今週のメッセージ
2021年度

「宿命を割る」
マルコによる福音書14章3~9節


 新約聖書の中には、名前が記されていなくとも深い感動を与える人物が沢山登場致します。ペトロとかパウロといったキリスト教史に名を残しているような人物とは違って、その名前も伝えられないまま、小さな出来事だけが伝えられている人々がいます。特に女性の場合には、それが際立っているようです。
 女性に対する偏見や蔑視というものがあったことは間違いありません。しかし皮肉なことですが、名が記されなかったために、かえって無名の女性たちの行為は鮮やかに、そして純粋に語り継がれてきたようでもあります。歴史に名を残す人物は、時が経つほどに存在がゆがめられ、伝説化されてきましたが、無名の女性たちの姿は、人々の心にそのままに残されて来たようです。今朝の聖書に登場する女性にも名前がありません。しかし、イエスは無名の女性の行為こそが世界中で記念として語られると祝されています。
 「この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」、記念という言葉は、アナムネーシスという言葉です。ヴァルター・ベンヤミンという人は、この言葉を、単に故人や昔の事を想起する、記念するのではなく「覚醒的想起」として捉えています。覚醒され、新しく変わって行く復活の命が秘められています。
 さて、シモンの家でイエスは食事の席についていました。重い皮膚病の人の家に入ること、ましてや一緒に食事をすることは考えられないことでした。当時の社会ではこの病気の人は、一般の人々とは一緒に暮らせませんでした。多くの場合、人里離れた山や谷の中で隔離され、ひっそりと暮らさなければなりませんでした。ベタニヤという地名は、貧しさという意味の名です。福音書著者が貧しさという地名にひっかけた、悲しいほどの状況がシモンと無名の女性の背景を語っているようです。ベタニヤという貧しさ、あるいは悲しさを表現する村、そこにある一件の家で、突然一人の女性が何の脈絡もなしに高価なナルドの香油の入った壷を割ってイエスの頭に注ぎかけるという出来事が起こりました。ナルドの香油というものは、インド産の高価な香油でありました。通常小さな壷に密封されて、大切にされていました。実際には、ほとんど使われる事が無かったといいます。日常的に使うものと言うよりも、ナルドの香油は財産のようなものであったようです。もし万一使う事があっても慎重に封がはがされ、わずか一滴二滴が使われた程度でした。それほど大切なものを、なぜ壷を割ってまでイエスの頭に注いだのでしょうか。ナルドの香油は壷を一度割られると、その瞬間から価値を失ってしまいます。事実、一瞬の香りと共に香油は姿を消してしまうそうです。
 女性が割ったナルドの香油は300デナリオン以上の価値があると、周りの人々が計算をしています。当時の労働者の一年間の賃金となります。周りの人々が女性の行為を厳しく咎めたのも無理の無い事かも知れません。
 高価な香油を破棄することは無意味で愚かな事です。そんな無駄使いをするのなら、貧しい人々に施せばいいとは、全くの正論です。事実、困っている人は沢山存在したわけです。その人々のために役立てることは意義深いと言えます。
 私たちの生活や行動は、通常何らかの意味付けや動機があって成り立っています。もしそうした意味付けや動機の無い生活や行動があるとしたら、それは無意味で無駄な生き方と映る事でしょう。しかし、不可解な行動があることもまた事実です。よくよく考えてみれば私たちの生活や行動というものは、何でもかんでも全て意味があり、動機があるのでしょうか。必ずしもそうではありません。時には自暴自棄な、損をする行為があります。これらは価値付けや意味付けの世界から見れば、愚かで無駄なことです。
 8節に「この人はできるかぎりのことをした」という女性の行為へのイエスの言葉が記されています。この8節の言葉を正確に訳すと、「この人は、自分のできる事を待っていたのだ」となります。女性は壷を割る日を待っていたという意味になります。この女性は自分自身を献げる日を待ち続けていたのです。
 私たちはよく宿命とか運命という言葉を使います。多くの場合は、自分自身でそれを受け入れられないような、説明できないような苦しみや悲しみに満ちた出来事に対して使います。ただひたすらに、高価な壷を割らなければならない、何の意味も無い日を待ち続けた女性の人生は、宿命でしょうか、イエスと出会う日は、彼女の運命だったのでしょうか。彼女は、その宿命とも運命ともいうべき高価なナルドの壷を惜しみなく割りました。自分の宿命そのものを割ったのです。イエスと出会い、彼女の宿命、運命が割られ、イエスを十字架へと進ませる使命へと変わったのです。
 惜しむという漢字は、心を昔に向けると書きます。心を思い出や懐かしさ、昔に向けることです。宿命や運命だと昔に心を向けていることから、使命に生きる者へと変えられる出来事が、ナルドの壷を割った女性の出来事です。この出来事は、イエスの十字架への道備えとして位置付けられています。
 イエスの十字架への道、受難の道を、私たちは初めから決まっている神の子の宿命だとか運命だとか勝手に解釈します。それは既に決まっていることだという傍観者的な態度と、何もしなくてもよいという自分に都合のいい距離を保つ態度があります。それこそが心を昔に向けるがごとくの閉鎖的なイエス理解です。
 自分自身を滅ぼす女性の行為とは、イエスよりも先に自らを滅ぼす十字架の先取りの行為であり、イエスの十字架がまさに彼女の行為に応答した主体的な行為であることを告げています。
 歌手・加藤登紀子さんの「さすらいの海へ」という曲の歌詞に次の様な一節があります。「だから一粒の愛が欲しいの。愛という字を心から受けると読むならば」。ベタニヤという貧しさ、「シモンの家」という差別と偏見にさらされる悲しみ、人はそれを宿命、運命と呼ぶ事でしょう。しかし無名の女性は、その宿命、運命を全てイエスに捧げ、壷を割りました。そんな彼女の心をしっかりと受けとめて、イエスは十字架への道を宿命や運命ではなく、自らの使命として進み行かれるのです。
 神は、イエスは人々に愛を注がれるだけではなく、イエスは出会った多くの人々の心を受け、愛を受けとめるが故に十字架へと進まれるのです。それは私たちの心、愛をしっかりと受けとめて下さる神の姿を告げています。一方的な神ではなく、私たちに心を豊かに注がれる、生きた交わりの神なのです。神と人とが互いに応答し合い響き合う中にこそ、イエスは息づき、そんな神に向かって惜しむことなく、心と愛を使って行く時、人生の宿命や運命と呼ばれる苦難が割られ、新しい使命もった器へと変えられて行くのです。

「愛を失わない」
マタイによる福音書24章3~14節


 ここ数年、地球規模で大きな災害が起こっています。世界の各地で多くの人々の命が奪われ、家や財産が一瞬のうちに消え去るといった事態に見舞われています。そして昨年から新型コロナ・ウィルスの世界的なパンデミックが起こり、一年が過ぎました。世界中で大勢の命が奪われていきました。
 キリスト教には、たとえば使徒信条の一句にもあるように、イエスが「かしこより来たりて生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」という終末思想、最後の審判という考え方があります。ところがキリスト教に限らず、世界中に、世の中が乱れに乱れた時や大災害が続くときには必ずといっていいほど、終末思想が浮上してきます。これは世の常といいますか、人間が持っている根本的な心理だと思います。新約聖書の代表的な終末思想はヨハネの黙示録と云われていますが、ヨハネ黙示録はローマ帝国の内戦による混乱と二世紀はじめに起こった地中海地震が背景にあり、その混乱を隠喩的に表現した文学作品です。未来形で現在を表現する黙示文学と呼ばれる、いわば流行文学です。
 今日、皆さんと読んでいます聖書の箇所は、福音書に収められた小黙示録と呼ばれる箇所です。弟子達が「また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか」という言葉があります。ここで弟子達はイエスが来臨すると思っています。しかし、このマタイ福音書の大きな特徴は「インマヌエル=神は我々と共におられる」という考え方です。マタイ福音書は1章23節で、「インマヌエル=神は我々と共におられる」と宣言し、28章20節で「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」というイエスの宣言で締めくくられます。神は、イエスは私達と共におられるという「インマヌエル=神は我々と共におられる」で始まり、「インマヌエル=神は我々と共におられる」で終わるという大きな特徴を持っています。
 イエスが語った真意は、戦乱につぐ戦乱の世の中、また災害が続く中で人々の心に生じる来世への希望、その希望が自分勝手なものであることへの警告が含まれています。だいたい信じる者は救われるとの裏返しは、信じない者は滅びるということです。私達は、神がこのような考えを喜ばないことに気づきたいと思います。
 福音書に収められ、イエスが語ったと設定される小黙示録の意味は、イエスによって世界が乱れ、崩れ去る様が語られながら、そんな世界と同様に人の心も非常にもろいものだという深い嘆きから絞り出された言葉だと思います。この世は流れ変化し、世界は永遠ではなく、絶対でもなく、破壊的な力に飲み込まれるということ。だからこそ人がそうした力に飲み込まれないように「目覚めていなさい」と、この小黙示録の文脈では繰り返し、繰り返し語られます。そして今日の箇所で、イエスは同じ文脈の中で、不法がはびこり多くの人の愛が冷える現実を指摘しています。「愛が冷える」等という言葉は、マタイにしか出てきません。非常に特徴的な表現です。愛が本当に冷え切っていく現実を指摘しつつ、最後まで堪え忍ぶ者は救われると語ります。前後の流れから、最後まで堪え忍ぶとは「愛を失わない」ということです。
 話は変わりますが、いとうひろしさんという方が講談社から出版されている「だいじょうぶ だいじょうぶ」という絵本があります。少しく紹介させて頂きます。主人公の「ぼく」は毎日、おじいちゃんと散歩を楽しんでいます。おじいちゃんと散歩をしていると、次々とおじいちゃんが草花や木々、石ころや空、犬や蟻、怪我をした猫や人に声をかけていくので、一緒に散歩をしている「ぼく」の世界もどんどん広がっていきます。ところが、世界が広がると同時に、ヘビや近所のいたずらっ子、怖い犬、スピードを出している車など、色々な怖い者にも出会うようになります。しかしその度に、おじいちゃんは手を握って「だいじょうぶ だいじょうぶ」と慰め、支えてくれます。いつしか、そのおじいちゃんの言葉は、「ぼく」の心に刻み込まれ、何があっても乗り越えられるようになります。そして「ぼく」は、年月と共に大きく成長していきます。同時に、おじいちゃんは、年を取り寝たきりとなります。絵本のラストは、次のように締めくくられます。「だから こんどは ぼくのばんです。おじいちゃんの手をにぎり、なんどでも なんどでも くりかえします。だいじょうぶ だいじょうぶ。だいじょうぶだよ おじいちゃん」。
 絵本のキーワードは云うまでもなく、「だいじょうぶ、だいじょうぶ」です。それは「がんばれ がんばれ」ではありませんでした。人間の生を支える言葉というものは、意外と短く単純なのかも知れません。更に、本当に命を支える言葉は、「頑張れ」固く己を張り通す言葉ではありませんでした。「だいじょうぶ」という手を握ることから生まれ出る、共に生きる言葉でした。「ぼく」の心に刻み込まれた「だいじょうぶ」という言葉、それは「ぼく」の命を支え続け、一緒に歩み続け育んでくれた、おじいいちゃんの温かな愛、そのものでした。「ぼく」という存在は、心に刻み込まれたものによって、愛を失うことなく、愛が冷えることなく、今度は自らが手を握る者へと変えられ、「だいじょうぶ だいじょうぶ」と命を支える者へ、命に仕えていく者へと変貌していきます。
 私達の手を握っているのは、誰なのでしょうか?私達を心から愛し、手を握りしめて下さっている方は誰なのでしょうか。「いつまでもあなたがたと共にいる」と、私達の手を握って下さるイエスによって、今度は私達が、隣人の手を握り、命に仕えることへと遣わされていきたいと思います。

2021年2月28日

「主は呼び寄せる」
マルコによる福音書10章32~45節


 キリスト教会では、ただ今、レントと呼ばれる期間を歩んでおります。レント・受難節は、イエス・キリストが私たちの罪なる姿のために十字架の死へと歩まれ苦しまれたということを憶えるという期間です。
 先ほど読みました聖書の箇所には、イエスが苦しみ、人々の手によって殺されるということを弟子達に予告しました。しかも、これでもう三度目だというのです。しかし弟子達は誰も理解しなかったようです。
 予告の後に、イエスと弟子のやりとり、また弟子達同志のやりとりが記されています。彼らはイエスに「栄光をお受けになるとき」、自分たちをイエスの右と左に座らせて欲しい、誰よりも良い地位に就かせて下さいと願い出ました。弟子達は自分の地位を求めました。イエスはハッキリとこの願いを退けました。そして、力や地位を欲する姿を否定します。人は誰でも力を欲するものなのかも知れません。社会的な地位や生活の安全と潤いを望む者なのかも知れません。
  ここでもう少し、私たちは聖書を注意して読んでみましょう。すると、ゼベタイの子ヤコブとヨハネの願い出を、こころよく思わない人たちがいることが分かります。41節に「ほかの10人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた」とあります。ここには誰もが自分こそはと思っている姿があります。しかしそこには必ず踏みにじられる者の存在を伴います。だからイエスは、偉くなろう、力が欲しいと願うのではなく、皆に仕えなさい、僕となりなさい、そのように戒めます。
 イエスが仕える者になりなさいと批判するものは、まさに自己中心的な力や豊かさを志向する人間の姿です。力の論理でいえば、力のない者や、貧しい者は蹴落とされてしまうという、この世のあり方への批判です。もし競争に負けてしまったらと想像しますと、非常に恐いことです。人は誰でもそんな恐怖を持っているのではないでしょうか。
 マルコによる福音書を読み解くカギは、私たち人間の抱く「おそれ」です。
 受難節の期間、マルコの語るイエスの生涯のクライマックスは、クライマックスであるからこそ、様々な人間の抱く「恐れ」があらわにされます。福音書の初めに登場しますヘロデはバプテスマのヨハネを恐れ、ポンテオ・ピラトは群衆が騒ぎだすのを恐れました。
 そして、あの弟子達は、イエスと共に行動し、嵐の湖で恐れ、山の上の大勢の人々にどうして食べ物を与えようかと恐れ、心配し、イエスが自らの死をあらかじめ告げるときには死について訪ねることを恐れ否定します。そして、栄光を受けるイエスの最も近くで、その力を得ようと願います。しかしながら、イエスの十字架が近づくにつれ、彼らは、自分の身の安全をはかり、イエスを裏切り逃走します。恐れから逃げていく人の姿が描かれます。聖書は人間を自らの弱さや恐れの中で他者を傷つけ、踏みつけながら生きている存在として描いています。
 この後、皆さんとご一緒に讃美歌513番をご唱和いたします。この曲は、フランシス・ハバーガルという女性讃美歌作家の曲です。フランシス・ハバーガルは小さい頃から、多くの才能に恵まれ、音楽だけではなく、語学も6ケ国語を習得したと言われています。513番の讃美歌を作ったのは、彼女が22歳という時でしたから、本当に驚きです。
 彼女はある時、ドイツのデュセルドルフにあります美術館で、シュタインバーグという画家の「エッケ・ホモ」という作品を見ます。それは十字架にかかっている主イエス・キリストの絵で、絵の周りには「私はあなたのために命を捨てた。あなたは私のために何をなしたか」と書かれていたそうです。この彼女は十字架にかけられたキリストの絵とその言葉に衝撃を受けたそうです。こうして、讃美歌513番は生まれました。
 私達は様々なものを持ち、なおも次なるものを追い求めるものです。弟子達は行き着くところ、イエスの右に左にと偉くなりたいがために争いを起こしました。得よう、得ようと欲し続けることが、本当は貧しさを生み出すものであることを、聖書の描写は私達に語っているのではないでしょうか。何を私達はイエスに向かってなし、イエスに向かって捧げることができるのでしょうか?
神はイエスを私たちのところへとお送りくださり、限りない愛を注いで下さっているのです。仕えなさいとイエスは言いました。しかし、仕えたのはイエスでした。私たちに仕え、捧げ尽くしたイエスの十字架の生涯こそ、利己的な私たちを、それでも愛して下さり、赦して下さる神の御心の出来事なのです。利己的な私たちに仕え、身を捧げ、痛みと苦しみの中で私たちをいつくしんで下さっているのです。
 私達も仕え、自らを捧げ尽くしたイエスに立ち帰っていきたいと思うのです。主は、今もなお私達を呼んで待っていて下さるのではないでしょうか。
 私たちを招き、呼び集めて下さる主の声に気づき、祈り合わせるとき、本当の豊かさが、すでに神によって与えられていることへの感謝に満ちあふれていくのではないでしょうか。天の神の愛がすでにイエス・キリストを通し、私達には限りなく与えられていることを、しっかりと憶えながら、受難節・レントの中を歩んで行きたいと思うのです。

2021年2月21日

「深く根をおろして」
コロサイの信徒への手紙2章6~19節


 ツツジという植物は、日照りが続くと葉っぱがカサカサに乾き自ら葉を落として生き延びるといいます。植物や動物には変化する環境や状況に応じて自らを変えながら生きる能力が備わっているものがあります。それは環境や状況が変わるのを待っていたら絶滅することを知っているからです。人間も生き物であり、当然そのような能力を備えているはずなのですが、なかなか環境や状況に応じて自己の何かを捨てることが出来ないのが現状です。しかし危機的な状況では人間も「葉を落とす」必要に迫られるのではないでしょうか。
 パウロの名によるコロサイの信徒への手紙は、教会に台頭した分派による異なった教えに対して向けられた手紙です。この教会に集う人々は、大抵が異邦人、つまり聖書ではユダヤ人以外の人々であったと言われています。コロサイの町は国際都市として開け、古くからヘレニズム文化や思想が根強いところでした。様々な思想や哲学的な考え方があり、かつ自由な気風があったのでしょう。具体的には天使信仰や天空の星座を拝み、礼拝の対象としていたようです。また、異邦人教会であったにもかかわらず、ユダヤの安息日などの食物規定を重要視し、断食や苦行を奨めるような活動をしていたともいわれています。異教徒的要素とユダヤ教的要素が混在して密教のような様相を呈していたといわれています。
 密教的なものは神秘性に向かっていくので非常に内向きになります。自分たちの宗教生活だけが守られればよいという、他は知らぬ存ぜぬ、関知せずと内向きとなり、また排他的になります。パウロが戦ったのは、このような密教的、個人主義的な分派でありました。
 話は変わりますが、現在日本社会に蔓延している「生活保守主義」とか「私的生活主義」と呼ばれる現象に対して、寺島実郎さんという方が「団塊の世代 わが責任と使命」(PHP研究所)という著書の中で「私的生活主義」というものを次のように論じています。「そもそも全体に対する関心も意識もなく、ただ自分の私的時間空間が確保されることに過敏な心情である」「私的生活主義は思想・信念ではない。生き方のスタイルに過ぎない。思想・信念なき者は、今受けていることに過敏であり、人当たりがよく、対立・対決・緊張を避け、自分が気持ちよく生活できることのみにこだわる。たとえ、世界や社会がどうなろうとも」と語っています。
 「親の背を見て育つ」という表現がありますが、大人が真剣に社会の課題を負って闘い、時代が投げかけるテーマに挑戦している姿を子供達や次世代に提示することができたのならば「私的生活主義」を越えたメッセージとなっていくことを教えられます。
昨年の秋にアメリカでは4年に一度の大統領選挙が行われました。大統領選挙で思わされたことをお話します。皆さんご存知のように民主党のバイデンさんが大統領に選出されました。アメリカの政治や今後の世界情勢についてお話をするのではありません。私の思うことは、大人としての、一人の人間としての言葉や振る舞いについてです。
 私はバイデンさんの勝利がほぼ確定した時、アメリカのCNNのニュースが特別番組を放送していたので、それを見ていました。確かに、トランプさんの今後にも触れていましたが、CNNはとても大切なことに触れていました。CNNのキャスターやコメンテーターは、バイデンさんの演説で発せられた一つ一つの言葉を取り上げていたのです。
 特に私が注目したのが、コメンテーターの一人であったヴァン・ジョーンズさんというオバマ大統領の側近だった方のコメントでした。彼はバイデンさんの演説を取り上げて次のようなコメントをされました。
「トランプ大統領はマイクの前に立ち、カメラに向かって相手を罵ったり、バカにしたり、自分がいかに正しいことやどれだけの成果をあげたこと、そして自分がいかに強いことばかりを語っていた。しかし今日という日は、そんな大人の姿を、もう自分の子ども達に見せなくてよい素晴らしい日となった。保守派も革新派も、白人も黒人も、ヒスパニックも、アジアの人々も、同性愛者も、トランプを支持する人たちも、お互いの違いを認め合って、受け入れ合って、この国を作って行こうと語るそんな大人の姿を、自分の子ども達に見せることが出来た。今日は素晴らしい一日だった」。
私はこれを聴いていて、襟を正されました。子どもは常に大人を見ていること、そして大人に影響されていくことを改めて思わされました。日本の政治家にそれを求めていくのは多分無理でしょうから、私たちは人任せにするのではなく、私達自身が子ども達の前で恥ずかしくない言葉を発し、振る舞いをしたいと思うのです。
 さて、7節にある「キリストに根をおろして」という一句には「深く」という原語にある表現が欠落しています。地上に生きたイエスは人間の深みに、世の深みに根をおろされました。粗末に扱われる命へと近づき、神がその様な存在と共におられることを伝えていきました。神は人間を知らぬ、存ぜぬではない、という神の御心をこの地上で訴え続けました。そして命を粗末に扱うこの世の緒力、社会の抑圧的な力に対峙していきました。故にイエスは政治犯として十字架刑をに処せられました。イエスこそ、ユダヤの神権政治とローマ帝国の植民地主義という具体的な歴史に介入をした神の出来事だったのです。このイエスの出来事を通して、現代の私たちが世の中を見るということが信仰の視座です。「キリストに深く根をおろす」ということです。信仰も「私的生活主義」に陥ってはなりません。キリストに深く根付いて、一人一人が結び合わされ、神に育てられ成長していくものです。信仰は私たちの繋がりの中でこそ育まれていくのです。
 時代や社会の変化に翻弄されるのが私達かも知れません。しかしイエスにあって自ら葉を落とす、私的生活主義という閉ざされた肉の思いを脱ぎ捨てることがパウロのいうイエスに生かされること、開かれた神の豊かさに生かされることではないでしょうか。どのような時であっても、イエスの十字架と復活という出来事に深く根をおろして、共に歩んでいきたいと思うのです。

2021年2月14日

「変えられる人生」
ルカによる福音書9章57~62節


 東京の雑司が谷(ぞうしがや)霊園の近くに、豊島区が保存管理しております雑司が谷旧宣教師館があります。古きアメリカの郊外住宅の特色を余すところなく映し出す近代木造建築物です。50年近くにもわたって日本で宣教活動を続けたマッケレーブ宣教師が住んでいた家でもあります。この雑司が谷旧宣教師館では、マッケレーブ宣教師が従事した日本の地で宣教とその困難さをビデオで紹介しております。
 マッケレーブ宣教師は27歳の時に、召命を受け、その招きに応えて日本へとやって来ました。彼はイエスに従うという使命を、日本の地で、海外の異国の地で果たそうと思ったということです。約50年間の宣教活動でしたが、太平洋戦争が勃発し、強制的にアメリカへと帰国させられました。しかし強制帰国までの50年間もの間、異国の地での困難を覚えつつも、出会いを与えられた一人一人を愛し抜く姿が、雑司が谷旧宣教師館を訪れる者に紹介されます。それはマッケレーブ宣教師自身を深く愛し抜いて下さったイエスの愛の強さが顕された人生とも云えます。
 今朝の聖書の箇所59節で、イエスは「わたしに従いなさい」と、ある人を招きました。従うという言葉、追従という言葉やイメージは、非常に嫌われるものかもしれません。これらの言葉には有無を言わせないニュアンスの響きがあります。しかし、イエスに従うという聖書の出来事には、私達ががんじがらめになっている様々な事柄からの解放的な響きが根底にあります。
 イエスを主と仰ぎ、救い主と告白をし、洗礼を受け、信仰者になるクリスチャンになるということは、イエスが私の心と暮らしの扉を叩いていることに気づくことから始まります。そこからイエスの招きを受留め、自覚し、イエスに従うという人生がスタートします。洗礼とは、始めに神の側からの、イエスの側からのアクションがあり、それに応答するということです。冷静に考えると、自分自身のこれまでの歩みが、とても神の前で顔を上げることが出来ない自分自身を自覚するということかも知れません。
 聖書の描くイエスは、何時でも損得勘定で物事と人とはかる人間に鋭く迫ります。自分かわいさゆえに、信ずることに愛することに己の人生をかける事のできない人間の弱さを暴きます。大変なことや責任が自分の身に強いられることから逃げて、何をやっても無駄だと虚無感の中で己を安住させる人間に、そのあり方を鋭く問いかけます。信ずれば救われる等と、信仰の出来事を心の中の問題だけに限定する人間側のご都合主義を、生前のイエスは容赦なく砕きます。そのようなイエスの姿に触れながら、人は罪深く、弱く、貧しく、自己中心的な自分を赦して欲しい、イエスと共に歩みたいという思いに溢れて信仰者へと変えられていきます。そして心と暮らしがイエスによって整えられてゆくことが喜びとなっていくのです。
 ところでイエスに従うことを求められた人物が「先ず、葬りに行かせてくれ」と、ちょっと待って下さいと云いました。イエスは「死者は死者に任せよ」と言われました。これは死者をおろそかにしろと云っているのではありません。人間の死は大切な生の節目です。誰もが誠心誠意その葬りに臨むべきことです。しかしイエスが意図したことは、人間の生と死を貫く神の愛を知らなければ一切は空虚であることを語っているのです。聖書に納められている「ナインのやもめ」は嘆き悲しむイエスに触れた時、きっと神の限りなき憐れみを感得したのでしょう。それから後も、イエスを思い出すことで、生と死を貫く神の愛を何度も感得したことでしょう。彼女を再び襲ったであろう死の悲しみには、二度と打ちのめされることはなかったことと思います。イエスを思い出すことを通して、そんなイエスの愛の強度が我が身に宿って行くのです。
 話は変わりますが、日本の伝統文化に人形浄瑠璃という文楽があります。人形浄瑠璃の義太夫家である豊竹英太夫(とよたけ はなぶさ だゆう)という方がいらっしゃいます。義太夫(ぎだゆう)というのは、沢山の観客を前にマイクなしで、肉声をもって大声で語るという浄瑠璃の一ジャンルです。舞台に上がるために毎日、毎日何時間も練習を重ね、本番の舞台では、精神的にも肉体的にも限界、がんじがらめの状態だそうです。限界の状態、がんじがらめの自分を基にしつつ、鍛錬された大きな声で人物や物語を朗々と語り分けていくのが浄瑠璃の義太夫節という世界だそうです。すると、そのような限界状態の先に、つまり責任と義務の延長線上に演技の喜び、自由の喜びが待っていると豊竹さんは云います。実は、豊竹英太夫(とよたけ はなぶさ だゆう)さんはクリスチャンです。高校を卒業後に洗礼を受けてから、文楽に入門されました。しかし辛い修行から逃げるように放蕩の限りを尽くし、ついには体をもこわしたそうです。死をも覚悟した時、ふと教会を思い出し、もう一度、教会の門をたたいたそうです。そこで甦ってきたのは、十字架上のイエスの叫びでした。「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになるのですか」。かつて洗礼を受けた時に、心振るわされたイエスの姿を思い出したと云うことです。豊竹さんは振り返って云われます。十字架上のイエスの叫びは「極限の肉の叫びである」と、生きている人間、これから生まれ生きる人間を代表する悲惨と苦痛を担う肉の叫びであると。豊竹さんは、悲惨苦痛にがんじがらめの、悩み不安、悲しみ恐怖の限界に縛られる人間の先に、生と死から解き放たれる復活の自由さを見つめています。
 浄瑠璃の義太夫という語りに強いられる限界は、人間が喜怒哀楽によってがんじがらめになった状態を現しています。しかし、それを越えるイエスの自由さを豊竹さんは伝統文化を通して証されています。
 イエスの云われる「従いなさい」とは、人と人との出会いや、日常的な様々な出来事の中でイエスの言葉と行為とを思い出すこと、それを反芻することです。そしてそのような営みの中でこそ、私達自身の心へと、歩みへとイエスの愛の強度が宿り、私達は造り変えられていくのです。
 イエスに思いを馳せるとは、極限の肉の叫びを挙げたイエスを思い起こすことではないでしょうか。

2021年2月7日

「聖霊に導かれて」
ヨハネによる福音書1章43~51節


 弟子の召命物語の中でも一風変わった物語を描くのが、今日、皆さんと共に読んでおりますヨハネ福音書の記事です。最初の弟子を得たイエスは、次の日にガリラヤに向かいました。その時にフィリポという人物に出会いました。フィリポはペトロとアンデレと同郷であり、ベトサイダ出身でした。ペトロ、アンデレ、フィリポの三人は、ガリラヤ湖畔のベトサイダ出身です。しかしイエスと出会った際には、三人とも皆ガリラヤではなくエルサレム近郊で出会っています。
 さて、ヨハネ福音書だけに登場する独自の人物が描かれます。ナタナエルという人物です。ナタナエルは他の福音書には登場せず、このヨハネ福音書だけに登場する謎の人です。彼はイエスと出会ったフィリポから間接的にイエスのことを聞きます。ナタナエルはフィリポから「ナザレの人で、ヨセフの子イエス」という救い主に出会ったことを知らされます。するとナタナエルは「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と、即座にナザレを蔑視する発言が飛び出します。時代と社会の意識によって、ナタナエルはナザレを差別し、貧しいところだと、さげすむ発言をしています。人は皆、その時代や社会の枠組みによってバイアス=偏見にかかっているのでしょう。
 そんな彼を、まあまあ「来て、見なさい」と、百聞は一見にしかずでしょうか、フィリポはナタナエルを促し、イエスのところへと誘います。イエスと出会いナタナエルは変えられていきます。人間を豊かにするものは出会いです。と同時に差別や偏見からの解放も出会いにあります。自らの偏見の目を解き放つのも、自ら出かけていって実際に出会うことにあります。固定観念や偏見から一歩も外に出なかったナタナエルが、フィリポと出会い、そして促されイエスと出会うために自ら出かけていくのです。当時ギリシャ人は外国人を蔑視していました、そんな差別や偏見をもつ生活圏へ、ギリシャ文化圏へと宣教の翼を広げていくヨハネ教会の新しい歩みが秘められています。
 ところで、イエスは自分のところへ向かってくるナタナエルを見て、「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」と云われました。この言葉は正確には「本当にイスラエル人だ。この人には裏(策略)がない」であり、良くも悪くもイスラエルの伝統や習慣に染まりきっている様です。そこには裏表がなく素直だという意味合いと、エルサレム中心主義と固定観念や偏見まるだしの人だという意味も含まれています。そしてナタナエルは、この初めて出会うイエスが、フィリポと出会う前に、いちじくの木の下に自分がいたことまでも知っていることに圧倒されていきます。
 ペトロ、アンデレ、フィリポは皆、辺境と云われたガリラヤから首都エルサレムへと何かを求めて故郷を後にしたのでしょう。三人はイエスと出会い、ナタナエルを得て、この後、イエスと共にガリラヤのカナに向かいます。周縁から中心に向かっていたのですが、イエスと出会い、中心から周縁へと向かっていく、神の光が鮮明に描かれています。彼らは小さなカナという村で行われる結婚式の席上で、神の光を目の当たりにします。無色透明の水が真っ赤な葡萄酒に換えられていく物語、真っ赤に染まっていく葡萄酒はイエスの十字架の血をたとえています。イエスの十字架はエルサレムのゴルゴダだけで起こるだけではなく、先だってまず周縁で起こっているという独自の理解が表現されています。
 ところで本日の聖書の箇所は、原文でないと分からない事が一点あります。それは「フィリポ」という固有名詞でありながら、不特定なものを表す名詞表現の二通りが表現されていることです。ギリシャ語は固有の名詞の場合は必ず定冠詞が付きます。定冠詞が付くと、特定の人物であるフィリポとなります。ところが定冠詞が付かないと不特定なフィリポになります。フィリポには「特別な目」という意味があります。44節の「フィリポ」には定冠詞が付いていますので、聖書が説明している通りに、「アンデレとペトロの町、ベトサイダ出身」の特定の人物になります。ところが、43節、45節、46節の「フィリポ」には定冠詞が付いていません。不特定な「特別な目」という存在になっているのです。
 43節では、イエスが「特別な目」に出会って「わたしに従いなさい」と言われています。「特別な目」はイエスを従わせています。45節と46節では、「特別な目」はナタナエルに出会って、イエスの事を告げ、ナタナエルに向かって「来て、見なさい」とイエスのもとへと導いています。「特別な目」は、イエスとナタナエルが出会うように両者を導いています。この定冠詞の付いていない「フィリポ=特別な目」という存在は聖霊の働きではないでしょうか。
 ナタナエルがいちじくの木の下から出かけて行った場所は、自分たちの生まれ育った場所でした。何もなく、貧しく、ダメだと思っていた場所でした。イエスと共に歩む時、ダメだと思ったものにこそ神の愛が注がれ光輝いていることを、私達も再発見するのではないでしょうか。それはパウロが云う「弱い時にこそ強い」ではないでしょうか。
 そして、ナタナエルとは「神が与える」という意味の名前です。イエスを通して新しい地平と新しい視座を与えられたナタナエルは、神が、イエスが与える本当のナタナエルとなっていきました。イエスを通して見る自分と他者という存在の再発見、神が与える新しい地平を、私たちも見出したいと思います。
 このナタナエルの解放の出来事は、今の時代にあってとても重要だと思います。今、ナショナリズムが台頭し、国が、民族が対立し合っています。世界中が自国ファースト、自民族ファースト、自分ファーストになっています。隣人を自分のように愛するではなくて、隣人はどうでもよいと自分だけが大事になっています。神の導きによって、私たちはお互いを尊重し合い、共生の営みを成して行くことが、今求められていると思うのです。
 イエスを通して見る自分と他者という存在の再発見、イエスを通して見る自分と他者の貴い人生の再発見、神が与える新しい地平を、私たちは世に示して生きたいと思うのです。その為にも、主の導き、聖霊の導きを祈り願いたいと思うのです。

2021年1月31日

「深い渕をこえて」
ルカによる福音書16章19~31節


 お読みをいただきましたルカによる福音書16章19節以下には、金持ちと貧しい者が死んでどうなったかが、たとえを通して語られています。
 金持ちは上等の服を着て、毎日、贅沢三昧の暮らしをしていました。彼が着ていた服は紫であったと言います。紫という色は当時、高貴さを表す色でした。いつも、着飾って遊んでいたとイエスはたとえられました。そんな彼の家の門前には、毎日の様に貧しく、身よりのないラザロという人物が「せめてその豊かな食卓から落ちる物を求めて、横たわっていた」と言います。実に極端な状況の二人をイエスは、たとえられました。
 やがてラザロは貧しいまま天に召されました。信仰の父と呼ばれるアブラハムのふところに抱かれました。「すぐそばに連れて行かれた」とは、直訳すると「ふところに抱かれた」です。金持ちも死んで葬られ、彼は陰府でさいなまれたと言います。この両者の歩んできた人生について、イエスは何もコメントをしてはいません。たとえば、金持ちが贅沢三昧に暮らしていても、それを罪であるとか、悪いことであると咎めていません。ただ私たちがこの聖書の箇所を読むと、このお金持ちはラザロに対して何もしなかったのか?心が痛まなかったのか?との思いが涌いてくることでしょう。
 金持ちは死んでからようやくラザロに注目をしています。そして「父アブラハムよ、わたしを憐れんで下さい。ラザロをよこして、指先に水を浸し、私の舌を冷やさせて下さい。わたしは炎の中でもだえ苦しんでいます。」と訴えています。私はこの金持ちの訴えに、生前のラザロの訴えが重なります。ラザロは、せめて食卓から落ちる物をとの思いで、門前に横たわり息を引き取っていきました。お金持ちもやがて死んで、アブラハムから「両者の間には、越えることの出来ない大きな淵がある」と言われ断絶を告げられます。金持ちが自分の兄弟への思いを告げると、アブラハムはこことそことは、行き来はできないけれども、モーセと預言者、つまり聖書があるからそれに聴きなさい、そこに突破口があることを告げています。イエスのたとえは死後の世界のことを語っていますが、これは現実の世界ではないかと思うのです。
 話は変わりますが、よく私は次のような質問を受けます。聖書はどう読んだらいいのでしょうか?私なりに答えるのですが、聖書は、一人で読むよりも、出来るだけ沢山の人と読む、共同体の中に参加をして、一緒に加わって読むことが大切です、望ましいということをお伝えしています。
 教会には様々な方がいらっしゃいます。今日も私達は一緒に同じ聖書の箇所に向かっています。でも同じ聖書の箇所を読みつつ立場や状況が違います。たとえば、聖書には多くの病人や、体の不自由な者が登場し、彼ら彼女らをイエスがいやされる場面があります。いわゆる生活が安定し、健康が与えられ、感謝に溢れている人ならば、この箇所を読んで神の力ある業を見出すかも知れません。神の子の奇跡に、不思議さとおののき、畏敬の念を抱きもしましょう。
 しかし、現に病気であり、体の自由がきかず、長い間、苦しみの中で祈り続けている方がいるのならば、どうして神さまは、私の祈りを、訴えを聴いて下さらないのだろうか。神さまは私を見捨てられているのか。一生懸命に教会に通って、一生懸命に礼拝に出席して、一生懸命にお祈りをしているのに、なぜ神さまは、私を助けてくれないのか。疑問や憤り、信じているのに不安にかられ、見えない神さまが、ますます遠のいていくように感じてしまうことでしょう。教会はきれい事だけで、何の解決にもならない、そうつぶやくことでしょう。
 ラザロはお金持ちの家の前で、一体何を思いながら息を引き取って行ったのでしょう。自分の出生や人生をうらんだのでしょうか。自らの訴えと叫びに耳をかさず、目も留めてくれない人の世を、うらみ、嘆き悲しんだのでしょうか。人と人は、本当につながって行くことはできないと涙を流し、疲れ果て、力尽き、死んでいったのでしょうか。人間は他者を思ったり、心にかけたりしない、苦しむ者から、哀れな者から目を背けていく、人と人との間には、断絶の深い溝があると感じていたのでしょうか。そして神の不在、この世と自分の現実に絶望していったのでしょうか。
 イエスのいやしの行為で使用される「いやす、治す」という言葉には「仕える」という意味もあります。イエスは病気であり、体が不自由であり、貧しく、深い悩みと憤り、苦しみ、悲しみの中にある人々に仕えられ、その者と共に生きたということです。病床で共に苦しみ、体が動かない悲しみに、ご自身を置かれたのです。
 だとしたら、たとえで語られたラザロとは、イエスご自身かも知れません。ラザロという名前は「神は助ける」また「神の助け」という意味をもっています。神の助けは私達の目の前に日々、横たわっているという戒めかも知れません。人と人との無理解、互いに受け入れられないという現実、そこに深く口を開け、行き来できない大きな溝があります。しかしそれを越えて、訴え泣き叫ぶような私達の現実に来られたのが、十字架の主イエスだからです。
 出会いを通して与えられた信仰の友、また隣人に心を寄せ、祈りを聴き、その人の苦しみや悲しみを察しつつ、聖書に神の言葉に聴くのであれば、深い大きな淵に、すでにかけられている主の十字架と復活という架け橋に気づくはずです。
 宗教改革者の一人・J.カルヴァンは祈りについて次のように語っています。「祈りとは躓いてから立ち上がり、立ち上がってから歩き出すまでを云うのだ」。嘆き悲しみ、深い疑念に捕らわれ、躓いてしまう人と共に悩み、共に苦しみ、一緒に立ち上がるまで様々な失望や空しさを味わいながらも苦闘の中で祈り続けること、その過程の中に教会の本当の交わりは大きく息づいているのではないでしょうか。
 皆で手を取り合って、祈り合いながら、主イエスの十字架によってかけられたかけ橋を渡ることが聖書に聴くということではないでしょうか。私達がそのように歩み出すことをこそ、神はいつも願っておられるのではないでしょうか。

2021年1月24日

「主のもとに連れてくる」
ヨハネによる福音書1章35~42節


 バプテスマのヨハネの一言で、イエスのもとへ走った弟子、 ヨハネによる福音書では、ここからいよいよナザレのイエスが登場します。
 39節に「午後四時ごろのことである」とあります。 原文では「時刻はほぼ第十時」となります。新改訳聖書と古い文語訳聖書はここを「10時」と訳してしまっています。大きな間違いです。現在の時刻で計算すると午前10時なりますが、ユダヤ式に計算すると第十時は午後4時になるそうです。日の出から計算するので、大体午後4時頃になります。午後4時ですからもう1~2時間で日没を迎えます。よって「そしてその日は、イエスのもとに泊まった」との説明がつくことになります。
 「ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ ペトロの兄弟アンデレであった」。ではもう一人は誰か?これはヨハネ福音書の書き方から見て、ゼベダイの子ヨハネであった可能性が高いです。この福音書では、ヨハネは名前を出さずに21章でただ一度「ゼベダイの子たち」と紹介されるだけです。共観福音書では、ガリラヤに帰ってから、舟も網も捨ててイエスに従った最初の四人というのが、ヨハネの子アンデレとシモン、ゼベダイの子ヨハネとヤコブですから、ここで名前を伏せてあるもう一人の弟子はゼベダイの子ヨハネではないでしょうか。続いて、アンデレが自分の兄弟シモンをイエスのもとに連れてきます。ヨハネ福音書で独特なのは、シモンはイエスからペトロという名前をもらいます。イエスはシモンをアラム語・当時のヘブライ語で「ケファ」と呼びます。「ケファ=岩」という名前でした。
 兄弟という言葉「アデルフォス」、姉妹という言葉「アデルフィー」は共に、どちらが年上でどちらが年下か分かりません。前後の文脈で読み取るしかないのですが、ここでは判断がつきません。ヨハネ福音書では、ペトロとアンドレはどちらが兄で、どちらが弟なのかハッキリはしていません。
 「わたしたちはメシア―『油を注がれた者』という意味―に出会った」と伝えて兄弟がイエスのもとにすぐにやって来ます。注目は、兄弟同志ですぐに理解できたことです。直ぐさま、イエスのもとにシモンが飛んできたということは、それで通じたということです。
 彼らの家庭では、常に旧約聖書の話しがされていたということです。たったそれだけで通じたということは、家庭でいつもモーセや預言者の言葉についての会話があったからなのでしょう。共に祈り合っては信仰のこと、救いのこと、いのちのことを語り合っていたからこそ、いざという時に通じたのです。夫婦でも親子でも兄弟姉妹でも同じですが、そういう宗教的な場作り、祈りの空間作りは大切なのでしょう。
 更に、大事は何時来るか分からないということです。またどの様に到来するか分からないということです。シモンの場合、ここではイエスと泊まりながら話しを聞いていたアンデレからですから、時は夕刻から夜になります。兄弟を介してですから、人を介して救いの到来を察知したわけです。その時に一歩を踏み出したシモン・ペトロの姿に、招きに応えることの大切さを教えられます。大切な時の到来に、いかに応えるかということを改めて思わされます。
 ヨハネ福音書ではシモンはペトロという名前をイエスからいただいています。他の福音書、特にマルコによる福音書を読みますと、熱血漢ですが少々おっちょこちょいの人物を、「ケファ=ペトロス」と名付けたのがイエスになっています。そんなシモンを「岩」と名づけたイエスの意図をはかりかねるのですが。しかし、シモンが後に聖霊の力により、徐々に文字どおり「岩」のペトロに変えられて行ったことを考えますと、ヨハネの福音書編集意図が分かるような気がするのです。
 私自身、時々ふと不思議なことを考えます。イエスは、私たちが信じて自分の一生を主に委ねる時、初めからそのような「岩」とか「鋼鉄」とか、あるいは「純金」とか「清水」とか、およそ私たちが想像もしないような、似ても似つかぬような強い名前や純粋な名前を与えて下さり、背後から後押しして下さっているのではないかと、不思議なことを考えます。イエスご自信がいつも付いているから「岩」のように動じないで神の出来事を証しなさいと、名前のようになるように支え守って下さっているのではないかとさえ思うのです。主イエス・キリストがいつも共にいて下さるからこそ、誰もがイエスに支えられ、守られて真の信仰者となっていくのではないでしょうか。
 更に、イエスとアンデレ、シモンは初めて顔を合わせています。誰からも名前も聞いていませんし、知らなかったお互いです。イエスは、彼らの全てを知っておられたという、その事に「初めに言があった」という著者ヨハネの力点が感じられます。イエスは神と共に創造の初めから被造世界を、人間を見ておられるということです。
 それにしても、ヨハネ福音書では、アンデレがペトロを連れて来ることによってキリスト教に大きな貢献をしたというストーリーになります。これを単に著者ヨハネの創作と捉えないで、現代でも主のもとに人を連れてくる大切さと受けとめたいものです。主のもとに人を連れてくることで可能性が大きく開かれていくのではないでしょうか。連れてきた者も、連れてこられた者も互いに主によって祝されていくのではないでしょうか。
 「私たちの教会の姿勢」にあるように「他人に信仰を述べ伝える事によって信仰は自分の中により確かなものになるという事、即ち伝道することは伝道される事だという二つの事を踏まえて伝道を私たちの教会の使命とします。」このことを常に心に留めながら、私たちもまた、主の元に人を連れて来たいと思うのです。

2021年1月17日

「主の声を聴く時」
アモス書5章10~15節


 以前、ピアノの調律の仕事をなさっている方からお話をうかがうことができました。私は、この聖書の箇所を読みながら、その時のお話を思い出しました。 人間の耳というものは、たった今、聴いたばかりの音を瞬時に忘れてしまうということです。では、楽器の調律というとてつもなく多種多様のばく大な音というものを体得するにはどうしたらよいのか?それはやはり、繰り返し音を聴くということだそうです。しかも、ただ聴くというのではなく、音に向かうということです。
 私たちは感心あることには自然と体が向かいます。関心のないことには心が上の空で、全然、違う方向を向きます。例えば、町の雑踏の中で友人と話しながら歩いているとします。とても大きく、また様々な声や音が回りには溢れんばかりにあります。でもなぜ、友人の声は聞き取れるのでしょうか?それはそこに心が向いているからであり、聴こうとする気持ち、意志があるからではないでしょうか。瞬時に音は忘れてしまう、でも聴こうと向かうことを繰り返すとき、その音は自分の中に住まうということです。 
 旧約聖書の時代の都市や町というものは城壁で囲まれているのが普通でありました。外敵から町を守るためであります。それほど戦争が絶えなかったのでしょう。この町の入り口には大きな門がありました。また城壁に囲まれている町は狭い路地ばかりであったようです。ようするに、敵が万が一、町へ攻め入った時、町の中心に攻め入る時間を稼ぐためのものでもあるようです。平穏な時にはきっと、この狭い路地は市民の交流の場となり、品物が売られ、契約、協定が結ばれていたことと思います。このような城壁に囲まれた町は、一つ一つが独立をした自治体であったようです。行政を司る会議も裁判も門の中で独立をして行われていました。当時の会議、裁判でも多数決という決議方法がとられていました。しかし、貧しい者などの意見や声は取り上げられず、また聴かれず、無視されていた、虐げられていたという現実があり、アモスはそのことを訴え出ました。実際、アモスの生きた時代には、貧しい者からの搾取があり、城壁内の都市は貧富の差が非常に激しかったと言われています。アモスは富自体を批判したのではなく、富を得るその手段に批判を加え、彼らのやり方に神の言葉をもって臨んだのです。貧しい者は存在が失われ、道具として者として売られていたとも言われています。預言者アモスは激しい口調でこの時代と人々、支配者を戒めました。
 ところが、人々はアモスのような戒める者、真実を語る者を町の門から外へと追い出そうとしました。預言者の存在とその語ることを認めようとしませんでした。その時、アモスは13節の言葉を発しました。「それゆえ、知恵ある者は、この時代に沈黙する」と。当時の世界、旧約聖書の背景にございますユダヤ教では、沈黙することは、一般的に賢明なこととされていました。そして神の沈黙とは、絶縁を意味しており、信仰を与えられた者にはとても恐ろしいことでありました。神様が私を選んで下さり、導いて下さるという信仰に立っているので、沈黙されることは関係の破綻であるので、人は神の前で、神の言葉の前で沈黙すべきこととされていました。ですから預言者アモスの沈黙は神の沈黙と等しいものであり、いわば関係の破綻を意味します。人は己の口を閉ざし、沈黙すべき時なのです。しかしながら、そのようなアモスを黙らせようと人々は門の外へと追いやろうとしました。
 現代もまた、聖書の時代のように人が沈黙すべき時ではないかと考えさせられました。アモスを排除しようとした人々にとって、神の言葉は自分たちの思いによってかき消されていたのでしょう。現代でも命の大切さ、尊さが語られても、命が粗末にされています。
 真実を語る者を排除する、そのような時代に神は沈黙されました。声をあげずに沈黙するとは、一体何か、それは神が人間の声を聴いていることではないでしょうか?アモスを沈黙させた神は、じっと静かに人々の声を自分勝手な思いを聴いておられるのではないでしょうか。
 沈黙と言いますと、私は新約聖書の十字架上のイエスを思い出します。イエスは十字架の上で人々のあざ笑う声、憎しみの声、また悲しみの声に沈黙されました。かけがいのない個人の生が踏みにじられました。アモスもイエスもそして、沈黙しました。新約聖書の報告によりますと、突然、百人隊長という人が沈黙を破って「この人は正しい人だった」と告白しています。罵声を浴びせていた彼がなぜ、突然にもそのように叫んだのでしょう。一体何が、彼を、動かしたのでしょうか? 彼は、兵士です。そしてこれまで、どれだけの戦闘を繰り返したのでしょうか。どれくらいその手を、血に染めてきたのでしょうか。時に人のクビをはね、心臓をめがけて剣を抜いたことでしょう。彼はこれまで多くの人々の声を、命を消してきたのです。そして今また彼は、イエスを沈黙の闇へと葬ろうとしていたのです。
 人々の前で殺されるイエスは、父なる神に十字架の辱めも、苦しみも、痛みも、悲しみも、伝えているのです。神はその手に、傷つき、血を流し、もう動かないイエスを抱かれ、「どうして、私のたった独りの愛する子どもが、このような目にあわなければならないのか」、恐ろしいまでの悲しみに涙されたことでしょう。
 百人隊長は、自分の子どもが人間に殺されたにもかかわらず、なおも、沈黙しつづける神だからこそ、その沈黙は自分に向けられた、限りない赦しと愛なのだと気づいたのです。イエスの十字架における神の沈黙は、私たちの犯した取り返しのつかない過ちを、悲しみの中で震えながらも、耐えしのぶ、神の赦しなのです。神の親子を切り裂く十字架の死こそ、私たちの罪なる沈黙です。しかし、この沈黙の中を貫く神の悲しみ、流される涙、痛みをこそ、私たちは聴くために心を向けていくべきではないでしょうか。
 新型コロナ・ウィルス感染拡大下で呻き苦しむ世界のために、今神御自身が悲しみ、痛み、苦しみの中で涙を流されていることでしょう。沈黙におけるの神の調べをこそ、私たちはしっかりと聴き取りたいと思うのです。

2021年1月10日

「神に知られた者」
創世記7章1〜16節


  ノアの箱船の物語は洪水の原因を「地上に人の悪が増し」たと記しているのは注目に値します。ここで言われている悪とは一体なんでしょうか。それは聖書の1〜14節にあります、通称「英雄伝説」もしくは「巨人伝説」と呼ばれる箇所です。神の子らが人間と結びつくことによって、英雄が生まれ出たと聖書は告げています。そして地上に悪が増してゆきます。つまり英雄や巨人になるということは、かえって神へと反逆をすることになると言っているのです。自己拡大と自己中心的な姿、人間が神を神とせずに、定められた限界を超えて自己追求をする姿に洪水の原因、罪なる姿を伝えます。
 現代の私たちの姿に、実に似ていると思いませんか。人類の科学技術への過信は大きな災害をもたらします。また人類の発展の名のもとに自然破壊が進み、自分たちで自分たちの首を締め付けているようでもあります。核兵器の発明は、もはや自然破壊や地域的な紛争だけではすまされません。地球規模の破滅の危機をもたらします。
 それは、聖書の「産めよ、増えよ、地に満ちよ」という言葉を自己拡大として理解してきたとも言えるのです。地を支配するのは神が祝された人間だけだという思想なのです。地球規模の破壊を招く思想を支えてきたのです。今、このような聖書の理解が問われてきています。
 さて、大洪水の中で、ノアの家族だけが救われたということを、皆さんどのよう様に受けとめていますでしょうか。日頃の行いが良かったから、みんなが災いに遭い滅ぼされた中にあって、自分たちだけが救われて「よかった、よかった」ということでしょうか?もしそうであれば、それはエゴイズムであり、ノアも正しくない者の一人となります。もし、自分がノアのようであったらということです。自分たち一握りの者以外、皆滅んでしまったそのような世界を想像して下さい。なにもないのです。家族以外はいなくなってしまうのです。私は、これは恐ろしい世界だと思います。精神的に耐えられないと思います。いずれ息絶えて滅んでしまうでしょう。
 この恐ろしい世界へとノアを歩ませるものは、果たさねばならない使命があるからこそです。「全ての生き物とともに」新しい世界へと旅立たねばならないという神様の使命が あったからこそです。ノアという名前は「慰め」という意味をもつヘブル語です。
 慰めという名を持ったノアは黙々と方舟造りに励みました。その心は張り裂けんばかりであったと思います。あの人も私を笑う、でももう会えない、話をすることもできない、どんなに悲しかったことでしょうか。神様がノアを正しいとされたのはここにあります。どのような悲しみや困難の中にあっても神様がそれを解決して下さる、乗り越えさせて下さる希望に生きる、それが神様の前での正しさと聖書は語るのです。
 私たちは、より頼むということを口にいたします。しかし、ノアの姿から示される神への信頼とは実に厳しいものであることが分かります。けれども、神に憶えられている、なによりも命ぜられている者であることの自覚からくる信仰の歩みを、ノアから学びたく思うのです。
 ノアを通して私たちは神様の慰め、そして神様からの使命が語られているのです。それに気づきたいと思います。それは、私たちも、ノアのように黙々と方舟を造ることです。教会という方舟、教会に連なる一人一人の家庭、生活、大きく私たちの生活フィールドにまでわたる方舟です。私たちはどのような方舟を造ったらよいのでしょうか? それが、いつも私たちに課せられている課題なのです。どのように方舟造りに従事していったらよいのでしょうか?
 7章の箇所ですが、神様の命じた通り、ノアの家族と、全ての生き物の一対ずつが方舟に乗りました。最後に「主は、ノアの後ろで戸を閉ざされた」とあります。大きな方舟を作ったり、家畜をはじめ全ての生き物を方舟に乗せるというたいへんな仕事をやってのけたノアです。そのノアが、最後の「戸を閉ざす」という、いとも簡単なことをしないのはなぜでしょうか?
ノアの大事業を最後に締めくくるのは、神様であるという宣言なのです。支えたもうていたのは神様であるとのことでもあります。
 私たちは方舟を作ることが課題ですと述べました。その方舟作り、すなわち信仰をもった私たちの教会共同体の形作る方舟の最後の完成こそが神様のなさることなのです。更に大切なのは、私たち一人一人の人生の最後も神様が締めくくられるということです。自分で自分の人生に価値や意味を持たせようとするのが、普通の私たちの生き方です。けれどもこのノアの最後をまかせるという信仰が、自分で意味を作り出そうとしてあくせくし、自分だけのことを考える生き方から、私たちを救う信仰なのであります。自分で何事かをして、他人の評価を得て、それを拠り所として生きようとする人生から、神様の御旨にかなうことで自分は何をなすべきか?を問う人生へと転換させてくれるのです。最後を主にまかせる、それは全てを主に委ねることへと私たちを歩ませます。「主は与え、主はとりたもう、主のみ名はほむべきかな」、そのような告白の中で日々歩みたいと願います。
 そこで私たちは6章7節の神様が「後悔する」という言葉を、ぜひ、憶えておきたいと思います。この言葉は、日本語訳として正しくありません。もっと正確に訳すのならば、「私は、自分自身を苦しめる」となります。地上から全ての生き物をぬぐい去ることを神様は、ご自身の苦しみとしているのです。神様の裁きとはこの苦しみの中で行われているのです。
 パウル・テリッヒという神学者はノアの箱船の箇所を通して次のように語っています。「過去と未来とを越えて、永遠に私たちは知られている」。それがイエス・キリストの十字架の出来事なのです。神自らが苦しみの中で、ノアの業、慰めの業を成し遂げられる、そして主イエスによって、赦し生かされている、それは過去、未来を越えて永久に私達が憶えられている、死をも越えて憶えられているという出来事なのです。   
 ノアの方舟の記事は神様の約束と単純に捕らえられやすいです。しかし、それは約束をはるかに超え出た、新しい創造の出来事なのです。死をもって終わっていた人間を、死を越えてなおも憶えられ歩み出す存在として、憶えて下さった、新しく創造してくださった出来事なのです。永久に、神に知られた者として相応しい歩みが生来しますよう、共に祈りを合わせましょう。

 2021年1月3日