足を踏み入れた時、オルガンの伴奏で讃美歌が聞こえて来た。とたんに云い知れぬ涙が大きな目から止め度もなく流れ、その日は感激の為めに讃美歌を歌う事も出来なかった。・・・。
 ささやかな滴も流れ行けば海となり、こまやかな真砂も積れば山となるという。今踏み出した我が恩寵教会も此後色々な苦難に出会う事と思う。その時こそ内藤先生を中心として、我々は手を組み合い、急がず、無理をせず乗り越えて、堅実な教会を築き上げねばならない。」
と、文集「恩寵のわだち・一九七六年八月」に矢野ふく子さんは寄稿せられし。
 月報一号から九号までは、借り集会所:御成町一七ー二〇と記されたるが、十号よりは鎌倉恩寵伝道所として、佐助の地が記されたり。
 内藤協牧師は、月報二号(五月五日発行)にて、エペソ人手紙二:二一より
「私達が此処に教会を建てる事を主よって始めてから二ヶ月が過ぎた。数々の感謝と欣びの徴を与えられている。人間と人間が心と生活をぶつけ合って、キリストを首石として教会を建て合わせる事は、この数々の感謝と欣びの徴にも拘らず、決して決して容易な事ではない。・・・。
 人間と人間の間に激しい火花が散らされ、人間と人間の心がキリストによって溶接されて行く事が、どうしても起らなければならない。
教会建設基金への献金する時に、小さな奉仕の実りを献げる時に、私達は、教会建設への物的参与を通して、教会とは何か 本当にこの事を通して、自分が関わろうとしているものは何か、と云う問いかけの前に、立たされるのである。」と説き明かされたり。
 集いし群は、伝道所発足のため、特別献金を捧げ、銀器三キログラム、座蒲団四二枚他の献納もせし。会堂建設は皆の願いであり、祈りなり。三月二八日、婦人九名によりて第一回「お仕事会」が開かれ、先ずは、時の運営委員渡辺武雄兄経営の会社より、ブレーキオイルに添付するネル布を断ちし仕事を与えられたり。
 後、渡辺文子さんは、「石油缶に入った自動車の不凍液を小さな瓶に移す作業で、最初は机も床も油だらけで大変でしたが、段々上手になって、小瓶は次々と箱につめられて運ばれます。これらの収益はすべて教会の建設献金に捧げられました。」と、月報二四九号に寄稿されし。
 現にては、お仕事会なるもの、概ねマーマレード作りが主になりしが、先達の残されたる文に目を通したれば、群の心が一つになりて、為せる術を絶ゆることなく探りつつ、思いと手の技を捧げられん。
    かようにして五十路を経たりて現の様になりしことに、胸がいと熱くなりけり。
 次の回にては、お仕事会にマーマレード作りが加わりたる流れを辿りたし。  
 参考:鎌倉恩寵教会二十年史
  月報一号〜二〇号、一三一号、二四九号。
  文集・恩寵のわだち

324号 恩寵マーマレード今昔物語(2)

324号 恩寵マーマレード今昔物語(2)


一.恩寵マーマレードの源を辿りて
 時は西暦一九六八年三月三日、鎌倉恩寵教会が、鎌倉恩寵伝道所として、呱呱の声をあげし記念すべき日なり。鎌倉駅西方への開拓伝道の灯を点さんと、内藤協牧師と共に三三名が集いて、はじめての聖日礼拝が守られたり。
 内藤牧師は、「信仰と伝道の決意」ガラテヤ人手紙一章〜二四を説き給い、「・・・。この新しい群の長い困難な教会形成の道を助け励まして下さい。私たちに、外側ではなく、内側を大切にする事を教えて下さい。あなたのみことばに従うたたかいを、私たちがここで真実になす事が出来ますように、アーメン」と祈られし。
 所は御成町の永松アツ姉宅。四季折々の花と緑の木々に囲まれた庭の奥深くにありし家なり。日本間二室を礼拝所として、講壇とオルガンを据えつけ、座布団、茶器などを皆で持ち寄りて備えん。二つの部屋は、大人三三名、子供三名が集いて、はち切れんばかりなり。
「新しい教会に足を踏み入れた時、オルガンの伴奏で讃美歌が聞こえて来た。とたんに云い知れぬ涙が大きな目から止め度もなく流れ、その日は感激の為めに讃美歌を歌う事も出来なかった。・・・。
 ささやかな滴も流れ行けば海となり、こまやかな真砂も積れば山となるという。今踏み出した我が恩寵教会も此後色々な苦難に出会う事と思う。その時こそ内藤先生を中心として、我々は手を組み合い、急がず、無理をせず乗り越えて、堅実な教会を築き上げねばならない。」
と、文集「恩寵のわだち・一九七六年八月」に矢野ふく子さんは寄稿せられし。
 月報一号から九号までは、借り集会所:御成町一七ー二〇と記されしが、十号よりは鎌倉恩寵伝道所として、佐助の地が記されたり。
 内藤協牧師は、月報二号(五月五日発行)にて、エペソ人手紙二:二一より
「私達が此処に教会を建てる事を主よって始めてから二ヶ月が過ぎた。数々の感謝と欣びの徴を与えられている。人間と人間が心と生活をぶつけ合って、キリストを首石として教会を建て合わせる事は、この数々の感謝と欣びの徴にも拘らず、決して決して容易な事ではない。・・・。
 人間と人間の間に激しい火花が散らされ、人間と人間の心がキリストによって溶接されて行く事が、どうしても起らなければならない。
教会建設基金への献金する時に、小さな奉仕の実りを献げる時に、私達は、教会建設への物的参与を通して、教会とは何か 本当にこの事を通して、自分が関わろうとしているものは何か、と云う問いかけの前に、立たされるのである。」と説き明かされたり。
 集いし群は、伝道所発足のため、特別献金を捧げ、銀器三キログラム、座蒲団四二枚他の献納もせし。会堂建設は皆の願いであり、祈りなり。三月二八日、婦人九名によりて第一回「お仕事会」が開かれ、先ずは、時の運営委員渡辺武雄兄経営の会社より、ブレーキオイルに添付するネル布を断ちし仕事を与えられたり。
 後、渡辺文子さんは、「石油缶に入った自動車の不凍液を小さな瓶に移す作業で、最初は机も床も油だらけで大変でしたが、段々上手になって、小瓶は次々と箱につめられて運ばれます。これらの収益はすべて教会の建設献金に捧げられました。」と、月報二四九号に寄稿されし。
 現にては、お仕事会なるもの、概ねマーマレード作りが主になりしが、先達の残されたる文に目を通したれば、群の思いが一つになりて、
五十路を経たりしことに、胸が熱くなりたり。
 次の回にては、お仕事会にマーマレード作りが加わりたる流れを辿りたし。  (フクロウ)
 参考:鎌倉恩寵教会二十年史
  月報一号〜二〇号、一三一号、二四九号。
  文集・恩寵のわだち
恩寵マーマレード今昔物語


二.建設会計と恩寵マーマレード
 恩寵伝道所発足と時を同じくして始まりし、お仕事会でのブレーキオイルの小瓶移し(三二三号)ものに、逸話が寄せられたり。渡辺武雄兄が召されし後、兄の在せし会社の倉庫にて、お仕事会での瓶、そのまま残りたるが見出されたり。聡き読み人は、この意味を解されん哉。
 お仕事会なる収益金は、毎月おゝよそ数千円を建設会計に捧げられたるが、一九七三年四月よりは、その額の桁なるもの、俄かに増え続けん。一時特別会計に組まれしが、再び教会建設会計に組まれたる意を探らんと、年表を垣間見ん。
 一九七五年一四日、秋の教会総会にて、会堂
建設研究委員会設置。六名選出。
 一九七六年五月一六日、礼拝後、オルガン購入のための懇談会。
 一九七八年三月一九日、教会定期総会 会堂建設募金額を一〇〇〇万円とする。
 一九七九年九月九日、教会定期総会 会堂建設委員会を設置。
 一九八一年五月三一日、新会堂起工式を執り行う。聖書と会員名簿を建設地に埋める。
 一九八一年十二月六日、新会堂へパイプオルガンの搬入。組み立て調整に着手する。
 一九八二年二月一四日、献堂礼拝を執り行う。


 年表の事項に目を注ぎたれば、新会堂取得への会員の熱き願いの溢れたるを読み取れし。
『教会建設への召命』と題し、一九七六年に雪竹多枝子姉が綴られた稿を抜粋・転載す。
 「・・・。教会の建設は、主と共に生活するための家の、建設であり、信仰の第一歩である。此の世の家は、一生間借りであってもよい。しかし教会が間借りであると言うことは、信仰が間借りであるということに等しい。勿論こゝでいう教会は建物でなく、種の集いを指すのだが・・・。 ・・・・。
 私達の家「神の家」を、力を合わせて守りぬいて行こうではないか。この恩寵教会が、伝道する生きた教会として、ますます世の光、地の塩として成長し続けることを、望んで止まない」
 群の思いが一つになりて、教会建設に甚だしく取り組みし様を描く証として、一九七四年七月「長老会報告」の行ありき。
○お仕事会は時には夜に及ぶこともあるが、九月からは量に拘泥せず、無理をしないこと。
              (木南・記)


 かようまでして、会堂建設費用を捧げし中に、恩寵マーマレードが加わりたる。山本律子姉が当時の様を月報一四四号に寄せられし。
「初めてバザーにマーマレードが登場したのは確か昭和45年頃と記憶しています。その前年当時お元気だった辰巳浜子さんの講習会でおいしい家庭の味の作り方を教えていただき最初は少量作って見た処「いいじゃない、教会で皆で作ってバザーに出しましょう」と云う事になり試行錯誤を重ねて現在のようなスタイルが定着してもう10年以上になります。無農薬のお庭の夏ミカンを喜こんで提供して下さる方々、お砂糖をそっと置いていって下さる方、何より教会のジャムだからと沢山買って下さる大勢の方々、そして忘れられないのは、こんなマーマレードの輪を育てて下さった亡き成田シズ姉の大きな存在です。教会のレッテルをつけて一人歩きしていくマーマレード、私達一層心を込めてと話し合って居ります。 (山本(律)記)」
            (一九八七年五月)
 律子姉が直に宣いしは、公の販売なるもの、一九八二年(昭和五七年)三月二日。同年二月の献堂式の後。三百gのビニール袋入りを小中二〇個を販売し使いし砂糖は四キロ。姉が月報に記されし四五年と異なりたるが、宣いたる折に、これより前の内輪では販売にも触れられたり。なれば、献堂式の後に、恩寵マーマレードとして正式に登場したるは、誠に恩寵なりし哉。
 次からは、「恩寵マーマレードの逸話」(内藤牧師、菅根牧師、他)。「数字で読み解く恩寵マーマレード」に触れて行きたし。

325号 (三)『恩寵マーマレード』逸話編

325号 (三)『恩寵マーマレード』逸話編


◇内藤協牧師
昭和四五年に世に出し『恩寵マーマレード』製造は、新会堂建設計画が始まりし頃より、年々数を増したり。成田シズ姉が、月報一二一号(1983年三月)に『バザーの今昔』と題して「売上高がバザー収入の上位を占めております。前の会堂の狭いお台所で先生にまでお手伝いを願った事もありました」と述べられき。
かの先生なるは内藤協牧師、お手伝いを志すとも技は異ならん。問安より教会に戻りて婦人たちが作り置きしマーマレードの鍋を開けたるが、何か緩きを覚え火を加えたり。果ては黒き物が柑子色のマーマレードに生じしを、後に婦人達より、「内藤せんせ、要らんことは為さらぬように」と優しく諌められたり。
マーマレードの主材料なる夏柑子は、信徒以外の家よりの寄附がありし事、また、お砂糖をそっと置いて行かれし人々につきては、前号に記したるが、《長老会報告:月報一三二号》にて見出されし記事なりては
◇一九八五年二月
   長老会報告:事仕委員会
=バザーの準備を進めているので
ママレード用砂糖の献品の呼びかけ急ぐ=
マーマレード作り、年を重ぬると共に、販売せし外様も変わりたり。売りし目方は、三百瓦。六号のビニール袋に詰めし後更に七号の袋に入れ、間に四角の商標(図1)を挾みたり。
作業に集いし婦人たち、詰めし形の巧拙を互ひに競ひ、時にその詰めたる様見て「あなをかし」と、お箸が転げても可笑し乙女に帰り、笑いさざめきたりしことを、語られたる御人あり。
なお時が経ちて二〇〇九年一月四日、容物は瓶に代わりき。
(大300g 小200g宇野詔子姉、マーマレードノート記録より)。器代わりて、商標ラベルなるも新しき物(図2)となりぬ。
◇原 節子姉
ラベルの相は楕円。内に描かれし図柄なるが単色にては寂しからんと、図柄に色を添えし業、加えてラベルを楕円形に整えし業を、マーマレード作りに心を寄せしもお仕事会に集い得ぬ婦人に委ねたり。「コピー機にて複写なるはいと易し、人力に頼るは非効率ではなきか?」と案を提せし人に、原姉、宣われたり、
「『恩寵マーマレード』なるは、人の思い、力が繋がりて完うせしもの。思いを持ちしが理由ありて集われぬ友共、業分かち合いて整わせば、手にし御方々にもその思いが彩に伝わらん。」
然様に『恩寵マーマレード』、我が教会の建設資金の一部を担わんと始められたるが、今や惻隠の情流れし品として、遍く各地に広まりたり。一つの体なる教会の業として、祝福を注がれ続けたるに、主の憐れみを覚え、主のご愛を拡げられたる先達の信仰に習いたき逸話なり。
◇菅根信彦牧師
鎌倉恩寵教会三代目牧師を務められたる菅根信彦牧師、時にはマーマレード作りに参ぜられし故、夏柑子の一鍋分の要個数(30~35)を識りえん。会員の問安に様々の地を訪ね行き、そのご用に仕え終え教会へ戻られては、 「『あの地の夏柑子は、二鍋分』。
『彼の地の夏柑子は三鍋分』と、道中の夏柑子の実り具合を語られんこと夥しき」と寄せられし逸話あり。


菅根牧師、『お仕事会・バザーに向けて』と題し、牧師室だより(2000・4・9)に当時の様を詳らかに書き留められたる報告にては、
「一月十八日から始まったバザーのための仕事会も終わりに近づいてきました。…。毎週15〜20人の方々が集まり、楽しい会話の中で作業が続けられています。お弁当をいただき、午後2〜3時ごろまで、3鍋、4鍋と出来上がる時もあります。土曜日の会堂清掃の後に、袋詰め作業が行われ、日曜日の礼拝後に受付に並ぶわけです。30年以上にわたって行われてきた作業でもあり、たくさんの良き思い出や失敗もあり、味も秘伝の領域になってきています。一つの作業を通しての交わりは、収穫する人・運ぶ人…買う人・食べる人・宣伝する人なと、次々と人の繋がりを広げていきます。…。」
此の牧師室だよりに報告されたるかの代より十七年経ちし今、調えしマーマレードの数なるは当時に及ばずとも、教会生活の交わりを通して、神の愛を宣べ伝えし一つの業ならんと『恩寵マーマレード』が用い続けられたる事に、感謝の思いはなお深まりゆかん。
         (藤本美知子)
参考:月報、一二一号、一三二号、
   二〇三号
    牧師室だより№ 67